上 下
1 / 10
第一章

風呂場で。

しおりを挟む
「郁三さま。本日より、執事として生活を共にさせていただく吉野でございます」
 親に用意してもらったマンションのドアを開けた時、そこには見知らぬ男がいた。僕よりずっと長身で、真っ黒な髪をオールバックにし、時代錯誤のタキシード姿の男が。
「え?あっ、すいません。間違えました」
 慌ててバタンと玄関の重たいドアを閉めた。混乱する頭で表札を確認するが、そこには確かに807号室の部屋番号とともに「八木」と僕の苗字が書かれている。呆然と立ち尽くしているとドアが開き「何をしているのです?早くお入りください」とさっき吉野と名乗った十才程年上の男が、冷たい声で僕を急かす。やはり何も間違えてはいない。
「し、失礼します」
 自分の家のはずなのに、酷く緊張して玄関で靴を脱ぎ、用意されたスリッパを履いてリビングへと進んだ。父と内覧で見た時には、空っぽだった部屋には、成金趣味の実家とは違う、センスのいい家具が既に並んでいる。
「あ、あの。状況がよく分からないのですが、貴方はいったい誰ですか?」

 高校生活を終え、初めての一人暮らしに胸を膨らませながら新幹線に乗り、東京へと向かった。ここ数日、家族以外と会わず家に引きこもって引っ越しの準備のみをしていた為、体調は安定していた。東京へ行ったら、原因不明の体調不良に悩まされることも減るのではないかと漠然と思っているが、この調子でいけばそれも叶う気がする。気分良く新幹線の窓の外を眺めていると「お隣よろしいですか?」と、暗い顔をした中年女性が声を掛けてきた。ぺこりと会釈をしOKである意思を示し、また車窓を眺める。そのまま女性のことは気にも留めずにいたが、いくつかトンネルを抜けた頃、再び話しかけられた。
「あの。話を聞いていただけませんか?」
 知人友人、加えて見ず知らずの人に声をかけられ、失恋などの悲恋の話を聞かされる、これが僕の体調不良の原因だと、実は薄々気がついている……。
 東京駅で新幹線を降りる頃には、女性は「貴方にお話できてよかった!」と笑顔になっていた。僕はただ「うんうん、そうなんですか」と頷いていただけなのに。
「お元気になられてよかったです」
 そう伝えたが代わりに僕の体調は急降下。どんより鬱々とした気分になり身体が怠く重かった。溜息ばかりをつきながら、マンションのある駅へ向かう電車に乗り換える。やはりこの事象は、生まれ故郷の街を出ても僕について回るのだ。早くも認めざるおえない敗北感で潰れてしまいそうだ。
 高三の進路を決める頃、大学は都心に出て一人暮らしをしたい、と恐る恐る父に申し出た。すると予想に反しあっさりと許可が下りた。実家は無駄に金持ちの成金で、小さな街では有名な家だったから、家族も親戚も皆地元の学校へ行き、同族経営の会社に就職をしている。僕は男ばかり四人兄弟の三番目で、上の兄二人は勉強ができ、下の弟はスポーツに秀でていた。残念なことに僕だけは得意なことは何も無く平凡、その上よく体調を崩し皆に迷惑を掛けている。父は心配し頻繁に医者に連れて行ってくれたが、検査をしても悪い所はなかった。
 そんな僕は幼い頃から「ねぇ、話を聞いて」と色んな人の話し相手に選ばれることが多かった。聞かされる話は老若男女、恋だ愛だの悲しい話ばかり。恋人どころか好きな人もいない僕が人の恋話を聞いても「うんうん、そうなんだ」と相槌しか打てないし、話の内容も理解できない。それでも思う存分話し終わった相手は、心がスッとするのだろう。皆「話せてよかった」と笑って帰っていく。僕は何もしていないのだが、役に立てたならばと嬉しくなる。けれど人の話を頷きながら聞くだけで僕の体力は消耗し、食欲もなくなる。その不調はぐっすり眠ればだいぶ回復するが、聞いた話の内容がヘビーだと、翌日も翌々日も体力の回復に時間を要してしまう。この状況を僕は上手く説明できず、他人に説明したことはない。
 ある日父が、仕事で知り合った「気が見える」という人を家に呼んだ。その人が本物かペテン師かは知らないが、僕の部屋の前で立ち止まり「この部屋だけ気が滞り、悲しみに覆われている」と言い放ったらしい。おそらくそのお陰で、僕は都心で一人暮らしをすることが許された。父は商売の要は日々を暮らす家だと常々言っていて、大事な家に悪い気を滞らせない為、僕を外へ出したのだろう。その負い目で、いいマンションを借りてくれたのだから、僕は充分に恵まれている。

