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第三章ヘラジカ

⑨冷蔵庫は息を潜める

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 前庭の片隅に真っ赤な彼岸花が咲く頃、ようやく秋良あきらに新しいディンゴが見つかった。健一けんいちよりずっと年上で、包容力のある山男のような人だ。
 これで秋良をしばらく暮らしていたフェネックの家から、サーバルの待つ拠点へ帰すことができる。
 フェネックの家は組織内でも場所を明かしていない為、朝から私が車で迎えに行き、いったん吉祥寺の家に連れ帰った。
 前庭に車を停めると、こうが待ち構えていたように迎えに出てくる。秋良は助手席を降りてすぐ後部座席に頭を突っ込み、風呂敷包みを降ろした。
「秋良くん、おかえり!」
「ただいま。これフェネックからのお土産」
 風呂敷包みは洸へと手渡された。
「重いっ。なんだろうこれ。あっ、それよりさ、新しいディンゴ、決まって本当によかったね」
「うん。この前、フェネックの家まで会いに来てくれたよ。背が高くて肩幅も広くて髭が生えてて、熊さんみたいな人なんだ」
 二人は夏休み明けの親友のように喋り始めながら、家へ入って行く。

 私がリビングに辿り着いた時には、洸によって風呂敷が解かれていた。
「うわっ、玉手箱みたい!」
「三段の重箱だよ。一番上と真ん中がここで食べる分、一番下は僕がサーバルに持って帰る分」
「へー、なんだろ。開けていい?」
 覗き込んでいた洋介ようすけが蓋を開ければ、びっしりと大きなおはぎが並んでいた。半分は粒あんで、半分はきな粉だ。
「おおこれは、美味そうだなぁ」
 了也りょうやも身を乗り出し、今度は二段目の重箱を覗く。
「うわぁ、こっちは太巻き寿司だ。綺麗!」
「お腹空いたね。ご馳走になろうか」
 洋介はリビングのローテーブルを布巾で拭き、皿と汁椀と箸を並べてくれた。
 フェネックの家を出発する時、私から彼に電話を入れ「昼食は持ち帰りますから、汁物だけ用意しておいてください」と頼んであったのだ。

「ねぇ、フェネックの家ってどんなところだった?何才くらいの人?和樹かずきさんは教えてくれないんだよね」
 洋介が太巻きを食べる手を休めず、興味津々に聞いている。
「言えないよぉ、僕だって口止めされてる。ミステリアスなのがいいんだって。でも庭に鶏がいて朝早くから鳴いてるくらい田舎。その鶏に負けないくらい元気なおばちゃんだったよ」
「やっぱり、おばちゃんって感じなのか。ぽっちゃりしてる?そしたらイメージ通りだな」
「そこは内緒」
「会ってみたいな」と言いながら、洋介はソファから立ち上がり「みんな、日本茶でいいよね」とキッチンへと向かう。
 太巻きに続いておはぎを食べながら、秋良がしみじみ呟く。
「またバクの仕事ができるのはうれしいよ」
 皆が「うんうん」と頷いた。
 その通りだと思う。特性を誰かに必要とされることは、毎日を過ごす上で大きな支えとなるだろう。

 夕方、秋良の新しいディンゴが電車で彼を迎えにきた。そして了也に「ディンゴの先輩として色々話しを聞かせてほしい」と申し出る。
「それならば、帰る前にビールでもどうです?」
 誘いに乗ったディンゴと洸と秋良を連れ、四人は駅前の居酒屋へと出かけていった。
 おそらく了也がただ吞みたかっただけなのだろう。彼の風貌を見て、いい飲み友達ができたとでも思っているようだ。それでも、ディンゴが皆に馴染むのに良い機会になると、洋介と二人で見送った。

 ……カチャっと玄関の鍵が回る音。ドアが開く音。誰かが楽しそうに笑う声で、微睡みから眼が覚めた。私の素肌には洋介の温かい腕が絡みついている。
 辺りは暗く一瞬ここがどこか分からなかったが、すぐに「しまった」と気が付いた。
 小声で「洋介、洋介」と裸の男を起こす。
「洋介、寝過ごしました。洸たちが帰ってきたようです」
 そう言いながら、リビングのソファ下に散らばっている脱ぎ捨てられた二人分の下着と洋服と、眼鏡を回収する。洋介も「えっ」と飛び起き、辺りを見まわし、丸まったティッシュや破られたスキンの包装を拾う。
「洋介さんたちも出掛けたのかな?」
 了也に話しかける洸の声が近づいてくる。逃げ場はキッチンしかなく、裸のまま二人でコソコソと足音を立てぬように移動する。ギリギリのタイミングで冷蔵庫の横へ裸で座り込んだ。
 新しいディンゴが決まってホッとし、完全に気が緩んでいたと一瞬で深く反省する。それでも、隣で身を潜める洋介の頬にソファの模様痕がついていて、先ほどの行為を思い出し愛おしく思えた。
「電気もついてないし、二人で飯でも食いにいったんだろ」
「そうだね。じゃぁさっき買ってきたケーキ、冷蔵庫に仕舞ってくる」
 洋介と顔を見合わせる。これでも代表取締役社長なのに、実家のキッチンでこんな情けない姿を社員に晒すことになるかもしれない。とりあえず下着だけでも履こうとするが、背中を冷蔵庫にぶつけ小さな音を立ててしまい、動きを止める。
「いいよ、洸。今食べよ」
 了也の声に救われるが、すぐにまた洸が言う。
「じゃ、お皿」
「いいよ、皿なんて。紙ナプキンの上に置けば。ほら、プラスチックのフォークもついてるだろ」
 洸の返事は聴こえなかったが、了承したのだろう。私はとりあえず息を吐き、音を立てないように下着を身に着けた。隣では洋介も同じように手足を動かしている。
「美味しい。このチョコレートのクリーム、甘すぎなくてほろ苦くて。了也さんも一口、食べてみて。あっ、そうだ。コーヒー淹れるよ」
「いや、要らない。大丈夫だから」
「じゃ、お水を」
「本当、要らないから。洸……、洸……。甘い、な。唇まで……甘い。んっ、チョコの味だ」
 もしかすると了也は、私たちに気が付いているのかもしれない。それで洸がキッチンに来るのを回避する為に……。

