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第一章
③誕生日のダリアとキス
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六月
月が変わった日の朝。曇天でもいつもと変わらず、窓の外から鳥の鳴く声が、何種類も聴こえてくる。
「光夜、朝食を食べに行きますよ」
まだ七時十五分。半分寝ている俺を引っ張るように、圭吾が部屋のドアを開ける。廊下には夏の制服のズボンとサマーセーターが置かれていた。昨晩のうちに寮父によって配布されたのだろう。
ズボンは生地が夏物になり、冬服の茶色から、爽やかな紺色のチェックに変わる。俺のは昨年秋に回収されクリーニングされたもの。圭吾のは新品だ。
食事を済ませ、制服に着替える頃に、ようやくしっかりと眼が覚めてきた。圭吾は、夏服もよく似合っていて、白いサマーセーターが少し眩しかった。
六月二週目の土曜には、毎年恒例の体育祭が行われる。今年は珍しく朝から快晴だ。
紅と白と青の三チームに分かれ、各色の鉢巻を頭に巻いて点数を競う。優勝したチームには、夕食にチョコレートケーキが付くという特典がある為、皆かなり真剣になる。俺の三年一組は、二年一組、一年一組とともに紅組。圭吾たち三組は青組だ。
この学園、運動部は弱小で突出して足の速い者もいない。ゆえに結果が読めないから、クラス対抗リレーなどはとても盛り上がる。
午前午後と行われた競技が終わり、優勝チーム発表の前には伝統のフォークダンスがある。大きな輪っかと小さな輪っかが、一つずつグラウンドに作られた。小さい方は、内円も外円も二年生。大きな方は、内円が一年生で外円が三年生。
フォークダンスの振付は、一年生の体育の授業でみっちりと教わる。といっても、オクラホマミキサーとコロブチカの二曲が、交互に何度も繰り返すだけの単純なものだ。
一週間前「圭吾にフォークダンスを教えておいてくれ」と体育教諭の田淵先生に頼まれた。だから、部屋で鼻歌を歌いながら踊ってやった。
「な、簡単だろ?やってみ」
圭吾は意外とダンス的なことが苦手らしく「部屋が狭いから動きにくいです」などと言い訳をする。
「じゃ、もっと広いところでやろうぜ」
消灯前。わずかな灯りだけになった温室へ移動し、練習をした。二人、少し汗ばんだ手を繋いで、温室の中央通路で踊る。
頭では分かっていても、手足が動かない圭吾が可愛い。もう一回、もう一回と熱心な圭吾に合わせて何度も何度も練習に付き合った。
ダリアはほとんど香りがしないのに、段々と花に酔っているかのような気分になって、妙に気持ちが高揚した。
グラウンドに作られたフォークダンスの大きな輪っか。俺の対角線上に、圭吾の姿が見えた。
練習の甲斐あって、上手に踊っているのを眼で追う。和登情報によると、圭吾は一年生に人気があるらしいから、彼と踊れた子は、喜んでいるだろう。
優勝は僅差で青組だった。夕食時、物欲しそうな顔をして、じっと圭吾のトレーに乗ったチョコレートケーキを見つめてしまう。
「うちの犬が、よくそういう顔をしていました」
「ワン!」と元気に返事をしてみせれば、圭吾は深く溜息をつく。
「一口食べてもいいですよ。フォークダンスを教えてくれたお礼です」
一口といいながら、半分を皿に取り分けてくれた。
「うわっ美味っ!」
体育祭の日にしか食べられない特別なチョコレートケーキ。俺は、三年間で初めて食べた。そして何より、素直に欲しそうな態度をとった自分が珍しかった。圭吾が特別だからだろうか。そう思うと、照れくさかった。
夜まで、体育祭の興奮は続く。大浴場の中でも、皆がいつもよりはしゃいでいた。消灯時間を過ぎても、廊下からふざけあう声が聴こえる。きっともうすぐ田淵先生の怒鳴り声が響き、静かになるだろう。
