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花咲く切り飴、ころころ。
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そういえば、ベビーカーを押している女性を見かけたところから、この話が始まったのだった、と思い出した。
紗川に子供時代があったことに衝撃を受けてしまい、すっかり忘れていた。
(うん、子供時代……あるのが当然なんだけどさ。先生の子供時代って、ほんっと、想像できないんだよな。喫茶店に一人で昼を食べに行く高校生って……普通じゃないだろ)
せいぜい、ファーストフードだ。
「美人でしたか?」
「こっちは2階の窓から見ているんだぞ。そんなことが分かるわけがないだろう」
紗川は苦笑していたが、美人だったに違いないと三枝は思った。
「道路を挟んだ反対側に、春に建ったばかりのマンションがあったんだが、彼女はそこの住人だった。決まった時間に出かけるらしく、僕が食事をしているとエントランスから出てくる」
「よく見てましたね」
紗川は三枝の考えていることが分かったように首を振った。
「日中の温かい時間に散歩に行くことにしていたんだろう。平日の昼食時とはいえ、、同じ道を何度も往復していたら、目についてしまうだろう?」
「え、何でその人、そんなことしてたんですか」
「さて……どうしてだろうな」
紗川の吐息が白い蒸気となって宙に消えた。
高校三年生の紗川がその母子に気がついたのは、喫茶店に入り浸るようになってから、そう何日もたたない頃のことだった。
以前から勉強の時に利用していたのだが、受験シーズンになって毎日利用するようになった。
店に入ると、いつもの店員に挨拶をすると慣れた仕草で窓際のカウンターに着く。店員も慣れたもので、紗川が荷物を置くなり「ご注文は?」と問いかけてきた。
「エビグラタンとブレンドをお願いします」
「いつものですね」
にこやかに答える店員に紗川は頷く。
よほどのグラタン好きと思われているに違いない。
しかし、実際のところは、これが一番価格に見合う味というだけの話で、格段に好きだというわけではない。
(だが、音楽の好みは悪くない)
それまで誰もいなかった店内に紗川という客が来たからだろう。耳障りの良い洋楽が流れてきた。時折、CDを入れ替えている様子を見るに、その日の気分でかけているのだろう。
勉強道具をかばんから出しながら、ふと窓の外に目をやると、建ったばかりのマンションから、ベビーカーを押している女性の姿が見えた。
夏は街路樹の葉で隠れていた視界が、冬になってひらけた。
新築マンションの前だから、子供をつれた若い女性の姿はけして珍しくはない。
だから毎日見ていなかったら、あるいはその時間に何度も道を眺めることがなければ、気づかなかっただろう。
ベビーカーに乗せられているのは、赤ちゃんというよりも、もう自分で歩くことができそうな年の頃の子供だった。
子供はベビーカーから降りて歩きたいのか、いつも手足をじたばたと動かして暴れていた。ベビーカーから下ろしてやれば、つたない足取りで走りだすかもしれない。
ところが、母親は子供を下ろさない。
ベビーカーの前に回っては何かを話して再び押し始める。子供はぐずって泣き、より暴れることもしばしばだったが、母親はけして下ろしはしなかった。
子供が道路に飛び出たら危ないからだろう、最初はそう思っていた。
(またか……)
数式をいくつか解き終え、再び窓の外を見た時、先ほどの母親が坂を降りようとしていた。
先程もその坂を下りていた。
つまり、一度坂を下りて戻り、もう一度下りていることを示している。
紗川は眉を寄せた。
勤めて気にかけないようにしながら、次の大問に取り掛かった。
紗川に子供時代があったことに衝撃を受けてしまい、すっかり忘れていた。
(うん、子供時代……あるのが当然なんだけどさ。先生の子供時代って、ほんっと、想像できないんだよな。喫茶店に一人で昼を食べに行く高校生って……普通じゃないだろ)
せいぜい、ファーストフードだ。
「美人でしたか?」
「こっちは2階の窓から見ているんだぞ。そんなことが分かるわけがないだろう」
紗川は苦笑していたが、美人だったに違いないと三枝は思った。
「道路を挟んだ反対側に、春に建ったばかりのマンションがあったんだが、彼女はそこの住人だった。決まった時間に出かけるらしく、僕が食事をしているとエントランスから出てくる」
「よく見てましたね」
紗川は三枝の考えていることが分かったように首を振った。
「日中の温かい時間に散歩に行くことにしていたんだろう。平日の昼食時とはいえ、、同じ道を何度も往復していたら、目についてしまうだろう?」
「え、何でその人、そんなことしてたんですか」
「さて……どうしてだろうな」
紗川の吐息が白い蒸気となって宙に消えた。
高校三年生の紗川がその母子に気がついたのは、喫茶店に入り浸るようになってから、そう何日もたたない頃のことだった。
以前から勉強の時に利用していたのだが、受験シーズンになって毎日利用するようになった。
店に入ると、いつもの店員に挨拶をすると慣れた仕草で窓際のカウンターに着く。店員も慣れたもので、紗川が荷物を置くなり「ご注文は?」と問いかけてきた。
「エビグラタンとブレンドをお願いします」
「いつものですね」
にこやかに答える店員に紗川は頷く。
よほどのグラタン好きと思われているに違いない。
しかし、実際のところは、これが一番価格に見合う味というだけの話で、格段に好きだというわけではない。
(だが、音楽の好みは悪くない)
それまで誰もいなかった店内に紗川という客が来たからだろう。耳障りの良い洋楽が流れてきた。時折、CDを入れ替えている様子を見るに、その日の気分でかけているのだろう。
勉強道具をかばんから出しながら、ふと窓の外に目をやると、建ったばかりのマンションから、ベビーカーを押している女性の姿が見えた。
夏は街路樹の葉で隠れていた視界が、冬になってひらけた。
新築マンションの前だから、子供をつれた若い女性の姿はけして珍しくはない。
だから毎日見ていなかったら、あるいはその時間に何度も道を眺めることがなければ、気づかなかっただろう。
ベビーカーに乗せられているのは、赤ちゃんというよりも、もう自分で歩くことができそうな年の頃の子供だった。
子供はベビーカーから降りて歩きたいのか、いつも手足をじたばたと動かして暴れていた。ベビーカーから下ろしてやれば、つたない足取りで走りだすかもしれない。
ところが、母親は子供を下ろさない。
ベビーカーの前に回っては何かを話して再び押し始める。子供はぐずって泣き、より暴れることもしばしばだったが、母親はけして下ろしはしなかった。
子供が道路に飛び出たら危ないからだろう、最初はそう思っていた。
(またか……)
数式をいくつか解き終え、再び窓の外を見た時、先ほどの母親が坂を降りようとしていた。
先程もその坂を下りていた。
つまり、一度坂を下りて戻り、もう一度下りていることを示している。
紗川は眉を寄せた。
勤めて気にかけないようにしながら、次の大問に取り掛かった。
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