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本日のおやつは、さつま芋パイです。
遥かなるティータイム 2
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「ところで岸さん、警察が来るまでの間、改めて奥さんについてお話を伺えませんか?」
先ほど、紗川は十分注意をして死体を観察していたようだが、余計なところにうっかり触って下手に指紋を残さないようにと、使い捨てのゴム手袋をはめていた。三枝もあわててそれに倣う。ボディーバッグの中から取り出して装着する。パイプ椅子には触ってしまったが、捜査に差し障りがないことを願うばかりだ。
「……詳しい話、といいますと?」
俊夫の声は震えていた。
二人が揃ってゴム手袋を装着しているという異様な状況なのに、全く動じる様子がない。あるいは既にどうしようもないほど異常な事態だから麻痺しているのだろうか。
この部屋は寒くはないのに、俊夫の声はまるで凍えているようだった。
(あれ……この部屋、どうして寒くないんだろう……)
部屋には暖炉もエアコンもあったがどちらも使われていない。暖炉があるような家だ、寒さを感じないということは、床暖房が効いているのだろうか。
三枝は座っているのをいいことに、こっそりスリッパをぬいでつま先を床に触れさせてみる。廊下に比べて、床が暖かい。
(床暖房の件は、あとで先生に伝えておこう)
そう思いながらスリッパに足を戻そうとした時だ。小指に何かが当たった。
足元を見ると、赤茶色の小瓶が転がっている。
(なんだ、これ……)
思わず拾い上げると、紗川と目があった。
その段になって、ようやく自分が現場の証拠品を動かしてしまったことに気づいた。
小瓶から溢れていた赤茶色で三枝の指先は汚れている。手袋をしているからといって許される失態ではない。
(げ……ヤバイ)
こちらを見る紗川の視線が冷たい。
紗川が「少々お待ちいただけますか?」と俊夫に声をかけている。
(本格的お説教タイムの予感っ!)
いい声というのは、怒った時の迫力もまたひとしおだ。三枝は覚悟を決めて思い首をすくめたが、雷は落ちて来なかった。
「あの……」
「マニキュアだな。まだ乾いていない……」
「どろっとしてますが、完全には固まってないみたいです」
「そうか。なら、キャップは落ちていなかったか?」
「え、あ、はい」
触りこそしないものの、紗川は興味深そうに瓶を見ている。
周辺を見渡しても蓋らしきものはない。
「探してきます」
マニキュアはどう考えても被害者のものだろう。ならばと席を立つ。案の定、遺体の近くまで行くと、転がった四角い家電のようなもののそばに小さなハケがついたキャップが落ちていた。
(全体が水で濡れてる……あ、この四角いの、フットバスか)
マニキュアのキャップを発見すると共に、転がっていた家電らしき物の正体が分かった。
遺体の正面側に回れば、容器の中に足型の印刷があり、用途は一目瞭然だった。中を満たしていたであろう湯はすっかり溢れていた。
しゃがみこんでフットバスと水たまりの中のキャップを見比べていると、すぐ隣に紗川も身をかがめてきた。
長い前髪が邪魔なのだろう。うるさそうにかきあげ、眉間にしわを寄せている。
「被害者はフットバスを利用中に殺されたみたいですね」
三枝は岸に聞こえないよう、小さめの声で言うと、紗川も同じように「そのようだな」と返してきた。
「先生、キャップはひろった方がいいですか?」
「愚問だ」
「あ、はい。そのままにしておきます」
「マニキュア自体は乾かないように、これに入れておけ」
渡されたユニパックにマニキュアの瓶を入れる。これなら多少は乾きにくいだろう。ユニパックとゴム手袋は捜査の基本だ。
「こうしておけば、乾かないですね。乾き具合で死亡推定時刻が予想できるように、入れておくんですね?」
「乾燥を防ごうとしたのは、万が一この中に証拠品が混ざっていた時に固まってしまうと取り出しにくいからだ。時間をはかるためじゃないぞ」
「そうなんですか?」
「マニキュアは使っているうちに気発していくから、使用を重ねるごとに粘度が高くなる。これまでの使用状況が分からない以上、固まり具合は参考にはならない」
「へえ……知りませんでした」
「ペンキや他の塗料でも同じだ。それよりも――」
紗川が遺体の足先に目を向けていた。
遺体の脚は白い。
指先は綺麗に色が塗られている。
「足の爪はすっかり塗り終わってますね。手の方は間もなくって感じだったんでしょうか」
「この状況から分かるのは、フットバスを使用しながら手先のネイルを塗っていたところを襲われたということだ。犯人がこれだけの状況を演出するのは困難だからな」
確かに、と三枝は頷いた。
「先生、あと気づいたんですけど、部屋、あったかいですよね。エアコンも暖炉も使っていないのに」
「床暖房の様だな」
「そうなんです。足おいてみたら、廊下と温度が全然違ってました」
と、そこまで話してから気付く。
発見時、遺体は暖かかった。
「先生。これって遺体の死亡推定時刻をごまかそうとしたんでしょうか」
「それは分からない。明確ではない以上、現時点では検討すべきではない。犯人が意図して稼働させていたのか被害者が望んでそうしていたのか分からないからな。しかし、そのおかげで遺体が冷たくなるまでの時間を稼いだ可能性はある」
この件については、深く追求する必要はなさそうだ。
三枝はほっと息をついたはずみで、大きく息を吸い込んでしまった。
床から立ち上る暖かな空気は、死のにおいを含んでいた。
「う……」
肉体は死亡と同時に腐敗が始まる。
