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【一日目】木曜日
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世間は今日からお盆休みらしい。
フリーランスの自分に長期休暇は関係ないが、この一週間は打ち合わせの予定がないので、随分と気が楽だ。
生活のリズムを崩さない為にも、いつも通り朝九時に喫茶店「サワロ」へ向かった。もしかすると仕事が休みのあの男も来ているのかもしれない、と淡い期待も正直あった。
我が家から坂を下った商店街にサワロはあり、道中にある大きな公園からはミンミンとうるさい蝉の声が聴こえる。
カントリー調の重い扉を押して店に入ると、いつもの朝とは違って満席に近かった。長期休みでも出掛ける予定がない者たちは、涼しくて落ち着けるこういう店に集まってくるのだろう。
「おはようございます。申し訳ない、今朝は相席でよろしいですか?」
いつものように洒落たウエスタンシャツを着こなすマスターにそう言われ、カウンター席が二席空いているのにと顔をしかめる。マスターは私の返事を待たず「こちらへ」と案内してくる。
相席は嫌だったし、こんなに混雑していたらマスターと会話することも儘ならないから「出直します」と切り出そうとした。
しかし、案内された窓際のテーブルには半年前に再会したあの男が、座ってこちらを見ていた。マスターはお冷とおしぼりを置き「いつものでいいですよね」とカウンターの中へ行ってしまった。
仕方なく席に座り、目の前の男に挨拶をする。
「時々お会いしますね」
「あぁ、昼過ぎに店の前ですれ違うな」
「えぇ」
「すれ違うようになったのは半年前からだ。それ以前は会わなかった」
どうやら私のことを認識してくれていたようだ。
「そうなんです。元々昼は自炊していましたが、半年程前からモーニングだけでなく、ランチもこちらでいただくようになりました」
「なるほど」
アナタと会う為に、とはもちろん言えない。
男は今日もジャージとTシャツ姿だった。テニススクールは休みのはずなのに、朝からジョギングでもしてきたのだろうか。
マスターがコーヒーとトーストを運んできてくれた。私と男の前に、それぞれ同じ物を置きながら話し掛けてくる。
「佐藤さんの家のエアコンが壊れたそうです。この猛暑にエアコンがなくては死んでしまいますよね。けれど修理が来るのは一週間後だそうで。ちなみに鈴木さんは、プレイ時間が一週間も掛かるカードゲームをお試し体験してくれる人を探しているそうです。ついでにわたしは明日、明後日、明々後日と開催される商店街の夏祭りでかき氷屋を手伝ってくれる人を探しています」
一息でそう告げたマスターは、呼び声が掛かったテーブルに注文を取りに行ってしまった。
私も佐藤も、何も言えずに黙ってモーニングを食べ始める。マスターに私の意中の人が佐藤だとバレていたということだろうか。このタイミングで佐藤の家のエアコンが壊れるというミラクルを、マスターが私の好機にしてくれたのだろうか。男同士だということに疑問を感じたりもせずに……。
バターを塗りたくったトーストの、最後の一口を飲み込んだところで「よかったら、家に泊まりませんか?」と声に出して伝えてみた。
もうすぐ四十才。今行動に移さなくてどうする、と勇気を振り絞ったのだ。
佐藤は自分と同級生だったことは忘れてしまっているだろう。だからこそ、今ここで新たな関係を築きたいのだ。
「いいのか?それはありがたい。代わりにカードゲームとやらに付き合わせてもらう」
卑猥なゲームなのだとは、マスターは伝えてくれなかった。佐藤はゲーム内容を知ったら驚くだろう。それでも、泊めてもらうという恩義がある以上は断らないと思いたい。一度決めたことはやり通すスポーツマンらしく義理堅い男だから。