体育祭で浮ついた校内の雰囲気は、三日もしないで日常へと戻ってしまった。
*
温室のダリアは、申請すると誕生日の生徒に贈ることができる。
贈りたい日の前日に「誰から誰へ」というタグを記入し、選んだ花に括りつける。そして見過ごされないように、その箇所に水色の旗を立てておく。
人気のある生徒の誕生日前日には、温室に沢山の旗が立つ。今年の一番人気予想は美智雄だ。超美形でクール、冷たい雰囲気で近寄り難いけれど、憧れるにはそれで充分。天文部の部長、生徒会長でもあるから、当然といえば当然だ。
昨年も生徒から四十二本、学園から一本、計四十三本のダリアが、美智雄に贈られたらしい。学園からの一本は、どの生徒の誕生日にも贈られ、その花は庭師が選んでくれる。
皆、ダリアが欲しいから日にちが近くなると「もうすぐ誕生日なんだ」と、クラス、部活、委員会で、触れまわる。それでも生徒一人が貰っているダリアの平均は、五本だ。申請書類を書いて事務局に提出し、温室まで花を選びに行かねばならず、贈る側としては、正直面倒くさいから。
春季、夏季、冬季の休暇と誕生日が重なる人は、休みに入る前日に花を受け取る。だから終業式前の温室は賑やかで、庭師は忙しそうにしている。
部室に部員の誕生日リストを掲示している部も、多いらしい。
でも俺は、一年生の頃から誕生日を人に伝えるのに、躊躇いがある。美術部は部員数も少なく、個人主義だから、ダリアを贈り合う習慣がなくてよかった。だってほら、人に何かして貰うって、いやだろ?やっぱり苦手なんだよ。
水曜の放課後、園芸委員の当番の日。モワッと湿度の高い温室に足を踏み入れると、既に十本以上の水色の旗が立っていた。
誰の誕生日なのかと、タグを手に取り名前を見てみると、全て圭吾宛だった。送っているのは主に天文部の奴らだろう。
圭吾は明日、六月十七日が十八才の誕生日なのか。俺は明後日の六月十八日生まれ。一日違いだなんて、ちょっと嬉しい。よし、俺からもダリアを贈ってやろう。
庭師の手伝いが終わった後、事務局へ行く。面倒くさい書類を書いて、ダリアに括り付けるタグを貰う。
温室に戻り、入口から遠い場所に咲いている、ボリュームある八重咲の花を見つける。その花に圭吾宛のタグをつけ、旗を立てた。綺麗なチョコレート色のダリアだ。
翌朝。いつもと同じく圭吾に起こされ、引っ張られるようにベッドから出る。
「さあ、行きますよ」とドアを引いた圭吾が「あぁ」と感歎の溜息をつく。
ドアの前には、庭師が朝早くに摘んでくれたダリアが二十本程、山となって置いてあった。圭吾はダリアの前にしゃがみ込む。
「見てください、光夜。今日は僕の誕生日なんです。花を貰うなんて……、人生で初めてです」
これは誰からだ、これは一年生のあの子だ、あぁあの人もくれた、と独り言を言いながら、拾い上げている。
切り口には水分を含ませたキッチンペーパーのようなものと、アルミホイルが巻かれていた。
ダリアの山の一番下に、俺の贈ったチョコレート色が見えている。圭吾が一本ずつ拾い上げ、山が低くなる毎に、俺の心拍数が上がっていった。
「この一番大きなダリアは……。あっ、光夜!」
パっとこちらを振り向く。
「ありがとう。あぁ、とても嬉しい」
圭吾は素直に喜んでくれた。少し眼を潤ませて微笑んでくれた。俺は照れくさくて「あぁ」としか言えない。
「ほら、花瓶。入りきらないだろうから、俺のも使えよ」
この時の為だけに、部屋には一人に一つ花瓶が用意されている。庭師もこの花瓶に合う長さにダリアを切って、置いてくれる。共同の洗面所で花瓶に水を入れ、圭吾が丁寧に活けるのをベッドに腰かけて眺めた。
いつもより少し遅い時間に食堂へと向かう。圭吾は機嫌が良く、よく喋った。
