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第1章 廃ビルの向こうは異世界でした
22 薄汚れた地下道
しおりを挟む天井から滴る水音が、地下道の冷たい床を穿つ。
明かりを消した闇の中で、黴の匂いがまとわりついてきた。
街の数カ所に出入り口を持つ、人々が「地下道」と呼ぶ場所は、その更に地下に危険な魔物を孕む広大な迷宮が根を張っている。
全容を知る者は一部のみで、まして夜の時間に潜る物好きは僕ぐらいしかいない。
闇は、魔法を強くする。
それは言い換えれば、魔力を持つものの力が増す刻でもある。人も、魔物も、魔法石ですらも……。
あえて明かりを消した暗闇の中、地下道に散らばる魔法石を探し回収し、危険なものは処理をして、人々の役に立ちそうな石だけを店に並べる。時に魔物を倒し、街に抜け出さないよう張った結界の綻びを直す。
それが僕、アーヴァイン・ヘンリー・ホールのメインとしている仕事。
この二年あまり、毎夜のように通ってきたいつもの巡回コースならば、目を瞑っていても気配だけで歩くことができる。僕にとっては歩き慣れた散歩道みたいなもの……のはずなのに。
今夜は集中力を欠いている。息が整わない。
何重にも守りを施した家で眠っているリクを思い、胸がざわついているせいだ。
本人にそうと知られないよう眠りの魔法をかけた。
意識を失わせるなかでも、一番身体の負担にならない系統の呪文だ。朝日が昇れば消える、それまでに戻れば何の不安も抱かせることなく済む。
「リク……」
ひた、と足を止めて呼吸を整える。
名高い魔法使いと呼ばれる僕が、少年の呼び声一つで心乱されている。
眠りに落ちる寸前、「ヴァンさん……」と囁いた。その甘い声が、とろりと心を蕩かせる甘い蜜のように、耳の奥に残っている。
何をどのようにすれば、喜ぶ顔を見ることができるだろう。
幸せにできるだろう。
もうあまり、長い時間は残されていない。
異世界へと通じる出入り口は、魔物の亡骸から生まれた魔法石が放置され、偶然の配置で干渉しあい生まれたものだ。時が経てばその度合いはずれて歪みも消える。そうすれば二度と、同じ場所には繋がらない。
リクは元の世界に帰る手立てを失う。
もしくは、元の世界に帰ったなら、二度とこちらに来ることは無い。
「僕は約束したはずだ」
自分で、自分を叱責するように声に出した。「異世界に繋がる入り口は、僕が見つけておこう」と、そうリクに言ったのだから。反故にすることはできない。
それでももし、リクの気が変ってくれたなら……という、思いが湧きあがる。
詳しいことまでは聞いていないが、リクに父親や兄弟は居らず、母親もまともに帰らないと言っていた。どこで何をしているか気にも留めてもらえず、食事すらままならない暮らしをしていたのは、肉付きの薄い胸を見れば分かる。
「僕ならば、幸せにできるのに……」
幸せにしてみせるのに……。
寂しい思いも、不安も抱かせない。
だからこの世界に留まらないかと言ったなら、リクは考えを改めるだろうか。この胸に頬をつけて、いつまでも、腕の中で微睡んでいてくれるだろうか――。
「……いや、だめだ……」
軽く頭を左右に振って、くだらない邪念を払う。
僕が、僕自身が強要されて不快な思いをしてきたというのに、リクに同じようなことはできない。
どれほど甘い誘いを受けても、僕は僕の望む道を来た。リク自身が自ら望んで選ぶのならまだしも、僕が強要することはできない。
心を揺らしてはならない。
ほんの一時、甘い夢を見せてくれたリクに僕ができることは、望みを叶えることだけだ。
再び、暗い地下道を歩き出す。
異世界への出入り口は間もなく消える。詳細な場所はまだ分からなくても、おおよその見当はついている。見立てではあと数回、確認の為に探索すれば見つけることができるだろう。
