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第一章
第三話「牡丹は、心花の色。」その壱
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「史恵さん、自分のやっていることが分かってる? 貴女みたいな人を、世間では泥棒猫っていうのよ」
「京子先生、待ってください。史恵と浩一さんは、たまたまSNSで知り合ったんです。浩一さんが京子先生の彼氏さんだったなんて史恵は全然知らなかったんです」
「綾瀬さん、貴女は黙っていて。これは榊原さんと私の二人だけの問題なの」
「でも京子先生、京子先生、京子先生!」
………………。
「綾瀬、綾瀬、起きろよ」
私の肩を誰かが強く揺らす。
「綾瀬、もう店に着くぞ」
車の窓を流れる街の景色がぼんやりと視界に入り、街の喧騒と恭司君の声が私の耳に届いた。
「お前、普段ちゃんと寝てるのか? ずいぶん疲れた顔してるぞ」
「ごめんなさい。私からお願いして連れてきてもらったのに、なんか寝ちゃって」
私は玄さんの運転する車の後部座席に、恭司君と二人で座っていた。私達の座席の後ろには、先ほど市場で仕入れた食材が山の様に積まれている。
今朝は玄さんと恭司君に頼んで、市場への仕入れに一緒に連れて来てもらったのだ。
「気にするなよ。働きながら子育てもやってるんだ。人より何倍も疲れが溜まるのは当然だよ。疲れてる時は、無理せずしっかりと寝た方がいいぜ」
私は恭司君の優しい言葉に思いがけず頬が熱くなった。恭司君の最初の印象は粗野で取っ付き難い感じがしたけど、それは私の勘違いで、実は優しくて本当はお喋りなのかもしれない。市場でも魚やお野菜の見分け方を一生懸命に私に説明してくれたし。
「京子先生って、高校の時の先生なのか」
恭司君の言葉に、私の顔が無意識に嫌な顔になったのかもしれない。
「あっ、いや、寝言で言ってたから」
私は恭司君の顔を見れず、俯いたまま独り言のように呟いた。
「他に、私、他に何か言ってませんでした」
「何かぶつぶつ言ってたけど、何を言ってるのかなんて少しも分かんなかったぜ。そんなこと一々気にすんな」
恭司君の少し強引な言葉が私の心を温かくする。京子先生と再会し鉛色の雲に覆われていた私の心が、温かい陽の光が射し込んで溶けていくようだ。
「実は一昨日、高校の時の先生が訪ねて来たんです」
「名古屋から宮﨑まで、わざわざ会いに来てくれたのか。いい先生なんだな」
その言葉に、私はまたも露骨に嫌な顔をしたのかもしれない。
「なんだ、その顔。ありがた迷惑なんですって書いてあるぞ。綾瀬、お前は何でもすぐ顔に出るんだな」
『悠希ちゃん、思ってることがすぐ顔にもピアノの音にも出るんだよね。それ、すっごく可愛い』
恭司君の言葉に、史恵の言葉が脳裏に甦り、二人の声がユニゾンを奏でる。私はギュッと拳を握りしめた。
「私、十月から通信高校へ通おっかなって思ってるんです」
「十月からって、そんな年度の途中でも大丈夫なのか」
「実は私、高校を中退したつもりだったんですけど、どうやら、休学扱いになってたらしいんです」
「なんだ、やっぱり良い先生じゃないか」
恭司君の言葉に、私は少しムッとした。私は確かに退学届けにサインをしたはずなのに、私の決意をあの人たちは勝手に無駄にして。
「綾瀬、俺は中卒で板前になった。でもこん歳になるとな、高校へいって勉強もしてみたかったなと思う時があるんよ。べつに勉強が好きな訳でもねえし、高校へ進学しちょったとしてん、結局は板前になったと思うっちゃが、それでも、少しぐらい回り道をして、青春っちゅうもんを人並みに楽しんでみてもよかったんかなと思うっちゃね」
店の裏口に車を寄せながら、普段は無口な玄さんが、力強い口調で話しかけてくれた。でもそれは、私だけじゃなく、高校を中退して板前の見習いをしている恭司君に向けられた言葉なのかもしれない。
「そん話、店長には相談したんか」
「いえ、まだです」
「店長に相談してみぃ。きっと協力して、応援してくれるかぃ」
玄さんはそう言いながら、私の顔を見て優しく微笑んでくれた。
私はその微笑みに、返す言葉を見つけられず、ただ黙って頷いた。
「綾瀬、お前、本当に涙もろいんだな。さっ、荷物下ろすの手伝ってくれよな」
恭司君もそう言って笑ってくれた。
私はその時初めて、恭司君の顔をまじまじと見た気がする。お姉さんの恭華さんと同じ切れ長の目、しゅっとした顎。茶色に染めているけど板前さんぽく短く角刈りにした髪型。
あれ、なんか、恭司君……こんなにかっこ良かったっけ?!