「本当にありがとう。今までの誕生日で一番嬉しいです。チョコレート色のダリア、綺麗でした。光夜はやっぱりセンスがいい。あの一本だけでも枯れずにずっと保存できたらいいのに。圭吾の誕生日はもう終わっちゃいました?」
「いや、まだ」
「よかった」
育ちが良い圭吾は、きっと毎年、大勢に祝われて幸せな誕生日を過ごしてきただろう。それでも「今までの誕生日で一番嬉しい」と口にする姿は、嘘を言っているようには見えなかった。
「あのさ、これもやるよ。誕生日プレゼント」
美術部の時間に、水彩で描いたチョコレート色のダリアの絵。ハガキ程の小さなサイズ。消灯時間になり、ベッド入る直前にそっと渡した。
「あぁ、ありがとう。光夜の絵、初めて見ました。綺麗だ。こんな色彩豊かな絵を描くのですね。ずっと、ずっと大事にしますから」
圭吾はその絵を、大切そうに日記帳に挟んで仕舞ってくれた。
次の日。いつものように圭吾に起こされる。
「行きますよ」と圭吾がドアを引くと、廊下にはダリアが一本だけ置いてあった。
「あれ?」
圭吾がしゃがんで手を伸ばそうとするから「あぁ、これは俺の。学園からの分だろ」とサッと拾いあげる。
「ここに入れさせて」
拾った紫色のダリアを、圭吾の花瓶にすっと一本追加した。
「光夜、どういうことです?」
渡り廊下を歩きながら、圭吾が酷く怒っている。
「は?何が?」
「今日誕生日なんですか?何で黙ってたんです?」
「いや、圭吾だって、俺に言わなかっただろ」
「でも、光夜は知ってくれていたでしょ?僕の誕生日を」
「たまたま水曜が、温室の当番だったからな」
そう答えたのに、圭吾は俺を睨みつけてくる。
「俺さ、嫌なんだよ。例え誕生日でも誰かに何かをして貰うの」
食堂に着き、トレーを手に取る。トーストと、スクランブルエッグと、ベーコンのスープと、ツナサラダを順番に乗せていき、空いている席に座った。後ろから来る圭吾も、全く同じ行動をしている。
そして向かいの席に座ったと同時に、また睨んでくる。
「何でそんなに怒るんだよ」
「誕生日にしか贈れないんですよね?ダリア。もう来年はないのに。一年生からこの学園に居ればよかったって、初めて思ってます」
それきり口をきいてくれなかった。四限目の世界史を校医が留守の医務室でサボっていたけれど、昼になっても迎えに来てはくれなかった。誕生日だっていうのに、最悪だ。
夕食時も、圭吾は天文部の活動が長引いているのか部屋に戻ってこない。しかたなく一人で食堂へ行くと、圭吾が美智雄と一緒にいた。だから俺は、居合わせた和登と一緒に食べ、そのまま風呂に入る時間まで、談話室で過ごした。
風呂から戻っても、圭吾はまだ部屋に居なかった。一人で残り少なくなったグレープ味のグミを食べ、平常心を保とうとする。
俺の誕生日なんてこんなものだ、と分かっているくせに。なぜか涙が滲んできて、こぼれ落ちないようにぐっと堪える。俺は圭吾に何を期待していたのだろう。
あまり使っていない二段ベッド上の、自分の布団にもぐり込み、ギュっと眼を閉じた。あと三十分で消灯時間だ。
ドアが開き、圭吾が戻ってきたのが分かる。ガタガタと音がするから、風呂の支度をしているのだろう。またドアが開き、気配が消えた。
「光夜、光夜……」
声を掛けられ、ぼんやりと意識が覚醒する。
「もう寝てましたね。ごめんなさい。今日はせっかくの圭吾の誕生日だったのに……、意地になってしまって……」
「別に」
風呂から上がったばかりなのか、髪が中途半端に乾いた圭吾が、二段ベッドの梯子の途中から、俺を覗き込んでいる。
「チョコレート色のダリアを貰って、僕も圭吾の誕生日には一番綺麗な花を選びたいって思っていたから。まさか翌日だなんて思わなくて……。本当に残念で。ごめんなさい」
眼が覚めるまでの短い時間、うとうとと何か夢を見ていた。とても悲しい夢だった気がする。
「俺、考えたんだけどさ。欲しいプレゼントがあって」