「あぁ郁三さま。貴方という人は、引っ越し早々、どなかたの悲しい気を持ち帰られたのですね」
「悲しい気?」
「自覚がないのですか?まぁいいでしょう」
「あの、貴方はいったい誰?」
「さぁ、まずはシャワーを浴びてください」
 吉野さんが何者で、誰に許可を得てこの部屋にいるのかも不明なのに、その超然とした物言いに抵抗する体力も気力もなく、僕は重い身体を引きずってシャワーを浴びるしかなかった。初めて入ったバスルームには湯が張られ、いい香りのシャンプー、トリートメント、ボディソープが並んでいる。これも吉野さんが揃えてくれたのだろうか?湯船に浸かりながら目を閉じる。頭を洗い身体を洗うことすら億劫だ。こんなことで僕の新生活は大丈夫なのだろうか。
「郁三さま、まだグズグスと湯船に入っていらっしゃるのですか?」
 突然風呂のドアが開けられた。「やれやれ」とタキシードのジャケットを脱ぎ、腕まくりをし、靴下を脱いで裾を捲った吉野さんが風呂場に入ってくる。
「ちょっと。何なのです?やめてください」
「どうもこうも、いつまでもその状態にいられるのは迷惑です。とっとと排出してしまいましょう」
 湯船から引っ張りだされ、シャワーの前に座らされた。吉野さんは自分が濡れるのも気にせず俺に湯をかけ、シャンプーで頭を洗ってくれる。洗いながら「どうか、私のことは吉野とお呼びください」と告げた。戸惑っているうちに泡はシャワーで洗い流され、今度はトリートメントを付けてくれる。
「いいですか?幸せという気持ちも悲しいという気持ちも、人から人へ流れていくのです」
 唐突に何の話だろう。
「何もないところから湧いて出るものではないのです。分け与えられるもの、移動してくるものなのです」
 トリートメントが流され、今度はボディソープを手で泡立てている。泡立った手はするすると身体を撫で始めた。
「え?身体は自分で洗えます、吉野さん!」
「吉野と敬称なしでお呼びください。執事ですので」
「いや、あっ、だから身体は恥ずかしいので自分で」
「ご命令される時は、吉野と」
 吉野さんの手が、妙に艶かしく僕の身体を這う。
「自分で洗いますからやめてください、吉野!」
 吉野は鏡越しにフフフと美しく笑う。
「ダメですよ、郁三さま。しっかりと出さなければ」
「出す?何を?」
「このマンションへ来るまでの間に、誰かの悲しい気を引き取って連れ帰ってしまったでしょ?だからそれを出すのです」
 泡だらけの手が僕の股間に伸びる。吉野の腕まくりしたシャツは、もうびしょ濡れだった。包み込むように陰茎を握られ「んぁっ」と変な声が出てしまう。
「普段、ご自分で出すことを積極的にされないのでしょ?それではダメなのですよ」
 ヌルヌルと泡だらけの手で擦られ、僕の陰茎は勃ってしまう。性欲はなく、性的なことに疎い僕のモノが硬く上を向いている。
「郁三さま、立ち上がってこちらを向いてください」
 僕は操り人形のように、言われるまま椅子から立ち上がる。しゃがんだ吉野の方へ身体を向けるが、勃ちあがった陰茎が恥ずかしく両手で覆い隠した。
「手を退けないとできませんよ?」
「な、なにを?」
「大丈夫ですから。私に身を委ねて。その手をどうか私の肩へ」
 吉野のシャツは肩口までもびしょ濡れで、肌が透けて見えていた。肩に手を乗せれば吉野の体温を感じる。
 シャワーで股間の泡が洗い流され、勃起した陰茎がより露わになった。吉野がそれを長い指でツーと撫でる。他人に触られるのは初めてで、彼が男だとはいえ、どんどんと変な気分になってゆく。
「んっ」
 あろうことか吉野は僕の硬く大きくなったモノをパクリと口に咥えた。自分が何をされたのか分からなくパニックに陥ったが、未体験の気持ち良さが身体をかけ巡る。熱い膜に包まれるようなねっとりとした甘い快楽だ。
「あっ、あっ、やめて、あっ、そんな」
 吉野が上目遣いで僕を見た。オールバッグにしている髪が乱れ、ハラリの美しい顔にかかり酷く色っぽい。何者なのか分からないこの綺麗な人が、俺の昂りを咥えているのだ。あぁ、どうしよう。すぐにでも達してしまいそうだった。
「あっ、離して、出ちゃうから、よしの、あっ、離して……んっ」
 吉野はより奥まで咥え込んで、吸い上げてきた。僕は堪えきれず、彼の口の中に勢いよく白濁を放ってしまった。
 驚いたことに、吐精した後の僕からは鬱々とした気持ちが消え去り身体も軽くなる。だからと言って、吉野に礼を言う気にもなれず、ただただ心の底から恥ずかしいという感情だけが押し寄せる。隠れるように湯船に戻り、鼻の下までブクブクと湯に浸かった。吉野は僕が口内に出した白濁をペッと床のタイルに吐き出し、シャワーの湯でうがいをする。そして、びしょ濡れになったズボンとベストとシャツを脱ぎ始めた。濡れた服は肌に張り付き酷く脱ぎづらそうだ。手を貸すでもなくそれを眺めてしまえば「郁三さま、もうスッキリされたのでしょう?出ていっていただけますか?」と言い放たれる。僕は我に返り、慌てて風呂場から出た。脱衣所にはバスタオルと着替えが畳んで置いてある。この見慣れた下着がここにあるということは、僕が実家から送った段ボールも、既に吉野が受け取り荷解きしてくれたのだろう。十才は年上であろう吉野は、本当に僕の執事になったのだろうか?
 リビングのソファで色素の薄い猫っ毛の髪を拭いているとスマホが鳴った。父からだ。
「郁三、無事に着いたか?」
「あっ、はい。先程着きました。それでお父さん、ここに吉野という......」
 父に吉野のことを訊こうとしたところで、風呂上がりの執事が僕の顔を至近距離で覗き込んで「シー」と人差し指を唇に当てている。どういう意味だろう。
「あぁ、吉野くんか。もう会ったのか?東京に知り合いが居ないと心細いだろうから、彼に時々郁三の相手をしてやってくれと頼んである。郁三が体調不良になった時に見てもらえるよう合鍵も渡してあるから、よくしてもらいなさい」
 顔を寄せ聞き耳を立てている執事を見れば、鋭く睨みを利かせてきて、これ以上のことを言わぬよう牽制される。僕としても風呂場でのことを父に知られたくない。「また連絡します」とだけ言い電話を切った。
 吉野は父が雇った執事ではなかった。けれど父は吉野の存在を知っていた。信頼もしているようだ。少しだけ安心できたが、何者なのかは分からないまま。改めて吉野を見れば、またタキシードに着替えていた。先程のものはびしょ濡れだったから、何着も同じ服を持っているのだろう。
「吉野、あの……貴方は何故ここに?」
 僕の問いに動揺もせず、ゆっくりとベストを羽織りボタンを留めている。
「その話は後日ゆっくりいたしましょう。まずは夕食をお召し上がりください。ビーフシチューを作っておきましたから。私もご一緒してよろしいですか?」
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