「それと、俺はマスターのかき氷屋を手伝いたいと思っている。せっかくだから一緒にどうだ?」
かき氷屋というと、嫌でも高校の夏合宿を思い出したが、イケオジなマスターの助けになるのであればと「では一緒に手伝わせてもらいます」と答えた。
モーニングを食べに来る客は途切れることなく、マスターはずっと忙しそうだった。
顔を見たことはないがいつも厨房にいる人と二人きりで、朝八時から夜八時まで店を回している。
個人的な話をする余裕はなく、会計の時に「かき氷屋、手伝わせてください」とだけ伝えた。
「それは、ありがたいです。お二人に手伝ってもらえるなら、心強い」
「明日は何時に伺えばいいだろうか」
「祭りは十一時からなので、十時にいらしていただければ」
二人で頷いて、揃って店を出た。外は暑くあっという間に汗が吹き出す。
「さて、どうしましょうか?」
二人きりになった途端に緊張が増した。これから一週間、二人で卑猥なカードゲームをして、かき氷屋を手伝って、私の家で眠るのだ。
佐藤は「そうだな」と考えを巡らせている。相変わらず部長然とした男だ。そして私は相変わらず副部長のように、指示を待ってしまう。
高校生の頃、私たちは「鈴木」「佐藤」と苗字で呼び合っていた。私に負けず彼も平凡な苗字だから、今再び苗字で呼び合ったところで、過去を思い出すきっかけにはならないだろう。
それでも違う呼び方をしたほうが、新しい関係を築けるような気がした。
「まず、アナタをなんと呼べばよいですか?」
「ん?」
その質問が佐藤には意外だったようで、驚いた顔をしている。苗字以外の選択肢が無かったのかもしれない。それならばまずは自分からと「私のことはムネと、呼んでください」と伝えた。宗久のムネだ。
すると佐藤も「では、ハルと呼ぶといい」と答えてくれたので頷く。晴臣のハルだと分かった。
「ムネ、一旦オマエの家に寄らせてもらっていいか?場所を覚え、その後、俺は一週間分の着替えを取りに自宅へ戻り、出直したい」
二人で蝉の声を浴びながら日陰になった坂を上がり、サワロから徒歩十分の私が一人で暮らすマンションへと向かった。
「このマンションの八階です」
角部屋の我が家は日当たりの良い2DK。唯一の趣味である観葉植物がジャングルのように部屋のあちこちに置いてある。ハルも「これは凄いな」と面白がってくれた。
仕事抜きで友人と呼べる人が少ない私の自宅に、客が来るのは初めてだった。まさか記念すべき一人目がこの男になるとは思いもしなかった。
キョロキョロとしているハルに向かって、私は一方的にカードゲームの説明を始めた。
「これは大人の恋愛指令カードゲームという名称だそうです。私はカードゲームデザインの仕事を請け負っていて、その会社の新人に体験してくれる人を探してほしいと頼まれました」
厚口の上質紙で作られた名刺サイズの試作カードを、裏返した状態でハルに見せる。
「この二十一枚のカードには、それぞれ卑猥な言葉が書かれているんです。朝、昼、晩と一枚ずつカードを引いて、そこに書かれている指示に従います」
「卑猥な?」
「えぇ、卑猥な」
ハルが戸惑っているのは充分に分かったが、有無は求めなかった。目の前でカードをトランプのように入念にシャッフルし、壁際のコンソールテーブルの上に置いた。
「今朝の分を、上から一枚引いてください」
私はもちろんカードのラインナップを知っているから、正直心臓がバクバクとしている。今この一枚目に『セックス』と出る可能性もあるのだから。そしたらハルはどうするだろう。怒って帰ってしまうだろうか、それともゲームを続けようとしてくれるだろうか。