そのにおいが緩やかに三枝の鼻腔を刺激し、まずい、と思った時には苦しい記憶が脳裏にフラッシュバックしていた。
(あの時も……こうだった……)
先ほど、紗川は十分注意をして死体を観察していたようだが、余計なところにうっかり触って下手に指紋を残さないようにと、使い捨てのゴム手袋をはめていた。三枝もあわててそれに倣う。ボディーバッグの中から取り出して装着する。パイプ椅子には触ってしまったが、捜査に差し障りがないことを願うばかりだ。
「……詳しい話、といいますと?」
俊夫の声は震えていた。
二人が揃ってゴム手袋を装着しているという異様な状況なのに、全く動じる様子がない。あるいは既にどうしようもないほど異常な事態だから麻痺しているのだろうか。
この部屋は寒くはないのに、俊夫の声はまるで凍えているようだった。
(あれ……この部屋、どうして寒くないんだろう……)
部屋には暖炉もエアコンもあったがどちらも使われていない。暖炉があるような家だ、寒さを感じないということは、床暖房が効いているのだろうか。
三枝は座っているのをいいことに、こっそりスリッパをぬいでつま先を床に触れさせてみる。廊下に比べて、床が暖かい。
(床暖房の件は、あとで先生に伝えておこう)
そう思いながらスリッパに足を戻そうとした時だ。小指に何かが当たった。
足元を見ると、赤茶色の小瓶が転がっている。
(なんだ、これ……)
思わず拾い上げると、紗川と目があった。
その段になって、ようやく自分が現場の証拠品を動かしてしまったことに気づいた。
小瓶から溢れていた赤茶色で三枝の指先は汚れている。手袋をしているからといって許される失態ではない。
(げ……ヤバイ)
こちらを見る紗川の視線が冷たい。
紗川が「少々お待ちいただけますか?」と俊夫に声をかけている。
(本格的お説教タイムの予感っ!)
いい声というのは、怒った時の迫力もまたひとしおだ。三枝は覚悟を決めて思い首をすくめたが、雷は落ちて来なかった。
「あの……」
「マニキュアだな。まだ乾いていない……」
「どろっとしてますが、完全には固まってないみたいです」
「そうか。なら、キャップは落ちていなかったか?」
「え、あ、はい」
触りこそしないものの、紗川は興味深そうに瓶を見ている。
周辺を見渡しても蓋らしきものはない。
「探してきます」
マニキュアはどう考えても被害者のものだろう。ならばと席を立つ。案の定、遺体の近くまで行くと、転がった四角い家電のようなもののそばに小さなハケがついたキャップが落ちていた。
(全体が水で濡れてる……あ、この四角いの、フットバスか)
マニキュアのキャップを発見すると共に、転がっていた家電らしき物の正体が分かった。
遺体の正面側に回れば、容器の中に足型の印刷があり、用途は一目瞭然だった。中を満たしていたであろう湯はすっかり溢れていた。
しゃがみこんでフットバスと水たまりの中のキャップを見比べていると、すぐ隣に紗川も身をかがめてきた。
長い前髪が邪魔なのだろう。うるさそうにかきあげ、眉間にしわを寄せている。
「被害者はフットバスを利用中に殺されたみたいですね」
三枝は岸に聞こえないよう、小さめの声で言うと、紗川も同じように「そのようだな」と返してきた。
「先生、キャップはひろった方がいいですか?」
「愚問だ」
「あ、はい。そのままにしておきます」
「マニキュア自体は乾かないように、これに入れておけ」
渡されたユニパックにマニキュアの瓶を入れる。これなら多少は乾きにくいだろう。ユニパックとゴム手袋は捜査の基本だ。
「こうしておけば、乾かないですね。乾き具合で死亡推定時刻が予想できるように、入れておくんですね?」
「乾燥を防ごうとしたのは、万が一この中に証拠品が混ざっていた時に固まってしまうと取り出しにくいからだ。時間をはかるためじゃないぞ」
「そうなんですか?」
「マニキュアは使っているうちに気発していくから、使用を重ねるごとに粘度が高くなる。これまでの使用状況が分からない以上、固まり具合は参考にはならない」
「へえ……知りませんでした」
「ペンキや他の塗料でも同じだ。それよりも――」
紗川が遺体の足先に目を向けていた。
遺体の脚は白い。
指先は綺麗に色が塗られている。
「足の爪はすっかり塗り終わってますね。手の方は間もなくって感じだったんでしょうか」
「この状況から分かるのは、フットバスを使用しながら手先のネイルを塗っていたところを襲われたということだ。犯人がこれだけの状況を演出するのは困難だからな」
確かに、と三枝は頷いた。
「先生、あと気づいたんですけど、部屋、あったかいですよね。エアコンも暖炉も使っていないのに」
「床暖房の様だな」
「そうなんです。足おいてみたら、廊下と温度が全然違ってました」
と、そこまで話してから気付く。
発見時、遺体は暖かかった。
「先生。これって遺体の死亡推定時刻をごまかそうとしたんでしょうか」
「それは分からない。明確ではない以上、現時点では検討すべきではない。犯人が意図して稼働させていたのか被害者が望んでそうしていたのか分からないからな。しかし、そのおかげで遺体が冷たくなるまでの時間を稼いだ可能性はある」
この件については、深く追求する必要はなさそうだ。
三枝はほっと息をついたはずみで、大きく息を吸い込んでしまった。
床から立ち上る暖かな空気は、死のにおいを含んでいた。
「う……」
肉体は死亡と同時に腐敗が始まる。
そのにおいが緩やかに三枝の鼻腔を刺激し、まずい、と思った時には苦しい記憶が脳裏にフラッシュバックしていた。
(あの時も……こうだった……)
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