4人の兄に溺愛されてます

まつも☆きらら
BL
中学1年生の梨夢は5人兄弟の末っ子。4人の兄にとにかく溺愛されている。兄たちが大好きな梨夢だが、心配性な兄たちは時に過保護になりすぎて。

鬼上司と秘密の同居

なの
BL
恋人に裏切られ弱っていた会社員の小沢 海斗(おざわ かいと)25歳 幼馴染の悠人に助けられ馴染みのBARへ… そのまま酔い潰れて目が覚めたら鬼上司と呼ばれている浅井 透(あさい とおる)32歳の部屋にいた… いったい?…どうして?…こうなった? 「お前は俺のそばに居ろ。黙って愛されてればいい」 スパダリ、イケメン鬼上司×裏切られた傷心海斗は幸せを掴むことができるのか… 性描写には※を付けております。

ハイスペックED~元凶の貧乏大学生と同居生活~

みきち@書籍発売中!
BL
イケメン投資家(24)が、学生時代に初恋拗らせてEDになり、元凶の貧乏大学生(19)と同居する話。 成り行きで添い寝してたらとんでも関係になっちゃう、コメディ風+お料理要素あり♪ イケメン投資家(高見)×貧乏大学生(主人公:凛)

家事代行サービスにdomの溺愛は必要ありません!