ハルがカードを一枚取り、ゆっくりと裏返した。そこには『頬にキス』と拍子抜けするような言葉が書かれていた。思わず「ふー」と息を吐いた私の肩を、ハルはガシッと力強く掴み右頬に「チュっ」と音を立てキスしてきた。なんの躊躇いもなく。
そして「着替えを取ってくる」と玄関から出て行った。
一人残された私は、朝からの急展開についていけず、寝室のベッドの上に倒れ込んだ。なんなんだあの男は。マスターの一言で挨拶しか交わしたことのない男の家に泊まることを決め、卑猥なカードを引き、頬とはいえキスをしてみせた。もう少し警戒すべきではないのか。
そもそも私たちは連絡先の交換すらまだしていない。だからランチを買ってきてくれと頼むこともできない。
ベッドからのっそりと起き上がり、リビングへ戻る。そしてゲームプレイヤーとしてあるまじき行為だと思いながらも、コンソールテーブルの二枚目のカードをそっと裏返した。そこに書かれていた文字は『ハグ』。再び「ふー」と息を吐く。
運良く一枚目、二枚目と過激すぎない文字が続くようだ。
しかしそれは、後々の濃度が濃くなるだけだとも言える。やはり運に任せるべきだ。カード内容を見てしまったことを反省し、もう見るまいと誓いカードを元に戻した。
ハルは昼過ぎに、大きなスポーツバックを持って戻ってきた。
「うちのマンションの近くに旨いパン屋があるんだ」
そう言って、買ってきてくれたサンドイッチを取り出す。素直に礼を言ってリビングテーブルで向かい合って食べた。
壁際の、植木鉢がいくつも乗ったコンソールテーブルには残り二十枚のカードが置かれたままで、チラチラとハルの視線が注がれているのに気が付く。
「これ、美味しいですね。このタマゴサンド好きです」
「気に入ってくれたなら、買ってきた甲斐がある」
「食べ終わったら、カードを引きましょう。昼の分を」
先ほどのカンニングで中身が分っている私には少し余裕があった。
「あぁ。それから電話番号と、メッセージアプリのIDを知りたいのだが、いいか?」
「えぇもちろん。一週間泊まっていただく訳ですから」
昼食が終わり連絡先も交換して、二人で壁際のテーブル前へと移動する。
「では、引かせてもらうぞ」
ハルがカードを一枚めくる。
午前中の『頬へのキス』は正直感じ入る間もなく終わってしまった。だから次に出るはずの『ハグ』は、噛みしめたいという思いがあった。二十年以上の時を経て、こうしてまた私たちに接点ができたことを喜びたいのだ。
ハルはカードを見て「あぁ」と呟きテーブルに置いた。
そして長い腕を伸ばし私を引き寄せ、ギュっと抱きしめてくれた。エアコンがよく効いた部屋で彼の体温を感じる。
「ムネも」
ハルが耳元でそう言うから、私も自分よりわずかに背の高い彼の背中に腕を回した。何も言わずおそらく一分以上、二人でそうしていた。彼からは少しだけ汗の匂いがして、それがより過去を思い出させ、私の心は苦しくなる。
午後。私はお盆休み中に仕上げるデザイン案に取り掛かり、ハルもレッスンを受け持つ生徒達のトレーニングメニューを作ると言って、持参したノートパソコンに向かった。
変なカードゲームに付き合わされていることに不満はないのかと心配になるが、泊めてもらう義務だと思っているのかもしれない。
どうかこのまま最後までゲームに付き合ってくれますように、とハルの横顔を盗み見ながら願った。
夕飯は私がスープカレーを作り、二人で食べた。片付けはハルがしてくれ、順番に風呂にも入った。
会話は多くはなかったけれど、二人でいるのは気詰まりしない。沈黙を埋める為に無理に話題を探す必要もなく、リラックスして過ごすことができた。高校生の頃、部室で過ごした時間のように。
テキパキと寝支度が進んでしまい、夜の九時には二人ともパジャマ代わりの短パンとTシャツ姿になっていた。
