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第3章 成人の儀
73 ファーストキス ※
しおりを挟む――ヴァンの、唇から飲みたい。
それが今の俺の、精一杯の言葉だった。
ヴァンの動きが止まって、じっと俺を見つめている。時が……止まったかのように感じる。
俺は視線を落とした。
きっとヴァンは微笑み、「何を言っているんだ」と言うに決まっている。「大人をからかうにはまだ早いよ」と言って、俺の精一杯の言葉を無かったことにする。
分かっていたさ。
ヴァンは俺を大切にしてくれる。
それは家族とか保護者といった立場の者が、元の世界を捨てた俺に対する精一杯の誠意なのだと。その気はない、という気持ちを、俺が傷つかないような言葉と態度で返す。だから、これ以上の何かを期待してはいけない。
俺とヴァンの間に何も進展が無かったとしても、俺は今のままでも十分幸せだ。
幸せに決まっている。
――大切にされているのだから。
どんなに切ない思いを抱えていても、俺は幸せなのだから。
ふ……と、目の前の人が動いた。
低い位置にある魔法石の明かりは、部屋の全部を照らすほどではない。それでもヴァンが手にしていたグラスのお酒を口に含んだのは、気配でわかった。
顔を上げようとした、わずか先に俺の顎先が軽く、指先で上げられた。
ヴァンの顔が近づいてくる。
「ヴァ、ン……」
そのまま、そっと、唇が重ねられた。
息が止まる。
わずかに開いた俺の唇と深く重なる、驚くほど柔らかい、熱い唇の隙間から、甘い液体が流れ込んでくる。それが先程のグラスに入っていた飲み物だと、遅れて思考が理解した。
甘味とわずかな酸味。
唇に触れている柔らかな感触。熱。
たくさんの量じゃない。けれど、俺の口の中に流れ込んだ甘いものを、俺は、喉を鳴らして飲み込んだ。
じん……と身体の芯が熱くなっていくような感覚がある。
「……ん……」
鼻にかかった息が漏れた。
ゆっくりと、唇が離れていく……。
何が起きたのか分からない。
いや、俺が望んでいたことが起きた。
それなのに。たった一度、唇が重なっただけなのに、俺の思考は完全に止まる。
目の前の人を、呆然と見上げる。
俺の顎先はヴァンの指に捉えられたまま。
ヴァンは……感情の見えない瞳で俺を見降ろし続けている。
怒っているわけじゃない……と思う。けど、一言の喋らず、息遣いすら聞こえない。こんな気配のヴァンは見たことが無い。
「……ヴァ、ン……?」
戸惑い声を上げた。その瞬間、再びヴァンの顔を近づき、唇が重なった。
「んんっ!?」
深い。
角度を変えて深く、強く、重なる唇に驚いて、わずかに開いた俺の唇の間へと、熱いものが侵入してきた。
ヴァンの舌だ。
俺の歯列をなぞり、割って、入り込んでくる。驚く俺の舌をからめとり、撫で、こする。
「……ん、んぅ……!」
咄嗟に手を伸ばして腕にすがった。
けれど俺の顎が動かないよう、押さえるヴァンの指は動かない。肉厚な舌はそのまま俺の上顎をなぞり、撫で、舌に絡みついてくる。その強い動きに翻弄されて、俺は呼吸すらままならない。
「んんっ! ……ん、ぅう……ん」
重なる唇の角度を変えて、更に深く重なっていく。
ヴァンの腕にすがる俺の指に力が入る。
何がどうなっているのか、何が起こっているのか分からない。知らない。これはいったい何なんだ。
ヴァンの熱い舌は生き物のように俺の中を動き回る。
逃げ場も無く、されるがままになりながら……それでも、押しのけるのではなく、腕を伸ばしてヴァンにすがる。
ヴァンの舌が俺の奥に、喉の奥まで撫で入ろうとする。
苦しくて、涙がにじむ。
同時に。
ぞくぞくしている。
首から背筋の強張る感覚が、苦しい、より強い何かに震え始めている。
これは……この感覚は、知っているような気がする。
でも言葉にならない。
「んぅうう……ん、んんっ!」
息ができない。
苦しい。
なのにもっと、欲しい。
絡まり合う舌と舌が、俺とは別の生き物になったように貪欲に求め合う。
溢れる唾液が口の端から流れ、首筋を伝っていく感覚がある。
強くこすられ、なぶられ、溶けていく。
ぞくぞくする。
これは何だ。
背筋が、寒いぐらいに、感じている。
――怖い。
「んんっ!!」
初めて押しのけた。
ヴァンの唇が、指が、離れる。俺は肩で息を吸う。
「はあっ……あっ、はっ、は……あ……!」
汗がにじむ。
喉の奥が熱い。いったい何が起こったのか。
……キスだというのは、わかる。けど……これが……?
「は……はっ、あっ、ヴァ、ン……」
呼吸がなかなか整わない。
肩を上下させながらヴァンの名を呼び、顔を上げる。俺を見下ろす人の表情は……さっきと同じ。感情の読めない、細められた緑の……瞳。
俺は……なにか、ヴァンを怒らせてしまったのだろうか……。
「ヴァ、ン……」
ヴァンは何も答えない。
答えないまま手にしていたグラスをテーブルに置いた。
いつもと違う。いや、俺が「飲ませてほしい」と言った時から、ヴァンの気配が変った。言ってはいけない言葉だったのだろうか。本気で、怒らせてしまったのだろうか。
不安に胸が潰れそうになる。
「……ヴァン」
ふ、と瞳が細められた。
と思った瞬間、ヴァンは身を乗り出しそのまま俺の身体を抱えあげ、肩に担いだ。
「ヴァン!? ちょ!」
有無も言わさず階段を上っていく。
俺は、何がどうなっているのか分からない。分からないまま三階にたどり着き、ベッドに投げ出された。
仰向けて見上げる形になる。俺の横に手をついて、シャツの襟を広げるヴァンが、のしかかり、一瞬、動きを止めた。
俺も息を止めるようにして見上げる。
迷っている……かのような、わずかな間。
ヴァンがひとつ呼吸をつく。そして呻くように口を開いた。
「リク……逃げるのなら、今が、最後だ」
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