灯璃
BL
家事代行サービスで働く鏑木(かぶらぎ) 慧(けい)はある日、高級マンションの一室に仕事に向かった。だが、住人の男性は入る事すら拒否し、何故かなかなか中に入れてくれない。 何度かの押し問答の後、なんとか慧は中に入れてもらえる事になった。だが、男性からは冷たくオレの部屋には入るなと言われてしまう。 仕方ないと気にせず仕事をし、気が重いまま次の日も訪れると、昨日とは打って変わって男性、秋水(しゅうすい) 龍士郎(りゅうしろう)は慧の料理を褒めた。 思ったより悪い人ではないのかもと慧が思った時、彼がdom、支配する側の人間だという事に気づいてしまう。subである慧は彼と一定の距離を置こうとするがーー。 みたいな、ゆるいdom/subユニバース。ふんわり過ぎてdom/subユニバースにする必要あったのかとか疑問に思ってはいけない。 ※完結しました!ありがとうございました!

【BL】男なのになぜかNo.1ホストに懐かれて困ってます

猫足
BL
「俺としとく? えれちゅー」 「いや、するわけないだろ!」 相川優也(25) 主人公。平凡なサラリーマンだったはずが、女友達に連れていかれた【デビルジャム】というホストクラブでスバルと出会ったのが運の尽き。 碧スバル(21) 指名ナンバーワンの美形ホスト。博愛主義者。優也に懐いてつきまとう。その真意は今のところ……不明。 「僕の方がぜってー綺麗なのに、僕以下の女に金払ってどーすんだよ」 「スバル、お前なにいってんの……?」 冗談? 本気? 二人の結末は? 美形病みホスと平凡サラリーマンの、友情か愛情かよくわからない日常。

年上の恋人は優しい上司

木野葉ゆる
BL
小さな賃貸専門の不動産屋さんに勤める俺の恋人は、年上で優しい上司。 仕事のこととか、日常のこととか、デートのこととか、日記代わりに綴るSS連作。 基本は受け視点(一人称)です。 一日一花BL企画 参加作品も含まれています。 表紙は松下リサ様(@risa_m1012)に描いて頂きました!!ありがとうございます!!!! 完結済みにいたしました。 6月13日、同人誌を発売しました。

エリート上司に完全に落とされるまで

琴音
BL
大手食品会社営業の楠木 智也(26)はある日会社の上司一ノ瀬 和樹(34)に告白されて付き合うことになった。 彼は会社ではよくわかんない、掴みどころのない不思議な人だった。スペックは申し分なく有能。いつもニコニコしててチームの空気はいい。俺はそんな彼が分からなくて距離を置いていたんだ。まあ、俺は問題児と会社では思われてるから、変にみんなと仲良くなりたいとも思ってはいなかった。その事情は一ノ瀬は知っている。なのに告白してくるとはいい度胸だと思う。 そんな彼と俺は上手くやれるのか不安の中スタート。俺は彼との付き合いの中で苦悩し、愛されて溺れていったんだ。 社会人同士の年の差カップルのお話です。智也は優柔不断で行き当たりばったり。自分の心すらよくわかってない。そんな智也を和樹は溺愛する。自分の男の本能をくすぐる智也が愛しくて堪らなくて、自分を知って欲しいが先行し過ぎていた。結果智也が不安に思っていることを見落とし、智也去ってしまう結果に。この後和樹は智也を取り戻せるのか。

【完結】極貧イケメン学生は体を売らない。【番外編あります】

紫紺
BL
貧乏学生をスパダリが救済!?代償は『恋人のフリ』だった。 相模原涼(さがみはらりょう)は法学部の大学2年生。 超がつく貧乏学生なのに、突然居酒屋のバイトをクビになってしまった。 失意に沈む涼の前に現れたのは、ブランドスーツに身を包んだイケメン、大手法律事務所の副所長 城南晄矢(じょうなんみつや)。 彼は涼にバイトしないかと誘うのだが……。 ※番外編を公開しました(10/21) 生活に追われて恋とは無縁の極貧イケメンの涼と、何もかもに恵まれた晄矢のラブコメBL。二人の気持ちはどっちに向いていくのか。 ※本作品中の公判、判例、事件等は全て架空のものです。完全なフィクションであり、参考にした事件等もございません。拙い表現や現実との乖離はどうぞご容赦ください。 ※4月18日、完結しました。ありがとうございました。

処理中です...