「ハル、申し訳ないけれど、リビングのソファで眠ってください。これ枕替わりのクッションと、タオルケットです」
「この大きなソファなら大丈夫だ。きっとよく眠れる」
「そう。では、夜のカードを引きましょうか」
「あぁ。今度はハルが引くといい」
上から順番に引くのだから、どちらが引いても同じだったが「では」と私がめくった。
書いてあった文字は衝撃的で、二人で顔を見合わせた。
『口淫』
確かにそう書かれている。一日目にしてこのカードが出てしまうとは……。
しばらく続いた沈黙の後、大きく息を吐いたハルが「そういうゲームだものな」と呟き、私をソファへ座るよう促した。押し倒したと言っても過言ではない。彼は目の前のしゃがみ込み、私の短パンと下着をいとも簡単に膝までずらした。
彼の長い指が、露わになった私の陰茎をそっと握ってみせる。
「ひっ」
躊躇いの無いストレートな行動に驚いて喉が引き攣る。ハルは私の動揺などお構いなく、眼鏡を外して私の股間へ顔を埋めた。
「やっ」
まだ全く兆してもいないモノをいきなり口に含まれる。ハルの口の中は熱くねっとりとしていた。粘膜に包み込まれる淫靡な感触に身体がブルッと震え上がる。口の中で転がされ、舌で舐められれば、陰茎は瞬く間に硬く大きく形を変えてしまう。
「ハ、ハルっ」
声をかけると上目遣いで私を見てくる彼と目があった。ハルの目が細まり、普段は表情の乏しいその顔が微笑んだように見えた。
そんな顔を見せられれば、快楽に弱い私は考えることを放棄して彼の髪を掴み「んっ」っと声を漏らしてしまう。下腹部の気持ちの良さが指の先までも、ビリビリと伝わってくる。
先端を舌で舐められて、唇できつく締め付けられて、長い指を使って根元をしごかれて。
私は「んっ」と甘ったるい声を溢し、恥ずかしいくらい呆気なく彼の口の中に吐精してしまった。
熱く昂った気持ちが収まり始めると、とんでもないゲームを始めてしまったのだと、ようやく自覚した。
フリーランスの自分に長期休暇は関係ないが、この一週間は打ち合わせの予定がないので、随分と気が楽だ。
生活のリズムを崩さない為にも、いつも通り朝九時に喫茶店「サワロ」へ向かった。もしかすると仕事が休みのあの男も来ているのかもしれない、と淡い期待も正直あった。
我が家から坂を下った商店街にサワロはあり、道中にある大きな公園からはミンミンとうるさい蝉の声が聴こえる。
カントリー調の重い扉を押して店に入ると、いつもの朝とは違って満席に近かった。長期休みでも出掛ける予定がない者たちは、涼しくて落ち着けるこういう店に集まってくるのだろう。
「おはようございます。申し訳ない、今朝は相席でよろしいですか?」
いつものように洒落たウエスタンシャツを着こなすマスターにそう言われ、カウンター席が二席空いているのにと顔をしかめる。マスターは私の返事を待たず「こちらへ」と案内してくる。
相席は嫌だったし、こんなに混雑していたらマスターと会話することも儘ならないから「出直します」と切り出そうとした。
しかし、案内された窓際のテーブルには半年前に再会したあの男が、座ってこちらを見ていた。マスターはお冷とおしぼりを置き「いつものでいいですよね」とカウンターの中へ行ってしまった。
仕方なく席に座り、目の前の男に挨拶をする。
「時々お会いしますね」
「あぁ、昼過ぎに店の前ですれ違うな」
「えぇ」
「すれ違うようになったのは半年前からだ。それ以前は会わなかった」
どうやら私のことを認識してくれていたようだ。
「そうなんです。元々昼は自炊していましたが、半年程前からモーニングだけでなく、ランチもこちらでいただくようになりました」
「なるほど」