そして、荷物を下ろしながら恭司君と二人きりになった時、思いがけない事を恭司君が言いだした。
「綾瀬、今度の休み空いてるか? 空いてるなら一緒に海に行かないか?」
私は突然のことに驚き、心臓の鼓動が早くなるのを感じた。
「いや、海って海水浴とかじゃなく、ドライブっていうか。なんか旨いランチでも奢るし、べつに子供も一緒でもかまわないし」
私はその日に何か用事が入ってないか思い出そうとしたが、その日の予定を何一つ思い出すことができなかった。
「大丈夫。次の休みは大丈夫だよ」
「良かった。じゃ、また後で連絡する」
そうして私と恭司君が連絡先を交換すると、それをこっそりと見ていたかの様に、タイミングよく恭華さんが現れた。
「綾瀬ちゃん、お帰り!」
「恭華さん、お疲れ様です。ただ今戻りました」
私が恭華さんの元気な声に癒されている横で、恭司君の顔が曇っていることに、その時の私は少しも気がつかなかった。
「京子先生、待ってください。史恵と浩一さんは、たまたまSNSで知り合ったんです。浩一さんが京子先生の彼氏さんだったなんて史恵は全然知らなかったんです」
「綾瀬さん、貴女は黙っていて。これは榊原さんと私の二人だけの問題なの」
「でも京子先生、京子先生、京子先生!」
………………。
「綾瀬、綾瀬、起きろよ」
私の肩を誰かが強く揺らす。
「綾瀬、もう店に着くぞ」
車の窓を流れる街の景色がぼんやりと視界に入り、街の喧騒と恭司君の声が私の耳に届いた。
「お前、普段ちゃんと寝てるのか? ずいぶん疲れた顔してるぞ」
「ごめんなさい。私からお願いして連れてきてもらったのに、なんか寝ちゃって」
私は玄さんの運転する車の後部座席に、恭司君と二人で座っていた。私達の座席の後ろには、先ほど市場で仕入れた食材が山の様に積まれている。
今朝は玄さんと恭司君に頼んで、市場への仕入れに一緒に連れて来てもらったのだ。
「気にするなよ。働きながら子育てもやってるんだ。人より何倍も疲れが溜まるのは当然だよ。疲れてる時は、無理せずしっかりと寝た方がいいぜ」
私は恭司君の優しい言葉に思いがけず頬が熱くなった。恭司君の最初の印象は粗野で取っ付き難い感じがしたけど、それは私の勘違いで、実は優しくて本当はお喋りなのかもしれない。市場でも魚やお野菜の見分け方を一生懸命に私に説明してくれたし。
「京子先生って、高校の時の先生なのか」
恭司君の言葉に、私の顔が無意識に嫌な顔になったのかもしれない。
「あっ、いや、寝言で言ってたから」
私は恭司君の顔を見れず、俯いたまま独り言のように呟いた。
「他に、私、他に何か言ってませんでした」
「何かぶつぶつ言ってたけど、何を言ってるのかなんて少しも分かんなかったぜ。そんなこと一々気にすんな」
恭司君の少し強引な言葉が私の心を温かくする。京子先生と再会し鉛色の雲に覆われていた私の心が、温かい陽の光が射し込んで溶けていくようだ。
「実は一昨日、高校の時の先生が訪ねて来たんです」
「名古屋から宮﨑まで、わざわざ会いに来てくれたのか。いい先生なんだな」
その言葉に、私はまたも露骨に嫌な顔をしたのかもしれない。
