未来を夢に忘れて

野田莉帆

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階段は登るべきか

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 マンションについた。傘をたたんで、ふるふると水滴を落とす。灰色がかった床の、色が濃くなる。不意に、にきびだらけの床が、顔をしかめたような気がした。そして、何かがしゃべった。

「おねえちゃん、だめだよ。あめつぶは、おそとではらわなきゃ」

 私は思わず、辺りを見回したけれど、薄暗く人の気配はしなかった。左横に郵便受けがあり、右横にエレベーターがあり、奥に階段がある。いつもと変わらない見慣れた風景だった。

 でも、いつもと違って、ひんやりとした空気が首筋にまとわりついて離れない。背筋が寒い。

「ごめんね。おねえちゃん、こわくないよ。ぼくはね、かいだんの2だんめなんだ」

 私の耳に、声が届く。幼さを残す高めの声は、確かに反響していた。

「おかえり」

 そう言われて、つい「ただいま」と小さく返してしまう。私の声が硬いのとは裏腹に、階段の2段めはやわらかく笑った。

「おねえちゃんはいいなあ。おそとにいくことができるんだもの。それに、やっぱりぼくも、みんなとのちがいがほしかった」

 しばらく私は、そこに立ちつくした。当分は、階段の2段めを踏むことはできない気がしていた。

 目を落とした灰色の床。固い床は、ところどころに傷や汚れがあるものの「床」は「床」。階段の1段めと2段めは高さも素材も同じで、色が剥げかけている箇所や汚れている箇所に違いはあるけれど、パッと見ただけではわからない。

 1段めも2段めも「階段」は「階段」。私は私の都合のために、高さも素材も均一である「階段」が「階段」であってほしいと、願ってしまう。

 ひどく悲しいことのように思えた。階段は、姿形や自分の在り方までも生まれた時から他の人に決められてしまっている。

 それは、将来や生き方を決められてしまうなんて次元の話ではなかった。でも、もしかしたら自分で決断をしない私も気づかないうちに、他の人に自分を形成されてしまっているのだろうか……。

 私が歩くと、コツコツと音が響く。不意に、赤い靴のかかとの部分を少しずつ削っていた床が、ぐにゃりと凹んだ。私の体重に圧された分だけ、少し床がめりこんでいた。

 驚いて、片足を上げようとしたら、ぬちゃっと緩い粘土状のものが靴にこびりついていた。床に向かって、糸を引いている。

 静かに、その足を私は元の場所に戻した。ぐにぐにと床が、やわらかくなっている。すでに私の足は靴下まで、どろどろだった。踏んでいる場所から、灰の色が薄く変化していく。

 ——汚れた靴と靴下は、きれいになるだろうか。

 私の中で、呑気な疑問が浮かんだところで、ほんの少し私は笑ってしまった。

 足と床が固まって離れないわけではないから、異常事態ではあるけれど緊急事態ではない。この事態について、思い当たる節があるわけはなく、とにかく私は外に出てから考えようと思った。

 日常で起こりえないことが、実際に起こってしまう。他の人がどうかは知らない。でも私には、そういう日もある。

 未だに足元は、ぬちゃりと嫌な音をさせていた。私は後方を振り返りながら出口へ1歩、足を下げる。もう1歩。また、1歩。

 滑りそうになる足が、踏み止まるようにして体を支える。重みのある手提げと持ちづらい傘が、体のバランスを取ることを妨げていた。

 すでに地面は灰色ではなく、濁りのある茶色へと変化していた。心なしか粘度も下がって、水っぽくなっている。

 今度は靴の中に、だんだん水が浸みこんでくる。足に力が入るたびに、ぐじゅぐじゅと音を立てた。大きな雫が、頭や肩に強く当たる。冷たい。そう、今日は雨が降っている。

 私が建物から出たと思った頃には、建物自体が忽然と消えていた。コンクリートに固められていない、むき出しの地面が家と家の間に広がっている。白塗りの看板に空き地という黒い文字が、くり抜かれていた。
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