「何です?何でも言ってください!何とか手に入れますから!」
夢の中の俺は泣いていて、酷く可哀そうだった。だから。
「キスしてよ」
「え?」
布団から上体を起こして、圭吾に顔を近づける。
「キス。十八にもなって、したことないとか恥ずかしいだろ」
圭吾は黙ってしまった。
「ははっ。そんなびっくりした顔するなよ。冗談、冗談。さぁ寝ようぜ。電気消して」
「……いいですよ」
「ん?……え?」
すっと眼鏡をはずした圭吾の表情が、ガラっと変わって。俺の知らない大人の男みたいな顔になって。俺の胸はドキドキと脈打って。
圭吾が眼を閉じたから、更に顔を近づけて、そっと唇を重ねた。唇は温かくて柔らかくて、一度ではもったいない気がして。チュッ、チュッと何回か啄むように重ね合わせた。
「光夜」
圭吾が俺の名を艶っぽい声で呼ぶ。梯子を掴んでいた手を離し、俺の頬を両手で挟んだかと思うと、今度は圭吾から唇を押し付けるように重ねてくれた。
下唇を甘く噛まれ、驚いて「あっ」と声を出してしまえば、開いた隙間から舌を入れられる。歯列も口内も舐められて、頬が燃えるように熱くなった。
クチュクチュと淫靡な音を立てながら唾液が交われば、身体の奥がジンと痺れる。さっきまでの悲しさなど全て吹き飛ぶような、甘く甘く蕩けるキス。
俺からも、たどたどしく舌を絡めれば、圭吾は「んっ」と鼻に抜けるような艶やかな声を漏らした。
指先までもが甘く痺れ、このままではどうにかなりそうで、名残惜しいけれど、そっと密着していた唇を離す。大きく深呼吸をして、乱れた呼吸を、必死に立て直した。
「圭吾。お前、初めてじゃないだろ?」
「いや、初めてですよ」
そんないやらしいキスどこで覚えたんだよ、と心の中でブツブツと圭吾に文句を言う。股間が兆してしまったから「もう寝る、おやすみ」と布団をかぶった。
今夜は恥ずかしくて、流石に同じベッドでは眠れない。
「誕生日おめでとう、光夜」
そう言って、圭吾が紐を引いて部屋の電気を消してくれた。
月が変わった日の朝。曇天でもいつもと変わらず、窓の外から鳥の鳴く声が、何種類も聴こえてくる。
「光夜、朝食を食べに行きますよ」
まだ七時十五分。半分寝ている俺を引っ張るように、圭吾が部屋のドアを開ける。廊下には夏の制服のズボンとサマーセーターが置かれていた。昨晩のうちに寮父によって配布されたのだろう。
ズボンは生地が夏物になり、冬服の茶色から、爽やかな紺色のチェックに変わる。俺のは昨年秋に回収されクリーニングされたもの。圭吾のは新品だ。
食事を済ませ、制服に着替える頃に、ようやくしっかりと眼が覚めてきた。圭吾は、夏服もよく似合っていて、白いサマーセーターが少し眩しかった。
六月二週目の土曜には、毎年恒例の体育祭が行われる。今年は珍しく朝から快晴だ。
紅と白と青の三チームに分かれ、各色の鉢巻を頭に巻いて点数を競う。優勝したチームには、夕食にチョコレートケーキが付くという特典がある為、皆かなり真剣になる。俺の三年一組は、二年一組、一年一組とともに紅組。圭吾たち三組は青組だ。
この学園、運動部は弱小で突出して足の速い者もいない。ゆえに結果が読めないから、クラス対抗リレーなどはとても盛り上がる。
午前午後と行われた競技が終わり、優勝チーム発表の前には伝統のフォークダンスがある。大きな輪っかと小さな輪っかが、一つずつグラウンドに作られた。小さい方は、内円も外円も二年生。大きな方は、内円が一年生で外円が三年生。
フォークダンスの振付は、一年生の体育の授業でみっちりと教わる。といっても、オクラホマミキサーとコロブチカの二曲が、交互に何度も繰り返すだけの単純なものだ。
一週間前「圭吾にフォークダンスを教えておいてくれ」と体育教諭の田淵先生に頼まれた。だから、部屋で鼻歌を歌いながら踊ってやった。
「な、簡単だろ?やってみ」
