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第三章ヘラジカ

⑦愛がこもる言葉の重み

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 土曜の昼食に間に合うよう、吉祥寺へと車を走らせていた。信号待ちをしている時、前方の横断歩道を歩いている男が目に留まる。以前、幸せなのに互いの愛を無にし出会いからやり直したいと言っていた、あのカップルの彼だ。彼の左側に絡み着くよう腕を組んでいたのは、この前とは違う女だった。
「ほらやっぱり」と思ったし、自分のしている仕事が少し馬鹿らしく思えた。そのまま自分の胸に納めればよかったのだが、虚しさを誰かと共有したく、昼食の時このカップルのことを話題にしてしまった。
 了也りょうやは「だろうな」と呆れ、洋介ようすけは「やり直すって難しいんだね」と考えこむ。
 何も感想を口にしなかったこうは、あからさまに食べるペースが落ち、酷く落ち込んでしまったようだ。私は洸の前で話すべきではなかったと、洋介の作ってくれたタコライスを口に運びながら反省する。
 昼食後、了也がまだまだ残暑のきつい恩賜公園へ洸を散歩に誘い、出掛けていった。帰ってくる頃には笑顔になっていることを願って送り出す。

 リビングのローテーブルに書類を広げて仕事をしていると、秋良あきらのサーバルから電話が掛かってきた。今度は何があったのかと、一呼吸置いてから通話ボタンを押す。
「か、和樹かずきさん、秋良を知りませんか?」
 何の前置きもなく、サーバルは慌てた声でそう告げた。
 いつも休日は遅くまで寝ている健一けんいちが朝早くに起きてきて「部屋に秋良がいない」とサーバルに告げたという。どういうことかと問いただすも、はっきりしたことは言わず「探しに行ってくる」と出掛けてしまったらしい。
「昼過ぎまで待っていたのですが、二人とも帰ってきません。スマホにメッセージを送ったり電話を掛けたりしてますが、全く反応がありません」
「今日は相談者が来る日でしたね」
「は、はい。相談者さんの都合で今日は夜ではなく、午後にいらしゃいます。三十分後です」
 サーバルが戸惑っているのが電話でもよく伝わってきた。
「すぐに洸を連れて行きます。それまで何とか場を繋いでいてください」
 リビングのソファにいた洋介が状況を察知し、了也に電話を掛けてくれている。
「もしもし了也さん?今どこ?すぐに戻れる?」
 彼らが今いる場所を聞き出し、車で拾うから大通りへ出て待つように伝えてもらった。洋介には万が一、秋良と健一がここを訪ねてくる可能性もある為、留守番を頼んだ。

 相談者を三十分待たせたが、なんとか無事に業務を終わらせられた。サーバルは一階のエントランスまで相談者を見送っていく。ちょうどそのタイミングで私宛に洋介から電話が掛かった。
「和樹さん、ついさっき秋良が一人でこっちに来たよ」
「そうですか。とりあえずよかった。美味しい物を食べさせてやってください。今から皆で吉祥寺へ戻ります」
「事態はあまりよくなりみたい……」
 小声でそう言った洋介は、しょうのことを思い出しているのだろう。
「そうですか。ゆっくり休ませてやってください」
 秋良の部屋を借り、了也に吐精させてもらった洸は、眠りに落ちたばかりのようだ。眠ったまま了也に抱きかかえられ車に乗せ、吉祥寺へと向かう。サーバルには健一が戻るかもしれないから、このマンションで待機してもらうことになった。
 車の中で眠っていた洸を、到着する少し前に了也が揺すって起こす。眠そうに眼をこする洸へ、私は状況を伝える。
「起きましたか?お疲れ様でしたね。秋良は吉祥寺の家を訪ねてきたそうですよ」
「あー、よかった!」
「たぶんですが、秋良が健一に愛を伝え、無になったのだと思います」
「えっ……」
「無になると、深く想い出のある場所や物を、忌み嫌い自然と避ける傾向があります。それで彷徨った挙句、洸のところへ会いにきたのでしょう」
「これから秋良くんはどうなるの?」
「ケースバイケースですから、よく話し合います」

