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第一章
第一話 「青藍は、始まりの色。」その伍
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しかし、屈託なく笑う恭華さんの横顔は、同時に私の心の緊張を少しずつ緩めてくれる。
「とりあえず簡単にスタッフを紹介するわね」
恭華さんに連れられて私は店内を移動する。この安心感、なんか久し振りだ。
「こちらが板長の玄さん。本名は永田玄助さん。みんな玄さんって呼んでるわ。玄さん、新人の綾瀬さんよ」
「おっす、宜しゅうな。まぁ、気張り過ぎんで最初は気楽にやれて」
玄さんは店長よりも少し歳上の感じで、そしてとても大柄、そのせいか狭い厨房がより狭く見える。というか料理店の厨房が実際はこんなに狭いとは驚きだ。
「あと遅番で鈴木君って若い料理人がいるけど、シフトは綾瀬さんとちょうど入れ替わりになるから、あまり顔を会わすことはないかな。でもスッゴいイケメンなんだよ」
「そうなんですか」
私は嬉しそうに話す恭華さんに苦笑いをする。
「でも新婚なんだよね。残念だよねぇ」
私は恭華さんの発言に何と返事をしていいの分からず、苦笑いを繰り返した。
すると厨房の裏口から私と同じ歳ぐらいの少年が現れた。姿からすると板前の見習いだろうか。
「そして、これが雑用の藤崎恭司。私、藤崎恭華の不肖の弟なのです」
「うるさいな、姉貴。気をつけなよ新人、恭華の恭は凶暴の凶だからな」
恭華さんの弟はそう言いながらも、黙々と厨房の掃除を始めた。その姿を私は知っている。迷うことなく何かに一生懸命に向き合っている、その人の姿だ。
「恭司はね、学校を中退して、ここで板前の見習いをしているんだ」
そう言う恭華さんの横顔は、まるで子供の成長を見守る様な、お母さんみたいな優しい横顔だった。
しかし、その言葉を弟さんは腹立たしく感じたらしい。
「姉貴、余計なことは言わなくていいよ。それより新人、今日は子供は一緒じゃないのかよ」
その言葉は明らかに八つ当たりだった。でもそれが私への嫌みではなく、自分の姉に対する八つ当たりだと思うと、兄弟姉妹のいない一人っ子の私としては、それすら微笑ましく思えた。
「はい、今日から真面目に働くので、子供は家の祖父母に預けてきました」
「……そっか、そうだよな」
私の明るく元気の良い返事を意外に感じたのか、それとも私への発言を悔いているのか、弟君は忙しく動かしている手を少しだけ止めた。
「こないだ、うちの店にお客で来てたろ。お祖母さん、お祖父さんと一緒に。そん時に見たよあんたの子供」
「そうですか」
私の言葉に、恭司君は初めて顔を上げた。
「あんたの子供、すっごく可愛かったよ。だから、あんたも頑張って働けよな」
私は、訳もなく突然、涙がこみ上げてくるのを感じた。
「恭司、あんたって呼ぶのやめなさい。綾瀬さんはこれから一緒に働く仲間なんだから」
いつの間にか恭司君の背後に回り込んだ恭華さんが、そう言いながら恭司君の頭を拳骨で叩いていた。
「わかった、わかったよ」
そう言って恭華さんの拳骨から逃げる恭司君は、なんか普通の男子高校生みたいで微笑ましく思えた。
「だろ、綾瀬さん、姉貴はほんと直ぐ手が出るんだよ。ほんと凶暴なんだぜ。だから男にも愛想尽かされて逃げられてばかりなんだよ」
厨房に鈍い音が響く。
「痛てっ!」
恭華さんの拳骨の勢いが、冗談か本気か分からなくなった頃、店長が厨房に顔を覗かせた。
「ほら、恭華君、姉弟のスキンシップはその程度にして、そろそろ綾瀬君に仕事を教えてあげて」
店長の一言で、皆の顔が途端に真面目になる。やっぱり店長って、そういう存在なのかな。
「だいたい、なんで俺よりも恭華君達のが店に着くのが遅いの。降りるバス停を二人して間違えちゃったの?」
店長の嫌みな言葉は、それとは裏腹に恭華さんと私を和ませた。店長は不思議な人だ。
「あっ、確かにそうですよね。私達はバスを降りてからお店の前で女子トークして盛り上がっていただけですけど、店長は寄るところがあるとか言って、出勤前に愛人に会いにバスを途中下車したんですよねぇ」