圭吾は意外とダンス的なことが苦手らしく「部屋が狭いから動きにくいです」などと言い訳をする。
「じゃ、もっと広いところでやろうぜ」
消灯前。わずかな灯りだけになった温室へ移動し、練習をした。二人、少し汗ばんだ手を繋いで、温室の中央通路で踊る。
頭では分かっていても、手足が動かない圭吾が可愛い。もう一回、もう一回と熱心な圭吾に合わせて何度も何度も練習に付き合った。
ダリアはほとんど香りがしないのに、段々と花に酔っているかのような気分になって、妙に気持ちが高揚した。
グラウンドに作られたフォークダンスの大きな輪っか。俺の対角線上に、圭吾の姿が見えた。
練習の甲斐あって、上手に踊っているのを眼で追う。和登情報によると、圭吾は一年生に人気があるらしいから、彼と踊れた子は、喜んでいるだろう。
優勝は僅差で青組だった。夕食時、物欲しそうな顔をして、じっと圭吾のトレーに乗ったチョコレートケーキを見つめてしまう。
「うちの犬が、よくそういう顔をしていました」
「ワン!」と元気に返事をしてみせれば、圭吾は深く溜息をつく。
「一口食べてもいいですよ。フォークダンスを教えてくれたお礼です」
一口といいながら、半分を皿に取り分けてくれた。
「うわっ美味っ!」
体育祭の日にしか食べられない特別なチョコレートケーキ。俺は、三年間で初めて食べた。そして何より、素直に欲しそうな態度をとった自分が珍しかった。圭吾が特別だからだろうか。そう思うと、照れくさかった。
夜まで、体育祭の興奮は続く。大浴場の中でも、皆がいつもよりはしゃいでいた。消灯時間を過ぎても、廊下からふざけあう声が聴こえる。きっともうすぐ田淵先生の怒鳴り声が響き、静かになるだろう。
体育祭で浮ついた校内の雰囲気は、三日もしないで日常へと戻ってしまった。
*
温室のダリアは、申請すると誕生日の生徒に贈ることができる。
贈りたい日の前日に「誰から誰へ」というタグを記入し、選んだ花に括りつける。そして見過ごされないように、その箇所に水色の旗を立てておく。
人気のある生徒の誕生日前日には、温室に沢山の旗が立つ。今年の一番人気予想は美智雄だ。超美形でクール、冷たい雰囲気で近寄り難いけれど、憧れるにはそれで充分。天文部の部長、生徒会長でもあるから、当然といえば当然だ。
昨年も生徒から四十二本、学園から一本、計四十三本のダリアが、美智雄に贈られたらしい。学園からの一本は、どの生徒の誕生日にも贈られ、その花は庭師が選んでくれる。
皆、ダリアが欲しいから日にちが近くなると「もうすぐ誕生日なんだ」と、クラス、部活、委員会で、触れまわる。それでも生徒一人が貰っているダリアの平均は、五本だ。申請書類を書いて事務局に提出し、温室まで花を選びに行かねばならず、贈る側としては、正直面倒くさいから。
春季、夏季、冬季の休暇と誕生日が重なる人は、休みに入る前日に花を受け取る。だから終業式前の温室は賑やかで、庭師は忙しそうにしている。
部室に部員の誕生日リストを掲示している部も、多いらしい。
でも俺は、一年生の頃から誕生日を人に伝えるのに、躊躇いがある。美術部は部員数も少なく、個人主義だから、ダリアを贈り合う習慣がなくてよかった。だってほら、人に何かして貰うって、いやだろ?やっぱり苦手なんだよ。
水曜の放課後、園芸委員の当番の日。モワッと湿度の高い温室に足を踏み入れると、既に十本以上の水色の旗が立っていた。
誰の誕生日なのかと、タグを手に取り名前を見てみると、全て圭吾宛だった。送っているのは主に天文部の奴らだろう。
圭吾は明日、六月十七日が十八才の誕生日なのか。俺は明後日の六月十八日生まれ。一日違いだなんて、ちょっと嬉しい。よし、俺からもダリアを贈ってやろう。
庭師の手伝いが終わった後、事務局へ行く。面倒くさい書類を書いて、ダリアに括り付けるタグを貰う。
