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第1章 廃ビルの向こうは異世界でした

02 月と星明かりの下で

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 一瞬、どう答えていいのか分からず返事につまった。
 男は戸惑う俺の姿を上らか下まで見直して、やや首を傾げてから、もう一度きいてくる。

「もしかすると、迷い込んだ来た異世界人……かな?」
「い……?」

 とんでもない言葉が出てきた。

「異世界って……なに?」

 いやきっと、読んで字のごとく、「ことなる世界」って意味なんだろうけれど。
 何だか悪い冗談のようにしか聞こえない。これもコミで俺、クラスの奴らにからかわれている? だとしたらそうとう手が込んでいるし、どういう仕掛けか分からない。

「迷い込んでって、どういう、意味……?」
「うん……」

 外国の俳優みたいな綺麗な顔の男は、あごに手をあてて少し考える素振りを見せてから、ゆっくりと立ち上がった。

「ちょっと長い話になりそうだね」
「えっ……え? 長い?」
「こんな暗くて湿っぽい地下道でする話じゃない、ということだよ。おいで。外はもう日が暮れている頃だろうから早く帰った方がいい。僕の家で説明しよう」

 そう言って片手を出した。
 何のためらいも無く。
 俺は一瞬戸惑い、顔を見上げる。男はおだやかな表情のまま、出した手を引っ込める様子はない。

 どうしよう。

 こんなふうに自然に、誰かに手を差し伸べられたことなんて無かったから、どうしていいのか分からず混乱する。
 このまま手を取っていいのか。
 そんな大げさなことじゃないから、「大丈夫です」と答えて、一人で立ち上がればいいのか……。
 うん、やっぱり、迷惑かけてはダメだよね。

 一呼吸悩んで俺は、後者を選んだ――けれど。

「痛て……っててて」

 思い出したように左膝が痛んでふらついた。
 男は体を支えて顔を覗き込む。
 大きな、がっしりとした手のひらの感覚に俺の心臓が跳ねた。

「怪我か……どこか切ったのかい?」
「あ……いえ、いや、ぶつけただけ……」

 思いっきり、石の床に。顔から倒れなかっただけ良かった。
 地下水に制服のスラックスは濡れているが、切ったような感覚は無いし血の匂いも無い。二、三日放っておけばきっと治る。

「これぐらい、たいしたこと無い……です」
「無理はいけない」

 きっぱりと言い切った男は、落としたLEDライトを拾い、少し首を傾げてから俺に渡した。
 受け取り明かりを消してポケットに入れる。と、男は慣れた手つきで、するりと腰に腕を回してきた。そのまま抱え込むように支える。

「あのっ……⁉」
「肩に掴まって。この辺りは足元が悪いから」

 大丈夫と言って振り払おうにも膝が痛んだ。ここでごちゃごちゃ言っても時間の無駄にしかならない。
 あぁ……もう、こんなふうに人に迷惑をかけるなんて、最低だ……俺。

「すみません……」
「謝るのは僕の方だよ。避けきれなかった」

 軽い声で答えて、前を向いた。
 不思議な石の明かりを頼りに、ゆっくりとトンネルを歩いて行く。
 俺の歩けるペースに合わせているんだろう。なんだか本当に申し訳ない。こんな暗くて狭い場所で走った俺が悪いのに。

「つっ……」

 膝はズキズキ痛んで、つま先もうまくつけられない。
 これは思ったより、かなり強くぶつけたんじゃないだろうか。保険証とか無いのに、膝の皿までやってなければいいけれど……。

「辛そうだ」
「え? いや、たいしたこと無いです」

 反射的に答える。
 不思議な石の明かりに照らされた男の顔が、少しムッとしたような表情になった。そのまま片手に持っていた石を俺の前に差し出す。

「ちょっとこれを持っていて」
「え? あ、はい……ぃいい⁉」

 受け取った瞬間に抱えあげられた。お姫様抱っこというよりもっと上、米とか担ぐときみたいな感じで。って俺、平均的な中学男子よか小さいし軽いけど、それでも四十キロはあると思う。それを軽々と。

「あのっ!」
「頭上げたら、天井にぶつかるからね」

 言われて慌てて姿勢を低くする。
 パッと見、トンネルの高さきは三メートルほどだった。視界のすぐ上に天井があるのを見るなら、この男、百八十センチくらいあるんじゃないだろうか。
 抱えあげられた猫みたいに縮こまると、すぐ側で「ふふっ」と笑う声が聞こえた。

「……すみません」
「気にしなくていいよ、君、軽いから」

 明るい声。怒っている感じじゃない。よかった。
 見知らぬ人とぶつかって、「どこ見てんだ!」とか怒鳴られても不思議じゃないのに。優しい人でよかった。
 それだけでもほっとする。

 迷うことなく進む足音が響き渡る。やがて薄暗いなりにも、ぼんやりとしとした明かりを背中の方に感じた。
 トンネルの出口が近いんだ。
 やっぱりこの先は、俺が来た廃ビルじゃなくてヨーロッパみたいな石造りの街並みなのだろうか。
 そう思うと同時に、トンネルを抜けた。

 見上げた空は茜色から夜の藍に変りはじめ、星が瞬いていた。
 町の中のはずなのに、満天と言っていいほどの星空だ。そして月が、たぶん月と言っていいだろう明るくて大きな天体がある。二つ。

「あ……」

 男が俺を肩から下した。

「石を」
「あっ、は、はい」

 すっかり忘れていた光る石を返すと、男はまた魔法みたいに明かりを消した。どんな仕組みになっているのだろう。

「ここから家まではそう遠くないから」
「あ、歩きます」
「またそう無理をしない」

 と言って両腕を出してきた。もう一度抱え直すという意味だろう。

「そういえば名前をまだ聞いていなかったね。僕は、アーヴァイン・ヘンリー・ホール。魔法石と結界術を専門とする魔法使いをやっている。ヴァンと呼んでくれるといいな」

 魔法? 結界?
 いやいやいやいや、それ、どんな設定なの?

「君は?」

 呆けた俺にきき直す。
 混乱する頭の中から、どうにか言葉をかき集めて俺は答えた。

「あ……か、川端かわばた里来りく……です。里来が名前の方で」
「リク」

 そう呟いて、また「ふふっ」と笑う。
 月と星明かりの下なのに、夏の日ざしに照らされた若葉のような、優しい、緑の瞳が俺を見つめ返す。吸い込まれそうになる。

 すごく……綺麗だ。

 人の顔を、これほどまじまじと見たことなんか無かったんじゃないかと思う。その綺麗で穏やかな雰囲気の人が、俺の頭を撫でて微笑んだ。
 大きくてあたたかくて、優しい手。

 何だろう……胸が、きゅっ、となる。痛い。

「リク、もう心配しなくていいからね」

 言葉を失っていた俺は、また軽々と抱えあげられた。





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