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第一章
第四話「紺碧は、十字架の色。」その漆
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長い沈黙を最初に破ったのは麗子さんだった。
「恭華さん、その人が奥さんと別れるまで待ってるんじゃないかな」
麗子さんの言葉を聞いたとき、本当に麗子さんは世間知らずでおめでたい人だなと思った。世の中、そんなに甘い話なんてあるはずないのに。
でも、俯く恭司の背中越しに見えた麗子さんの瞳は、涙でいっぱいだった。そんな麗子さんを見て、私は麗子さんに対する自分の思いを少し反省した。
きっと、麗子さんも分かっているのだ。世の中、そんな甘い話などないと。もし恭華さんの不倫相手が恭華さんを本当に好きで愛しているとしたら、きっと、できた子供を堕ろさせたりはしない。
「いや、姉貴は待ってなんかないよ。姉貴は将来のことなんかどうでもいいと思ってるんだ。前に姉貴と話したんだけど、姉貴は結婚願望とか、子供が欲しいとか、そういうのはないんだって。明日が今日と同じ楽しくて平和ならそれでいいんだってよ」
恭司は地面を見つめたまま、吐き捨てるように言った。
「そんなの寂しすぎるよ」
麗子さんが泣き出しそうなのが、その声から分かった。
「あの車のチャイルドシート、あれ、誰が買ったの?」
私の問いかけに、恭司はやっと顔を上げた。
「あれはお袋が買ったんだよ。姉貴のやつ、何を考えてたのかしらないけど、ギリギリまで子供を堕ろさなかったんだよ。それでお袋はてっきり、子供を産むんだと勘違いして、あれこれと買い込んじゃったのさ」
「成美さんは、子供の父親が恭華さんの不倫相手だって知ってたの」
私は恭司のお母さんを何故かお母さんとは呼ばずに成美さんと呼んだ。成美さんはお母さんという感じがしなかったからだ。でもその雰囲気が、恭華さんと似ているのかもしれない。
「知ってたよ。妊娠した時、姉貴が自分でお袋に話したらしい。お袋から聞いた」
恭司は海のはるか向こうを眺めているような目をしている。
「お袋はさ、きっと姉貴に後ろめたい気持ちがあるんだよ。そんな素振りは少しも俺たちに見せないけど」
恭司の言葉を聞きながら、私は恭司のその瞳に何が映っているのか気になっていた。
「それは、恭華さんが恭司のお父さんの子供じゃないっていう話?」
恭司が私の顔を見る。
「お袋は姉貴のことを本当に可愛がって育てたんだ。それは親父も同じだった。きっと、姉貴を特別に可愛がることで、姉貴が本当の意味で親父とお袋の二人の子供になると信じたかったんじゃないかな」
「そんなの、なんか間違ってるよ」
麗子さんはそう言うと、恭司の腕を掴み、自分の方へと引き寄せた。
「でも、きっとそうなんだよ。弟の俺から見ても、姉貴はいつも特別扱いされてたんだから。だから、あんな我がままな暴力女に育っちまったんだよ」
「恭華さんは、自分の父親が恭司のお父さんとは違う人だって、いつ気がついたの?」
私の言葉に、麗子さんの腕を振りほどく恭司が再び私の顔を見た。
「祖母さんが死ぬ間際に、姉貴に言ったんだよ。俺たちは父親が違う姉弟だって。俺が小学校の五年生ぐらいの時だったかな。今思うと、祖母さんもなんでそんなことを言ったのか、べつにそんなこと言わなくったって、俺たちは普通に姉弟で、普通に家族だったのに」
そう言うと、恭司は海を見つめた。
「べつに、祖母さんを恨んでいる訳じゃないんだぜ。姉貴があんなことしてるのは祖母さんのせいでもないし」
そして今度はベンチの背もたれに背中を預けると、空を大きく見上げた。
「でも、世の中には知らなくても良いことがあるのかもしれないじゃないか。俺だって嘘は嫌だし、大事なことを誤魔化したりするのは大嫌いだよ。でも、皆がみんな心の強い人間ばかりじゃない。本当のことを知って、それとちゃんと向き合えず、人生から逃げだし人生を投げやりに生きるやつだっていると思うんだよ」
「それは違うよ」
麗子さんが再び恭司の腕を掴み叫んだ。
「私、小さい頃からずっと恭華さんと一緒にいて、恭華さんにたくさん可愛がってもらって、恭華さんを近くで見てるからなんとなく分かる。恭華さんは逃げてないよ。恭華さんは、いつも真剣で、いつも一生懸命で、いつも真っ直ぐで、いつも……」