温室に戻り、入口から遠い場所に咲いている、ボリュームある八重咲の花を見つける。その花に圭吾宛のタグをつけ、旗を立てた。綺麗なチョコレート色のダリアだ。
翌朝。いつもと同じく圭吾に起こされ、引っ張られるようにベッドから出る。
「さあ、行きますよ」とドアを引いた圭吾が「あぁ」と感歎の溜息をつく。
ドアの前には、庭師が朝早くに摘んでくれたダリアが二十本程、山となって置いてあった。圭吾はダリアの前にしゃがみ込む。
「見てください、光夜。今日は僕の誕生日なんです。花を貰うなんて……、人生で初めてです」
これは誰からだ、これは一年生のあの子だ、あぁあの人もくれた、と独り言を言いながら、拾い上げている。
切り口には水分を含ませたキッチンペーパーのようなものと、アルミホイルが巻かれていた。
ダリアの山の一番下に、俺の贈ったチョコレート色が見えている。圭吾が一本ずつ拾い上げ、山が低くなる毎に、俺の心拍数が上がっていった。
「この一番大きなダリアは……。あっ、光夜!」
パっとこちらを振り向く。
「ありがとう。あぁ、とても嬉しい」
圭吾は素直に喜んでくれた。少し眼を潤ませて微笑んでくれた。俺は照れくさくて「あぁ」としか言えない。
「ほら、花瓶。入りきらないだろうから、俺のも使えよ」
この時の為だけに、部屋には一人に一つ花瓶が用意されている。庭師もこの花瓶に合う長さにダリアを切って、置いてくれる。共同の洗面所で花瓶に水を入れ、圭吾が丁寧に活けるのをベッドに腰かけて眺めた。
いつもより少し遅い時間に食堂へと向かう。圭吾は機嫌が良く、よく喋った。
「本当にありがとう。今までの誕生日で一番嬉しいです。チョコレート色のダリア、綺麗でした。光夜はやっぱりセンスがいい。あの一本だけでも枯れずにずっと保存できたらいいのに。圭吾の誕生日はもう終わっちゃいました?」
「いや、まだ」
「よかった」
育ちが良い圭吾は、きっと毎年、大勢に祝われて幸せな誕生日を過ごしてきただろう。それでも「今までの誕生日で一番嬉しい」と口にする姿は、嘘を言っているようには見えなかった。
「あのさ、これもやるよ。誕生日プレゼント」
美術部の時間に、水彩で描いたチョコレート色のダリアの絵。ハガキ程の小さなサイズ。消灯時間になり、ベッド入る直前にそっと渡した。
「あぁ、ありがとう。光夜の絵、初めて見ました。綺麗だ。こんな色彩豊かな絵を描くのですね。ずっと、ずっと大事にしますから」
圭吾はその絵を、大切そうに日記帳に挟んで仕舞ってくれた。
次の日。いつものように圭吾に起こされる。
「行きますよ」と圭吾がドアを引くと、廊下にはダリアが一本だけ置いてあった。
「あれ?」
圭吾がしゃがんで手を伸ばそうとするから「あぁ、これは俺の。学園からの分だろ」とサッと拾いあげる。
「ここに入れさせて」
拾った紫色のダリアを、圭吾の花瓶にすっと一本追加した。
「光夜、どういうことです?」
渡り廊下を歩きながら、圭吾が酷く怒っている。
「は?何が?」
「今日誕生日なんですか?何で黙ってたんです?」
「いや、圭吾だって、俺に言わなかっただろ」
「でも、光夜は知ってくれていたでしょ?僕の誕生日を」
「たまたま水曜が、温室の当番だったからな」
そう答えたのに、圭吾は俺を睨みつけてくる。
「俺さ、嫌なんだよ。例え誕生日でも誰かに何かをして貰うの」
食堂に着き、トレーを手に取る。トーストと、スクランブルエッグと、ベーコンのスープと、ツナサラダを順番に乗せていき、空いている席に座った。後ろから来る圭吾も、全く同じ行動をしている。
そして向かいの席に座ったと同時に、また睨んでくる。
「何でそんなに怒るんだよ」
「誕生日にしか贈れないんですよね?ダリア。もう来年はないのに。一年生からこの学園に居ればよかったって、初めて思ってます」