問題はその近くに、厄介な魔物の気配があることだ。
今も時折、咆哮が耳に届く。しっかりと聴き分けなければ、風の音と間違えてしまいそうな音だか、僕の耳はごまかされない。
そいつが地下道を抜け出し、街に現れることがないようにする結界は、既に張ってある。だが、こちらから魔物の縄張り……結界の向こう側に行くとなれば話は別だ。それもリクを連れてとなると。
「やはり倒さなければならないか……」
相手の状態を確認して、準備さえ整えれば一人で戦えなくも無い。
放置していても僕の張った罠でいずれ自滅するだろうが、排除するなら早い方がいい。
リクに特別な能力があると広く知られる前――魔法院の邪魔が入る前に、人知れず終えてしまわなければならないという都合もある。
「……ん?」
不意に気になる気配を察して、僕は壁の側に身を寄せた。
人だ。それも複数。
魔法石を狙った探索者か、魔物退治の冒険者か。どちらにしろ、この地下道を利用するなら顔見知りのはずだが、この気配には覚えが無い。最近ゲイブの所に顔を出していなかったから、僕が知らない新参者……と言ったところだろうか。
小さなランタンに入れていた魔法石に呪文を唱え、明かりを灯す。
複数の気配は通路の奥、角で曲がった向こう側から近づいていた。
僕の気配に気づいている様子は無い。互いに認識してもらわなければ、魔物と間違えていきなり攻撃してくる輩もいる。
相手がこちらを認識できるだろう位置に現れてから、僕はランタンを掲げ合図を送った。光に気づいたのか、三……いや、四名の探索者たちは一度足を止め、ゆっくりと近づいてきた。
「お前、冒険者か?」
これはまた、不躾な奴らだ。
薄汚れた髭面の男たちは、身なりから王国の依頼を受けた者のようには見えない。ギルドを渡り歩く探索者か冒険者、狩猟家……盗賊崩れ……といったところだろう。
「私はギャレットに所属する、この街――ベネルクの結界術師ホールの者だ」
「ホール?」
全身を舐め回すように見てから一人が気づいたらしい、ハッと息を飲んで僕を指さした。
「もしかするとアールネスト王国三大結界術師の、アーヴァイン・ヘンリー・ホールか!」
「いかにも。あなた達の所属は?」
「あぁ……」
戸惑いながら顔を見合わせる。そしてその中の一人が、粗野な笑みで口の端を歪めて僕の方に向き直った。
「俺たちは最近ベネルクに流れ着いた者だ。まだギルドの所属は無い。ギャレットっていうと……あの、変なヤツが頭をやっているところだろ?」
ニヤニヤと人を小ばかにするような口調で答える。
すっと、腹の底を撫でる苛立ちを静かな笑みで隠し、僕は男たちを見下した。
「ギルドに所属しない者が無断で都市の地下道に入り込むのは、いささか不作法ではないかな?」
「不作法か」
「まぁ、俺たちはお行儀良くはねぇな」
年若いとみて、僕を見くびるような声で笑う。
「ギルド登録料も安くないからよ。ちゃんと魔法石が出るか下見してからじゃねぇと、挨拶できねぇんだわ。結界術師様よ」
そう笑い「面白い石は見つけたか?」ときいてくる。
今すぐこの場で縊り殺したい気分だ。
「今、この地下道は歪みが発生して、異世界と通じやすくなっている。強い魔物の気配もある。怪我をしない内に出た方がいいですよ」
そう静かに忠告してから、僕は男たちの横を通り過ぎた。
背中に、「イイモノ見つけても独り占めはなしですよ」と笑い声が投げつけられる。
「若造がデカい顔しやがって」
「国を守る御高名なお貴族様は、お屋敷で召使いに囲まれてればいいってのに」
「なんでこんな、薄汚れた地下道をうろついてんだか」
聞こえるように言う悪態に、僕は薄ら笑いを浮かべ、奥へと進んでいった。
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