アナタと会う為に、とはもちろん言えない。
男は今日もジャージとTシャツ姿だった。テニススクールは休みのはずなのに、朝からジョギングでもしてきたのだろうか。
マスターがコーヒーとトーストを運んできてくれた。私と男の前に、それぞれ同じ物を置きながら話し掛けてくる。
「佐藤さんの家のエアコンが壊れたそうです。この猛暑にエアコンがなくては死んでしまいますよね。けれど修理が来るのは一週間後だそうで。ちなみに鈴木さんは、プレイ時間が一週間も掛かるカードゲームをお試し体験してくれる人を探しているそうです。ついでにわたしは明日、明後日、明々後日と開催される商店街の夏祭りでかき氷屋を手伝ってくれる人を探しています」
一息でそう告げたマスターは、呼び声が掛かったテーブルに注文を取りに行ってしまった。
私も佐藤も、何も言えずに黙ってモーニングを食べ始める。マスターに私の意中の人が佐藤だとバレていたということだろうか。このタイミングで佐藤の家のエアコンが壊れるというミラクルを、マスターが私の好機にしてくれたのだろうか。男同士だということに疑問を感じたりもせずに……。
バターを塗りたくったトーストの、最後の一口を飲み込んだところで「よかったら、家に泊まりませんか?」と声に出して伝えてみた。
もうすぐ四十才。今行動に移さなくてどうする、と勇気を振り絞ったのだ。
佐藤は自分と同級生だったことは忘れてしまっているだろう。だからこそ、今ここで新たな関係を築きたいのだ。
「いいのか?それはありがたい。代わりにカードゲームとやらに付き合わせてもらう」
卑猥なゲームなのだとは、マスターは伝えてくれなかった。佐藤はゲーム内容を知ったら驚くだろう。それでも、泊めてもらうという恩義がある以上は断らないと思いたい。一度決めたことはやり通すスポーツマンらしく義理堅い男だから。
「それと、俺はマスターのかき氷屋を手伝いたいと思っている。せっかくだから一緒にどうだ?」
かき氷屋というと、嫌でも高校の夏合宿を思い出したが、イケオジなマスターの助けになるのであればと「では一緒に手伝わせてもらいます」と答えた。
モーニングを食べに来る客は途切れることなく、マスターはずっと忙しそうだった。
顔を見たことはないがいつも厨房にいる人と二人きりで、朝八時から夜八時まで店を回している。
個人的な話をする余裕はなく、会計の時に「かき氷屋、手伝わせてください」とだけ伝えた。
「それは、ありがたいです。お二人に手伝ってもらえるなら、心強い」
「明日は何時に伺えばいいだろうか」
「祭りは十一時からなので、十時にいらしていただければ」
二人で頷いて、揃って店を出た。外は暑くあっという間に汗が吹き出す。
「さて、どうしましょうか?」
二人きりになった途端に緊張が増した。これから一週間、二人で卑猥なカードゲームをして、かき氷屋を手伝って、私の家で眠るのだ。
佐藤は「そうだな」と考えを巡らせている。相変わらず部長然とした男だ。そして私は相変わらず副部長のように、指示を待ってしまう。
高校生の頃、私たちは「鈴木」「佐藤」と苗字で呼び合っていた。私に負けず彼も平凡な苗字だから、今再び苗字で呼び合ったところで、過去を思い出すきっかけにはならないだろう。
それでも違う呼び方をしたほうが、新しい関係を築けるような気がした。
「まず、アナタをなんと呼べばよいですか?」
「ん?」
その質問が佐藤には意外だったようで、驚いた顔をしている。苗字以外の選択肢が無かったのかもしれない。それならばまずは自分からと「私のことはムネと、呼んでください」と伝えた。宗久のムネだ。
すると佐藤も「では、ハルと呼ぶといい」と答えてくれたので頷く。晴臣のハルだと分かった。