「りょ、了也さん……。んぁっ。か、帰ってきちゃうよ、洋介さんたち」
「大丈夫だ。俺が保証する。まだ帰ってこないから安心しろ」
 隣を見れば、洋介が顔を顰めている。
「へ、部屋に行こ。ここじゃ、ダメだよ……。んっ」
「でももう蕩そうな顔してるぞ、洸。ほらっ、ここも、ちょっと弄っただけで、ぷっくりしてる」
「やっ、そこもう触らないで。ねぇ、んっ」
「俺は、ここでしたい。な、俺だってもうこんなだし」
「ひゃっ。で、でもここじゃ、恥ずかしい……」
「今日は特別だ。ほら、なぜかテーブルに、ローションとスキンが用意されているだろ」
「えっ了也さん、いつの間に……」
「手品だ、手品。ほら洸……」
 それは、完全に私たち二人の忘れ物だった。落ち度しかなく、了也には礼を言ったらいいのか、文句を言ったらいいのか分からない。
「んっ。あっ」と洸があげるくぐもった甘い声が、換気扇も回っていない静かなキッチンへと聴こえ続ける。
「声、我慢しなくていいから」
「ん、あっ。いい……」
 我々への挑戦だろうか、それとも了也はただ酔っ払っているのだろうか。

「……挿れるぞっ、洸」
「あぁっ」
 洋介は以前、盗聴器まで仕掛けて二人の行為を盗み聴きしていたくせに、幼い子がするように手で両耳を塞いでいる。了也が口にする卑猥な言葉も、洸が我慢できずに溢す嬌声も、濃密な関係を醸し出し、二人の間には確かな愛があるのだと思い知らされた。
「あっ、いい、いい、きもちいいっ。りょ、りょうやさん、あっ、んっ」
「洸っ、俺も気持ちが、いい、とても、なっ」
「ねぇ、もっと、あぁ、もっと」
 もしかすると、仕事が絡まずに二人がセックスするのは、今夜が初めてなのかもしれない。私の過失で、彼らに思わぬ機会を与えてしまったようだ。
 声だけでなく、乱れた呼吸、身体と身体がぶつかる音も聴こえてくる。
「りょ、了也さぁん、もう、もうダメ、イク、イク、イっちゃう。あっ」
「んぁ、洸っ……」
「了也さ……」
 さっき、あのソファの上で、私と洋介も似たようなことをしていた。二人で達した後、愛の言葉を吐いて洋介を抱きしめた。けれど、あの二人はそんな睦言を口にすることができない。ただ互いの名を呼ぶだけしか、できない。

 少し間をおいて、了也はウトウトする洸を担ぎ、洸の部屋へと連れていった。道中で振り向けば、冷蔵庫前にいる私達が見えただろう。
 それでも了也は振り向かないでくれた。ここは互いになかったことにするべきだろう。
 ホッとして洋介の肩を引き寄せ、ギュッと抱きしめた。
 
 翌朝。了也がバタバタと慌ただしく仕事に出掛けて行き、私もそれに続き家を出ようとすると、洸に呼び止めらる。
「どうしました?」
「これを、使いたい……です」
 裏に私の手書き文字が書いてある名刺を取り出し、差し出してくる。
「何かありましたか?」
 まさか昨晩の行為中に、二人の関係に何かあったのではと、心臓が冷たくなる。
「いえ、あの、今後の為のお願いです」
「今後?」
「はい。もしももしも、いつか僕が了也さんと無になったら、それでも、しばらくは一緒に暮らせるようにしてください。お願いします。秋良くんのように、それきり会えないとか耐えられないんです」
「でも、無になるのです。その時はそんなことは考えませんよ」
「だから。そんなの絶対に嫌だから、今、頼んでいるんです。お願いします」
 先廻りして心配している洸が可哀そうで、断ることなどできない。
「分かりました。約束しましょう。了也にも、機会を見て話しておきます。きっと、無になんてならないって言うでしょうけれど」
 そう言ってくれるだろう了也を容易く想像できたようで、洸の表情が和らぎ、くすりと笑った。
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