それきり口をきいてくれなかった。四限目の世界史を校医が留守の医務室でサボっていたけれど、昼になっても迎えに来てはくれなかった。誕生日だっていうのに、最悪だ。
夕食時も、圭吾は天文部の活動が長引いているのか部屋に戻ってこない。しかたなく一人で食堂へ行くと、圭吾が美智雄と一緒にいた。だから俺は、居合わせた和登と一緒に食べ、そのまま風呂に入る時間まで、談話室で過ごした。
風呂から戻っても、圭吾はまだ部屋に居なかった。一人で残り少なくなったグレープ味のグミを食べ、平常心を保とうとする。
俺の誕生日なんてこんなものだ、と分かっているくせに。なぜか涙が滲んできて、こぼれ落ちないようにぐっと堪える。俺は圭吾に何を期待していたのだろう。
あまり使っていない二段ベッド上の、自分の布団にもぐり込み、ギュっと眼を閉じた。あと三十分で消灯時間だ。
ドアが開き、圭吾が戻ってきたのが分かる。ガタガタと音がするから、風呂の支度をしているのだろう。またドアが開き、気配が消えた。
「光夜、光夜……」
声を掛けられ、ぼんやりと意識が覚醒する。
「もう寝てましたね。ごめんなさい。今日はせっかくの圭吾の誕生日だったのに……、意地になってしまって……」
「別に」
風呂から上がったばかりなのか、髪が中途半端に乾いた圭吾が、二段ベッドの梯子の途中から、俺を覗き込んでいる。
「チョコレート色のダリアを貰って、僕も圭吾の誕生日には一番綺麗な花を選びたいって思っていたから。まさか翌日だなんて思わなくて……。本当に残念で。ごめんなさい」
眼が覚めるまでの短い時間、うとうとと何か夢を見ていた。とても悲しい夢だった気がする。
「俺、考えたんだけどさ。欲しいプレゼントがあって」
「何です?何でも言ってください!何とか手に入れますから!」
夢の中の俺は泣いていて、酷く可哀そうだった。だから。
「キスしてよ」
「え?」
布団から上体を起こして、圭吾に顔を近づける。
「キス。十八にもなって、したことないとか恥ずかしいだろ」
圭吾は黙ってしまった。
「ははっ。そんなびっくりした顔するなよ。冗談、冗談。さぁ寝ようぜ。電気消して」
「……いいですよ」
「ん?……え?」
すっと眼鏡をはずした圭吾の表情が、ガラっと変わって。俺の知らない大人の男みたいな顔になって。俺の胸はドキドキと脈打って。
圭吾が眼を閉じたから、更に顔を近づけて、そっと唇を重ねた。唇は温かくて柔らかくて、一度ではもったいない気がして。チュッ、チュッと何回か啄むように重ね合わせた。
「光夜」
圭吾が俺の名を艶っぽい声で呼ぶ。梯子を掴んでいた手を離し、俺の頬を両手で挟んだかと思うと、今度は圭吾から唇を押し付けるように重ねてくれた。
下唇を甘く噛まれ、驚いて「あっ」と声を出してしまえば、開いた隙間から舌を入れられる。歯列も口内も舐められて、頬が燃えるように熱くなった。
クチュクチュと淫靡な音を立てながら唾液が交われば、身体の奥がジンと痺れる。さっきまでの悲しさなど全て吹き飛ぶような、甘く甘く蕩けるキス。
俺からも、たどたどしく舌を絡めれば、圭吾は「んっ」と鼻に抜けるような艶やかな声を漏らした。
指先までもが甘く痺れ、このままではどうにかなりそうで、名残惜しいけれど、そっと密着していた唇を離す。大きく深呼吸をして、乱れた呼吸を、必死に立て直した。
「圭吾。お前、初めてじゃないだろ?」
「いや、初めてですよ」
そんないやらしいキスどこで覚えたんだよ、と心の中でブツブツと圭吾に文句を言う。股間が兆してしまったから「もう寝る、おやすみ」と布団をかぶった。
今夜は恥ずかしくて、流石に同じベッドでは眠れない。
「誕生日おめでとう、光夜」
そう言って、圭吾が紐を引いて部屋の電気を消してくれた。
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