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第1章 廃ビルの向こうは異世界でした

15 パン屋の信用

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 俺は、この世界の仕組みを何も知らない。
 洗濯や掃除、簡単な食事くらいならできるだろう……と思っていたのに、考えてみたら電子レンジもないんだ。冷蔵庫は、食材を冷やす魔法石を入れた箱――冷蔵ボックスがあったから、少しはどうにかなりそうだけれど。

 ヴァンさんの店――メインは魔法石らしい、俺にはアンティークな小物を取り扱う雑貨店にしか見えない店は、今日もお休みにするという。長く休んでいて大丈夫なのかと聞いたら、「よくあることだから気にしないで」と返された。
 不定休のお店……なのかな。
 俺が心配しても仕方が無いことだけど、無理に休ませているんじゃないかと思うと気が気でない。早く自分のことは全部自分でできるようにならないと。
 ともあれ俺はパン屋の夫人から貰った服を着て、ヴァンさんと街へ出た。




 馬車が行きかい、露店が並ぶ。ヨーロッパの古い地方都市のような街並みの一角に、ヴァンさん御用達のパン屋「ファンの店」はあった。
 エプロンをつけた恰幅かっぷくのいい店の夫人は、四十代半ばくらいだろうか。俺の顔を見たとたんに、両腕を広げて抱きしめられた。

「まぁまぁまぁ! 本当に可愛い」
「あの、あ……くるし……」
「あらごめんなさい。男の子と聞いていたのに、あまりに愛らしいものだから嬉しくなっちゃって。どこでこんな子見つけてきたの?」
「地下道で迷子になっていたところを」
「まぁ、そう。アーヴァイン様が夢中になるのも分かるわ。本当に素敵な黒髪。瞳も黒。黒曜石オブシディアン黒玉ジェットか……黒金剛石ブラックダイヤモンドのようね」

 さっきから俺の耳……おかしくなってる? やたらと可愛いの嵐なんだが。

「ヴァンさん……あの、オブなんとかって……何ですか?」
「石の名前だよ。石にたとえた言葉は最大の賞賛なんだ」

 やっぱり、褒め殺しの嵐だ。
 ひとまず――。

「あの、今朝、焼きたてのパンをもらいました。柔らかくて、すごく美味しかったです」
「あらまぁ、いやぁ、嬉しいわぁ。こんな可愛い子に食べてもらえたなんて。それに、あの鼻たれ息子のシャツやらズボンが……やっぱり着ている子が変ると、服も上品になるのね」

 俺の両腕を取って、着ていた服――シンプルな生成りのシャツとダークブルーのパンツを見て顔をほころばせる。
 上品も何も、ただそのまま着ただけなんだけれどな。
 なぜかヴァンさんが俺の頭を撫でる。すごく嬉しそうだ。

「これから時々、顔を出すことがあると思うので、よろしくお願いします」
「えぇえぇ、たくさんおまけしちゃう。そうそう焼きたてのカップケーキがあるから、持っていって」
「この後、ジャスパーの所に行く予定なので、少し多くもらえるだろうか」
「まぁ、あそこのシェリーちゃんはマカロンが好きなのよね。それも持っていって」

 わぁぁ……この世界にもあるんだ。カップケーキとかマカロンが。
 パン屋の夫人はニコニコしながらせわしなく店の中を歩き回り、ヴァンさんが持って来ていたカゴ――朝、焼きたてのパンを入れていたものに、紙で包んだ焼き菓子を入れて行く。俺は珍しいものを見るように、目で追っていた。

「リク、何か欲しいものは無い?」
「え? いや、何も」
「遠慮はいらないよ」
「えぇっと……どれも美味しそうで」
「あぁ、そうだね」

 天井の高い、落ち着いた色合いの店内を見渡して、クッキーのようなものを幾つかつまんでから、「これは別に」と夫人に渡した。

「帰ってからのおやつにしよう」

 そう耳元で囁いて、懐から金色に輝くコインを数枚出す。
 え……も……もしかして、金貨……とかいうの、だろうか。
 価値はどのくらいか全く分からない。けど……カゴ一杯の焼き菓子が金貨数枚とか、ものすごい高級……だったりするのか?

「あ……あの、ヴァンさん……」
「ん?」
「このお菓子って……いったい、いくら……なんですか?」
「さぁ……そんなに高くはないと思うが」

 さー……っと血の気が引いていく感覚がした。もしかして、ヴァンさんってお金の使い方とか、すっごくアバウト?
 俺が呆然としているのを見て気がついたらしい。

「んん……リクの世界ではどのようにしているのか知らないが、こういう馴染みの店での買い物は、前払いで多く渡しておくことが多いんだよ。今渡したのは、これからも店を利用して受け取る分。季節で材料は変るから、その時々で物の値段も変るだろう」
「だとしても、アーヴァイン様は気前がいいわよねぇ。来年の春先まで毎日パンを買いに来ても、十分なぐらいだよ」
「そうかい?」
「そうとも」

 笑いながら夫人がカゴを渡してきた。受け取ると、香ばしさと甘い匂いが鼻を包む。

「ジャスパー様やご夫人によろしく伝えておくれ」
「ああ、ありがとう」

 夫人にドアを開けられ、俺に続いてヴァンさんが挨拶しながら店を出る。
 俺はやっぱり、半ば呆然としながらカゴの中を覗き込んだ。

「不思議かい?」
「はい……。ヴァンさん……もし、前払いで渡して納得できないものが出来たり、お金を持ち逃げされたらどうするんですか?」

 素朴な疑問だ。
 世の中、あのパン屋の夫人みたいに、良い人ばかりじゃない。
 ヴァンさんは、少し難しそうな顔をしてから答えた。

「こちらから渡した時点で、成果は約束される。わざと手を抜いて粗悪なものを出したり、万が一にも持ち逃げするようなことがあれば、もう誰も依頼しない。魔法を使えば嘘など簡単にバレてしまうしね」

 信用を失う、ということか。投資みたいな感覚なのかな。

「すごい……やっぱり、異世界なんだな……」

 手に持つカゴの中身は、パン屋の誠実な思いが詰まっているのだと思うと、少し身が引き締まる思いがした。





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