「なんだ、その顔。ありがた迷惑なんですって書いてあるぞ。綾瀬、お前は何でもすぐ顔に出るんだな」
『悠希ちゃん、思ってることがすぐ顔にもピアノの音にも出るんだよね。それ、すっごく可愛い』
恭司君の言葉に、史恵の言葉が脳裏に甦り、二人の声がユニゾンを奏でる。私はギュッと拳を握りしめた。
「私、十月から通信高校へ通おっかなって思ってるんです」
「十月からって、そんな年度の途中でも大丈夫なのか」
「実は私、高校を中退したつもりだったんですけど、どうやら、休学扱いになってたらしいんです」
「なんだ、やっぱり良い先生じゃないか」
恭司君の言葉に、私は少しムッとした。私は確かに退学届けにサインをしたはずなのに、私の決意をあの人たちは勝手に無駄にして。
「綾瀬、俺は中卒で板前になった。でもこん歳になるとな、高校へいって勉強もしてみたかったなと思う時があるんよ。べつに勉強が好きな訳でもねえし、高校へ進学しちょったとしてん、結局は板前になったと思うっちゃが、それでも、少しぐらい回り道をして、青春っちゅうもんを人並みに楽しんでみてもよかったんかなと思うっちゃね」
店の裏口に車を寄せながら、普段は無口な玄さんが、力強い口調で話しかけてくれた。でもそれは、私だけじゃなく、高校を中退して板前の見習いをしている恭司君に向けられた言葉なのかもしれない。
「そん話、店長には相談したんか」
「いえ、まだです」
「店長に相談してみぃ。きっと協力して、応援してくれるかぃ」
玄さんはそう言いながら、私の顔を見て優しく微笑んでくれた。
私はその微笑みに、返す言葉を見つけられず、ただ黙って頷いた。
「綾瀬、お前、本当に涙もろいんだな。さっ、荷物下ろすの手伝ってくれよな」
恭司君もそう言って笑ってくれた。
私はその時初めて、恭司君の顔をまじまじと見た気がする。お姉さんの恭華さんと同じ切れ長の目、しゅっとした顎。茶色に染めているけど板前さんぽく短く角刈りにした髪型。
あれ、なんか、恭司君……こんなにかっこ良かったっけ?!
そして、荷物を下ろしながら恭司君と二人きりになった時、思いがけない事を恭司君が言いだした。
「綾瀬、今度の休み空いてるか? 空いてるなら一緒に海に行かないか?」
私は突然のことに驚き、心臓の鼓動が早くなるのを感じた。
「いや、海って海水浴とかじゃなく、ドライブっていうか。なんか旨いランチでも奢るし、べつに子供も一緒でもかまわないし」
私はその日に何か用事が入ってないか思い出そうとしたが、その日の予定を何一つ思い出すことができなかった。
「大丈夫。次の休みは大丈夫だよ」
「良かった。じゃ、また後で連絡する」
そうして私と恭司君が連絡先を交換すると、それをこっそりと見ていたかの様に、タイミングよく恭華さんが現れた。
「綾瀬ちゃん、お帰り!」
「恭華さん、お疲れ様です。ただ今戻りました」
私が恭華さんの元気な声に癒されている横で、恭司君の顔が曇っていることに、その時の私は少しも気がつかなかった。
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