 前庭に車を停めると洸は後部座席から飛び出し、玄関ドアを開け家に駆け込んだ。私がリビングに入った時には、ぼーっとした秋良の前で洸が立ち尽くしていた。
「相談者さんが皆口にする「好き」とか「愛してる」って陳腐な言葉だなって思って、いつも聞いてた」
 ボソボソと洸に向かって話し始める。
「洸くん。僕は今、なにが悲しいのかも分からないよ。悲しくないことが、悲しいのかな。ただポッカリと、心に穴が空いたんだ」
 そう言った秋良を、洸がギュっと抱きしめた。
「そもそもさ、自分が本当に健ちゃんを好きなのか不安だったんだ。だって今まで誰のことも好きになった経験がないんだから。誰かと恋バナだってしたことないし。健ちゃんが僕を好いてくれているのかも、愛とは何なのかも、段々わからなくなって。だから実験みたいなものだった。僕が「好き」「愛してる」って口にしても、それが虚構だったら何の変化も起きない訳でしょ?」
 秋良は淡々と語る。
「僕が「愛してる」って口にしたら健ちゃんは一瞬とても嬉しそうな顔したのに「そんなこと言っちゃダメだろ」って凄く怒ったんだ。その顔見たとき、僕は本当に健ちゃんが好きだったし、健ちゃんも僕を好いてくれてるんだって、確信が持てたよ」
 その話を聞いても、誰も何も返事をしてやれない。何と言ってよいのかまるで分からない。
「だけど今は、それもボヤっとした記憶になっちゃった。後悔は感じてないよ。だけどさ、洸くんは絶対に想いを口にしちゃダメだよ。いい分かった?」
 神妙に洸が頷く。

「秋良、仕事は続けますか?」
 私がそう聞くとすぐに返事を寄越す。
「はい、僕にはこれしか出来ることがないから」
 秋良はポケットから、裏面に一筆書いて渡してある私の名刺を取り出す。
「一回に限り秋良の要望を全面的に受け入れます。ヘラジカ・草上くさうえ和樹」
 初めて目にしただろう了也が声に出して読み上げた。
「これは愛とか独占欲とかそんなんじゃ全然なくて、でもどうしてもお願いしたいんだけど、健ちゃんを、他の人のディンゴにしないで。どのチームのディンゴにもしないで、普通の人に戻してほしい」
 そのような希望がなくても、一度誰かのディンゴだった者を、違うバクのチームに入れたりはしない方針だ。
「分かりました。健一には私から伝えます」
 コクリと頷いた後、深々と頭を下げてきた。
「よろしくお願いします」
「今日はここに泊まって、次のディンゴが決まるまでは、フェネックの家で過ごしなさい」
 フェネックの家がどこにあるのかは、ほとんどの者が知らないことだ。

 秋良のサーバルから電話が来て、私は自室へと引き上げた。
「健一が、マンションに帰ってきました。昨晩、秋良から愛を告げられたと言っています」
「こちらも同じことを秋良から聞いたところです。健一に替わってもらえますか?」
 サーバルの悲しそうな溜息と「健一、和樹さんが替わってって」と伝えている小さな声が聴こえる。
「もしもし和樹さん。秋良は、秋良は無事ですか?」
「えぇ、大丈夫です。今日は洸の部屋で寝てもらいます。状況は聞きました。辛い思いをさせましたね、健一。けれど貴方も二年間、組織の仕事をしてきたのです。もうどうしようもないことは、分かりますね?」
「でも、ほんの一言、二言だけなんです。一時間話を聞いたわけじゃない」
「いえ、相談者から一時間も話を聞くのは、心を整理させるカウンセリングのようなものです。「好き」だとか「愛してる」とか、短い言葉でも心が込められていれば効果は出てしまうのですよ」
 電話の向こうで健一が黙り込んでしまう。
「健一には申し訳ないけれどディンゴを辞めてもらいます。明日、私一人でそちらに行きます。引っ越し先が決まるまではそこに居ていいですし、退職金は出させてもらいますから」
 健一の辛さを思うと、私も溜息しかでなかった。
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