「恭華君、黒木さんは普通にここの大家さんだからね。昨日は少し飲んだから、黒木さんのお宅に車を停めさせてもらったんだよ」
「車と一緒に、店長も泊めてもらえばよかったのに」
私は店長と恭華さんの会話を聞きながら、何故か心がもやもやするのを感じた。
「あの、店長。そんな遅い時間でもバスはあるんですか」
私の言葉に店長と恭華さんが少し面食らう。
「いえ、その、仕事が遅い時は私も利用できるかなと思って」
「大丈夫、心配しなくてもそんな遅い時間まで仕事させたりしないから。それに、残念ながらバスの最終も早いしね」
店長の言葉に恭華さんが嬉しそうに突っ込みを入れる。
「おっ、では昨夜はどうやってご帰宅されたんですか。大家の黒木女史とあれであれであ~なったんですか」
「藤崎さん、私のことを黒木女史と呼ぶのはやめて下さいね。それから、店長とは藤崎さんが期待するようなことは何も起きてませんからね」
そう言ってお店の正面玄関から入って来たのは、長い黒髪がとても似合う素敵な女性だった。
「この人はね、女性のこととなると、自分からは何もできない意気地無しなんですよ」
黒木さんという女性は、私が知っている女性の中で、たぶん誰よりも大人な感じがした。
「では黒木さん、やはり黒木さんの方から押し倒したんですか」
「恭華君、だから何も無かったって黒木さんも言ってるでしょ。黒木さんも、お願いですからこの辺りで勘弁してください」
店長の言葉に、黒木さんと恭華さんは、示し合わせたように不敵な笑みを浮かべ、それを見た店長はとても可愛く苦笑いをした。
あれ、店長は可愛いのか?!
黒木さんと店長が奥の事務室に消えると、私は恭華さんにレジの打ち方、メニューの受け方、テーブルのセットの仕方、他にも接客の基本を色々と教わった。
「いい、今教えたことが直ぐに出来なくてもいいのよ。ゆっくり覚えればいいし、不安や心配な時は、直ぐに声をかけてくれればいいからね。それにほら、これを付けとけばうちのお客さんなら誰でも綾瀬ちゃんを応援してくれるから」
そう言って、恭華さんは最後に研修中のバッチを私の胸に付けてくれた。
こうして、私のお仕事、第一日目が始まったのだ。
第一話 「青藍は、始まりの色。」 完
「とりあえず簡単にスタッフを紹介するわね」
恭華さんに連れられて私は店内を移動する。この安心感、なんか久し振りだ。
「こちらが板長の玄さん。本名は永田玄助さん。みんな玄さんって呼んでるわ。玄さん、新人の綾瀬さんよ」
「おっす、宜しゅうな。まぁ、気張り過ぎんで最初は気楽にやれて」
玄さんは店長よりも少し歳上の感じで、そしてとても大柄、そのせいか狭い厨房がより狭く見える。というか料理店の厨房が実際はこんなに狭いとは驚きだ。
「あと遅番で鈴木君って若い料理人がいるけど、シフトは綾瀬さんとちょうど入れ替わりになるから、あまり顔を会わすことはないかな。でもスッゴいイケメンなんだよ」
「そうなんですか」
私は嬉しそうに話す恭華さんに苦笑いをする。
「でも新婚なんだよね。残念だよねぇ」
私は恭華さんの発言に何と返事をしていいの分からず、苦笑いを繰り返した。
すると厨房の裏口から私と同じ歳ぐらいの少年が現れた。姿からすると板前の見習いだろうか。
「そして、これが雑用の藤崎恭司。私、藤崎恭華の不肖の弟なのです」
「うるさいな、姉貴。気をつけなよ新人、恭華の恭は凶暴の凶だからな」
恭華さんの弟はそう言いながらも、黙々と厨房の掃除を始めた。その姿を私は知っている。迷うことなく何かに一生懸命に向き合っている、その人の姿だ。
「恭司はね、学校を中退して、ここで板前の見習いをしているんだ」
そう言う恭華さんの横顔は、まるで子供の成長を見守る様な、お母さんみたいな優しい横顔だった。
しかし、その言葉を弟さんは腹立たしく感じたらしい。
「姉貴、余計なことは言わなくていいよ。それより新人、今日は子供は一緒じゃないのかよ」
その言葉は明らかに八つ当たりだった。でもそれが私への嫌みではなく、自分の姉に対する八つ当たりだと思うと、兄弟姉妹のいない一人っ子の私としては、それすら微笑ましく思えた。
「はい、今日から真面目に働くので、子供は家の祖父母に預けてきました」