「ムネ、一旦オマエの家に寄らせてもらっていいか?場所を覚え、その後、俺は一週間分の着替えを取りに自宅へ戻り、出直したい」
二人で蝉の声を浴びながら日陰になった坂を上がり、サワロから徒歩十分の私が一人で暮らすマンションへと向かった。
「このマンションの八階です」
角部屋の我が家は日当たりの良い2DK。唯一の趣味である観葉植物がジャングルのように部屋のあちこちに置いてある。ハルも「これは凄いな」と面白がってくれた。
仕事抜きで友人と呼べる人が少ない私の自宅に、客が来るのは初めてだった。まさか記念すべき一人目がこの男になるとは思いもしなかった。
キョロキョロとしているハルに向かって、私は一方的にカードゲームの説明を始めた。
「これは大人の恋愛指令カードゲームという名称だそうです。私はカードゲームデザインの仕事を請け負っていて、その会社の新人に体験してくれる人を探してほしいと頼まれました」
厚口の上質紙で作られた名刺サイズの試作カードを、裏返した状態でハルに見せる。
「この二十一枚のカードには、それぞれ卑猥な言葉が書かれているんです。朝、昼、晩と一枚ずつカードを引いて、そこに書かれている指示に従います」
「卑猥な?」
「えぇ、卑猥な」
ハルが戸惑っているのは充分に分かったが、有無は求めなかった。目の前でカードをトランプのように入念にシャッフルし、壁際のコンソールテーブルの上に置いた。
「今朝の分を、上から一枚引いてください」
私はもちろんカードのラインナップを知っているから、正直心臓がバクバクとしている。今この一枚目に『セックス』と出る可能性もあるのだから。そしたらハルはどうするだろう。怒って帰ってしまうだろうか、それともゲームを続けようとしてくれるだろうか。
ハルがカードを一枚取り、ゆっくりと裏返した。そこには『頬にキス』と拍子抜けするような言葉が書かれていた。思わず「ふー」と息を吐いた私の肩を、ハルはガシッと力強く掴み右頬に「チュっ」と音を立てキスしてきた。なんの躊躇いもなく。
そして「着替えを取ってくる」と玄関から出て行った。
一人残された私は、朝からの急展開についていけず、寝室のベッドの上に倒れ込んだ。なんなんだあの男は。マスターの一言で挨拶しか交わしたことのない男の家に泊まることを決め、卑猥なカードを引き、頬とはいえキスをしてみせた。もう少し警戒すべきではないのか。
そもそも私たちは連絡先の交換すらまだしていない。だからランチを買ってきてくれと頼むこともできない。
ベッドからのっそりと起き上がり、リビングへ戻る。そしてゲームプレイヤーとしてあるまじき行為だと思いながらも、コンソールテーブルの二枚目のカードをそっと裏返した。そこに書かれていた文字は『ハグ』。再び「ふー」と息を吐く。
運良く一枚目、二枚目と過激すぎない文字が続くようだ。
しかしそれは、後々の濃度が濃くなるだけだとも言える。やはり運に任せるべきだ。カード内容を見てしまったことを反省し、もう見るまいと誓いカードを元に戻した。
ハルは昼過ぎに、大きなスポーツバックを持って戻ってきた。
「うちのマンションの近くに旨いパン屋があるんだ」
そう言って、買ってきてくれたサンドイッチを取り出す。素直に礼を言ってリビングテーブルで向かい合って食べた。
壁際の、植木鉢がいくつも乗ったコンソールテーブルには残り二十枚のカードが置かれたままで、チラチラとハルの視線が注がれているのに気が付く。
「これ、美味しいですね。このタマゴサンド好きです」
「気に入ってくれたなら、買ってきた甲斐がある」
「食べ終わったら、カードを引きましょう。昼の分を」
先ほどのカンニングで中身が分っている私には少し余裕があった。
「あぁ。それから電話番号と、メッセージアプリのIDを知りたいのだが、いいか?」