麗子さんは声を詰まらせ泣いてしまい、その後の思いは言葉にならなかった。
「麗子さん、恭華さんが不倫してること知ってたの」
「あぁ、知ってる。そういうのは、隠してても少しずつ皆が知るようになるんだよ。特に、不倫してる本人同士に罪の意識が無い場合はさ」
恭司はそう言うと、足下に落ちていた小石を拾うと、力いっぱい海へと投げた。しかしそれは海には届かず、海に続く崖の淵へと落ちていく。
「俺は嘘が嫌いだ。嘘をつくとその嘘を誤魔化すために、他人にも自分にも嘘をつかなくちゃいけない。そうやってだんだんと心に闇が出来てくる。一度ついた嘘はこの海みたいに深くて真っ暗なとこへと沈んで溜まっていくんだ」
恭司はそのまま空を見上げ、言葉を続けた。
「でもさ、嘘が嫌いだからといって、何が真実かなんて俺にはわからない。空の向こうのどこかに、本当の真実があるのかもしれないけど、空の向こうなんて、どこまで行っても空だし、結局、俺たちは海と空の間で生きていくしかないのかなって、そんな風に思っているんだ」
私と麗子さんは、海と空の間で立ち尽くす恭司を、ただただ黙って見ているだけだった。
やがて、恭司は振り向き私に向かってこう言った。
「だから、だからさ、綾瀬に聞きたかったんだよ。綾瀬がどんな気持ちで武彦を産んで、どんな覚悟で武彦を育てようと思っているのかを」
私は黙って俯き、私の膝の上で寝ている武彦の顔をじっと見つめた。麗子さんも私の顔をじっと見ているのが分かる。
私は大きく深呼吸した。
「お願いがあるの。今から話すことは武彦が大きくなるまで絶対に秘密にして欲しい」
恭司は大きく、そして力強く頷いた。
そして麗子さんは、何故か私の隣に座り直すと、なんと私の手を握りしめた。
麗子さん、きっと純粋で真っ直ぐな人なんだろうな。そういえば、麗子さんと恭司が婚約しているってどんな話なんだろ。
麗子さんの握りしめる手が、私の緊張を解きほぐしてくれる。
「武彦はね、私が産んだ子じゃないの。私の親友だった子が産んだ子なの。それを私が両親には内緒で育てることにしたの」
恭司はとても驚いた顔をして、そして麗子さんは私の手をより強く握りしめた。
第四話「紺碧は、十字架の色。」完
「恭華さん、その人が奥さんと別れるまで待ってるんじゃないかな」
麗子さんの言葉を聞いたとき、本当に麗子さんは世間知らずでおめでたい人だなと思った。世の中、そんなに甘い話なんてあるはずないのに。
でも、俯く恭司の背中越しに見えた麗子さんの瞳は、涙でいっぱいだった。そんな麗子さんを見て、私は麗子さんに対する自分の思いを少し反省した。
きっと、麗子さんも分かっているのだ。世の中、そんな甘い話などないと。もし恭華さんの不倫相手が恭華さんを本当に好きで愛しているとしたら、きっと、できた子供を堕ろさせたりはしない。
「いや、姉貴は待ってなんかないよ。姉貴は将来のことなんかどうでもいいと思ってるんだ。前に姉貴と話したんだけど、姉貴は結婚願望とか、子供が欲しいとか、そういうのはないんだって。明日が今日と同じ楽しくて平和ならそれでいいんだってよ」
恭司は地面を見つめたまま、吐き捨てるように言った。
「そんなの寂しすぎるよ」
麗子さんが泣き出しそうなのが、その声から分かった。
「あの車のチャイルドシート、あれ、誰が買ったの?」
私の問いかけに、恭司はやっと顔を上げた。
「あれはお袋が買ったんだよ。姉貴のやつ、何を考えてたのかしらないけど、ギリギリまで子供を堕ろさなかったんだよ。それでお袋はてっきり、子供を産むんだと勘違いして、あれこれと買い込んじゃったのさ」
「成美さんは、子供の父親が恭華さんの不倫相手だって知ってたの」
私は恭司のお母さんを何故かお母さんとは呼ばずに成美さんと呼んだ。成美さんはお母さんという感じがしなかったからだ。でもその雰囲気が、恭華さんと似ているのかもしれない。
「知ってたよ。妊娠した時、姉貴が自分でお袋に話したらしい。お袋から聞いた」
恭司は海のはるか向こうを眺めているような目をしている。
「お袋はさ、きっと姉貴に後ろめたい気持ちがあるんだよ。そんな素振りは少しも俺たちに見せないけど」
恭司の言葉を聞きながら、私は恭司のその瞳に何が映っているのか気になっていた。