「……そっか、そうだよな」
私の明るく元気の良い返事を意外に感じたのか、それとも私への発言を悔いているのか、弟君は忙しく動かしている手を少しだけ止めた。
「こないだ、うちの店にお客で来てたろ。お祖母さん、お祖父さんと一緒に。そん時に見たよあんたの子供」
「そうですか」
私の言葉に、恭司君は初めて顔を上げた。
「あんたの子供、すっごく可愛かったよ。だから、あんたも頑張って働けよな」
私は、訳もなく突然、涙がこみ上げてくるのを感じた。
「恭司、あんたって呼ぶのやめなさい。綾瀬さんはこれから一緒に働く仲間なんだから」
いつの間にか恭司君の背後に回り込んだ恭華さんが、そう言いながら恭司君の頭を拳骨で叩いていた。
「わかった、わかったよ」
そう言って恭華さんの拳骨から逃げる恭司君は、なんか普通の男子高校生みたいで微笑ましく思えた。
「だろ、綾瀬さん、姉貴はほんと直ぐ手が出るんだよ。ほんと凶暴なんだぜ。だから男にも愛想尽かされて逃げられてばかりなんだよ」
厨房に鈍い音が響く。
「痛てっ!」
恭華さんの拳骨の勢いが、冗談か本気か分からなくなった頃、店長が厨房に顔を覗かせた。
「ほら、恭華君、姉弟のスキンシップはその程度にして、そろそろ綾瀬君に仕事を教えてあげて」
店長の一言で、皆の顔が途端に真面目になる。やっぱり店長って、そういう存在なのかな。
「だいたい、なんで俺よりも恭華君達のが店に着くのが遅いの。降りるバス停を二人して間違えちゃったの?」
店長の嫌みな言葉は、それとは裏腹に恭華さんと私を和ませた。店長は不思議な人だ。
「あっ、確かにそうですよね。私達はバスを降りてからお店の前で女子トークして盛り上がっていただけですけど、店長は寄るところがあるとか言って、出勤前に愛人に会いにバスを途中下車したんですよねぇ」
「恭華君、黒木さんは普通にここの大家さんだからね。昨日は少し飲んだから、黒木さんのお宅に車を停めさせてもらったんだよ」
「車と一緒に、店長も泊めてもらえばよかったのに」
私は店長と恭華さんの会話を聞きながら、何故か心がもやもやするのを感じた。
「あの、店長。そんな遅い時間でもバスはあるんですか」
私の言葉に店長と恭華さんが少し面食らう。
「いえ、その、仕事が遅い時は私も利用できるかなと思って」
「大丈夫、心配しなくてもそんな遅い時間まで仕事させたりしないから。それに、残念ながらバスの最終も早いしね」
店長の言葉に恭華さんが嬉しそうに突っ込みを入れる。
「おっ、では昨夜はどうやってご帰宅されたんですか。大家の黒木女史とあれであれであ~なったんですか」
「藤崎さん、私のことを黒木女史と呼ぶのはやめて下さいね。それから、店長とは藤崎さんが期待するようなことは何も起きてませんからね」
そう言ってお店の正面玄関から入って来たのは、長い黒髪がとても似合う素敵な女性だった。
「この人はね、女性のこととなると、自分からは何もできない意気地無しなんですよ」
黒木さんという女性は、私が知っている女性の中で、たぶん誰よりも大人な感じがした。
「では黒木さん、やはり黒木さんの方から押し倒したんですか」
「恭華君、だから何も無かったって黒木さんも言ってるでしょ。黒木さんも、お願いですからこの辺りで勘弁してください」
店長の言葉に、黒木さんと恭華さんは、示し合わせたように不敵な笑みを浮かべ、それを見た店長はとても可愛く苦笑いをした。
あれ、店長は可愛いのか?!
黒木さんと店長が奥の事務室に消えると、私は恭華さんにレジの打ち方、メニューの受け方、テーブルのセットの仕方、他にも接客の基本を色々と教わった。
「いい、今教えたことが直ぐに出来なくてもいいのよ。ゆっくり覚えればいいし、不安や心配な時は、直ぐに声をかけてくれればいいからね。それにほら、これを付けとけばうちのお客さんなら誰でも綾瀬ちゃんを応援してくれるから」
そう言って、恭華さんは最後に研修中のバッチを私の胸に付けてくれた。
こうして、私のお仕事、第一日目が始まったのだ。
第一話 「青藍は、始まりの色。」 完
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