「えぇもちろん。一週間泊まっていただく訳ですから」
昼食が終わり連絡先も交換して、二人で壁際のテーブル前へと移動する。
「では、引かせてもらうぞ」
ハルがカードを一枚めくる。
午前中の『頬へのキス』は正直感じ入る間もなく終わってしまった。だから次に出るはずの『ハグ』は、噛みしめたいという思いがあった。二十年以上の時を経て、こうしてまた私たちに接点ができたことを喜びたいのだ。
ハルはカードを見て「あぁ」と呟きテーブルに置いた。
そして長い腕を伸ばし私を引き寄せ、ギュっと抱きしめてくれた。エアコンがよく効いた部屋で彼の体温を感じる。
「ムネも」
ハルが耳元でそう言うから、私も自分よりわずかに背の高い彼の背中に腕を回した。何も言わずおそらく一分以上、二人でそうしていた。彼からは少しだけ汗の匂いがして、それがより過去を思い出させ、私の心は苦しくなる。
午後。私はお盆休み中に仕上げるデザイン案に取り掛かり、ハルもレッスンを受け持つ生徒達のトレーニングメニューを作ると言って、持参したノートパソコンに向かった。
変なカードゲームに付き合わされていることに不満はないのかと心配になるが、泊めてもらう義務だと思っているのかもしれない。
どうかこのまま最後までゲームに付き合ってくれますように、とハルの横顔を盗み見ながら願った。
夕飯は私がスープカレーを作り、二人で食べた。片付けはハルがしてくれ、順番に風呂にも入った。
会話は多くはなかったけれど、二人でいるのは気詰まりしない。沈黙を埋める為に無理に話題を探す必要もなく、リラックスして過ごすことができた。高校生の頃、部室で過ごした時間のように。
テキパキと寝支度が進んでしまい、夜の九時には二人ともパジャマ代わりの短パンとTシャツ姿になっていた。
「ハル、申し訳ないけれど、リビングのソファで眠ってください。これ枕替わりのクッションと、タオルケットです」
「この大きなソファなら大丈夫だ。きっとよく眠れる」
「そう。では、夜のカードを引きましょうか」
「あぁ。今度はハルが引くといい」
上から順番に引くのだから、どちらが引いても同じだったが「では」と私がめくった。
書いてあった文字は衝撃的で、二人で顔を見合わせた。
『口淫』
確かにそう書かれている。一日目にしてこのカードが出てしまうとは……。
しばらく続いた沈黙の後、大きく息を吐いたハルが「そういうゲームだものな」と呟き、私をソファへ座るよう促した。押し倒したと言っても過言ではない。彼は目の前のしゃがみ込み、私の短パンと下着をいとも簡単に膝までずらした。
彼の長い指が、露わになった私の陰茎をそっと握ってみせる。
「ひっ」
躊躇いの無いストレートな行動に驚いて喉が引き攣る。ハルは私の動揺などお構いなく、眼鏡を外して私の股間へ顔を埋めた。
「やっ」
まだ全く兆してもいないモノをいきなり口に含まれる。ハルの口の中は熱くねっとりとしていた。粘膜に包み込まれる淫靡な感触に身体がブルッと震え上がる。口の中で転がされ、舌で舐められれば、陰茎は瞬く間に硬く大きく形を変えてしまう。
「ハ、ハルっ」
声をかけると上目遣いで私を見てくる彼と目があった。ハルの目が細まり、普段は表情の乏しいその顔が微笑んだように見えた。
そんな顔を見せられれば、快楽に弱い私は考えることを放棄して彼の髪を掴み「んっ」っと声を漏らしてしまう。下腹部の気持ちの良さが指の先までも、ビリビリと伝わってくる。
先端を舌で舐められて、唇できつく締め付けられて、長い指を使って根元をしごかれて。
私は「んっ」と甘ったるい声を溢し、恥ずかしいくらい呆気なく彼の口の中に吐精してしまった。
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