「それは、恭華さんが恭司のお父さんの子供じゃないっていう話?」
恭司が私の顔を見る。
「お袋は姉貴のことを本当に可愛がって育てたんだ。それは親父も同じだった。きっと、姉貴を特別に可愛がることで、姉貴が本当の意味で親父とお袋の二人の子供になると信じたかったんじゃないかな」
「そんなの、なんか間違ってるよ」
麗子さんはそう言うと、恭司の腕を掴み、自分の方へと引き寄せた。
「でも、きっとそうなんだよ。弟の俺から見ても、姉貴はいつも特別扱いされてたんだから。だから、あんな我がままな暴力女に育っちまったんだよ」
「恭華さんは、自分の父親が恭司のお父さんとは違う人だって、いつ気がついたの?」
私の言葉に、麗子さんの腕を振りほどく恭司が再び私の顔を見た。
「祖母さんが死ぬ間際に、姉貴に言ったんだよ。俺たちは父親が違う姉弟だって。俺が小学校の五年生ぐらいの時だったかな。今思うと、祖母さんもなんでそんなことを言ったのか、べつにそんなこと言わなくったって、俺たちは普通に姉弟で、普通に家族だったのに」
そう言うと、恭司は海を見つめた。
「べつに、祖母さんを恨んでいる訳じゃないんだぜ。姉貴があんなことしてるのは祖母さんのせいでもないし」
そして今度はベンチの背もたれに背中を預けると、空を大きく見上げた。
「でも、世の中には知らなくても良いことがあるのかもしれないじゃないか。俺だって嘘は嫌だし、大事なことを誤魔化したりするのは大嫌いだよ。でも、皆がみんな心の強い人間ばかりじゃない。本当のことを知って、それとちゃんと向き合えず、人生から逃げだし人生を投げやりに生きるやつだっていると思うんだよ」
「それは違うよ」
麗子さんが再び恭司の腕を掴み叫んだ。
「私、小さい頃からずっと恭華さんと一緒にいて、恭華さんにたくさん可愛がってもらって、恭華さんを近くで見てるからなんとなく分かる。恭華さんは逃げてないよ。恭華さんは、いつも真剣で、いつも一生懸命で、いつも真っ直ぐで、いつも……」
麗子さんは声を詰まらせ泣いてしまい、その後の思いは言葉にならなかった。
「麗子さん、恭華さんが不倫してること知ってたの」
「あぁ、知ってる。そういうのは、隠してても少しずつ皆が知るようになるんだよ。特に、不倫してる本人同士に罪の意識が無い場合はさ」
恭司はそう言うと、足下に落ちていた小石を拾うと、力いっぱい海へと投げた。しかしそれは海には届かず、海に続く崖の淵へと落ちていく。
「俺は嘘が嫌いだ。嘘をつくとその嘘を誤魔化すために、他人にも自分にも嘘をつかなくちゃいけない。そうやってだんだんと心に闇が出来てくる。一度ついた嘘はこの海みたいに深くて真っ暗なとこへと沈んで溜まっていくんだ」
恭司はそのまま空を見上げ、言葉を続けた。
「でもさ、嘘が嫌いだからといって、何が真実かなんて俺にはわからない。空の向こうのどこかに、本当の真実があるのかもしれないけど、空の向こうなんて、どこまで行っても空だし、結局、俺たちは海と空の間で生きていくしかないのかなって、そんな風に思っているんだ」
私と麗子さんは、海と空の間で立ち尽くす恭司を、ただただ黙って見ているだけだった。
やがて、恭司は振り向き私に向かってこう言った。
「だから、だからさ、綾瀬に聞きたかったんだよ。綾瀬がどんな気持ちで武彦を産んで、どんな覚悟で武彦を育てようと思っているのかを」
私は黙って俯き、私の膝の上で寝ている武彦の顔をじっと見つめた。麗子さんも私の顔をじっと見ているのが分かる。
私は大きく深呼吸した。
「お願いがあるの。今から話すことは武彦が大きくなるまで絶対に秘密にして欲しい」
恭司は大きく、そして力強く頷いた。
そして麗子さんは、何故か私の隣に座り直すと、なんと私の手を握りしめた。
麗子さん、きっと純粋で真っ直ぐな人なんだろうな。そういえば、麗子さんと恭司が婚約しているってどんな話なんだろ。
麗子さんの握りしめる手が、私の緊張を解きほぐしてくれる。
「武彦はね、私が産んだ子じゃないの。私の親友だった子が産んだ子なの。それを私が両親には内緒で育てることにしたの」
恭司はとても驚いた顔をして、そして麗子さんは私の手をより強く握りしめた。
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