幼馴染は声で眠る

フィカス

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【第二章】幼き頃のこと

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「起きてください」
 肩を揺すられ目を覚ますと、くたびれた顔をした若い車掌が目の前に立っていた。状況が分からず辺りを見渡せばそこは新幹線車内で「東京駅ですよ」と、告げられる。
 隣を見ると尚依の姿はなく、あの幼い兄弟も母親も赤ん坊も、感じの悪い初老の男もいなかった。どこまでが夢だったのか一瞬わからなくなりながら、慌てて荷物棚に乗せたビジネスバッグを降ろし、座席のポケットに入れたペットボトルをしまい「申し訳ない」と謝りながら、下車しようとする。
「お客さん、傘、傘」
「あぁ、すみません」
 まだ頭が寝ぼけているようだったが、こんなにぐっすり眠ったのは久しぶりで、身体は軽くなっていた。

 新幹線の改札を出て、在来線に乗り換える。時刻は二十一時を過ぎていた。混み合った電車に揺られ雨の止んだ夜の景色を見ながら、ついさっきまで隣に座っていた尚依のことを思い返す。
 昔とは違うミルクティーのような明るい髪色を。髪の色を変えても少しも変わらない柔らかい雰囲気を。俺のことを見ていた大きな目を。そしてあの声を……。
 尚依と初めてあったのは、俺が五才、尚依が三才の時だった。
 初めて彼に「友ちゃん」と名を呼ばれた日のことは、今でもよく覚えている。あれが俺の初恋だから。



 俺の実家は、鄙びた温泉街で中規模の旅館を営んでいる。家族や従業員の一部は、客から死角になる本館裏手の建物に住んでいて、常に人の出入りがある環境で生まれ育った。
 あの日、温泉街の入口で幼稚園のスクールバスを降りると、停留所でめずらしく母親が待っていてくれた。女将である母親も、板長をしている父親も常に忙しく、手の空いている仲居が迎えに来てくれるのが常だったから、うれしくて「ただいまー」と駆け寄る。母親は小さな俺を抱きしめ「おかえり」と微笑んでくれた。
 母親は俺の手を引きながら、自宅へと続く坂道を歩く。
「友哉、あのね。今日からお姉ちゃんと別々のお部屋で眠ることになっても、大丈夫?」
「え?やったー!俺、今日から一人部屋?お姉ちゃん、いじわるばっかり言うから、一人がいいって、ずっと思ってた!」
 姉は四才年上のませた小学生だったから、俺のことがウザくて仕方ないと、いつも態度に現れていた。
「お姉ちゃんは別の部屋に移動するんだけど、かわりに新しいお友達が友哉の部屋に来るの」
「男?」
「そうよ。二才年下の男の子。お兄ちゃんらしくできる?」
「できる!同じ部屋にくるなんて、弟みたいじゃん!」
 サンタクロースに「弟がほしい」と手紙を書いて母親を困らせたことがあった俺には、本当に夢みたいな話だった。

 大きな玄関で慌てて靴を脱ぎ、廊下を走って自室に行くと、可愛らしい男の子とその母親が待っていた。男の子は大きな目でじっと俺を見てくる。
「こんにちは!」
「……」
「俺は友哉。おまえ名前は?」
「……」
 ただただじっと、俺のことを見つめている。
 男の子の母親がか細い声で、俺に話しかけてきた。
「友哉くん、こんにちは。この子は尚依よ。なおちゃんって呼んであげて」
 俺はコクリと頷く。
「それでね、尚依は皆とお話しをしないの。でも、友哉くんの言っていることや、私や女将さんが言っていることは、聞こえているから安心して」
「なおちゃん、喋れないの?」
「うーん、喋れないんじゃなくて、喋らないようにってお約束をしているの」
 子どもだったから、それが随分とおかしな話だとも思わなかった。
「お約束はいつまで?」
「ずっと長い間。でもね、お風呂に入ってパジャマに着替えてお布団に入った後なら、少しだけお喋りできるから、友哉くん、なおちゃんの話を聞いてあげてくれる?」
「うん!いいぜ」
 事前に、尚依の母親と俺の母親で打ち合わせができていたのだろう。母親は「歯も磨いたあとよ」と笑い、うなずく俺に二人は安心したようだった。

 怒りっぽい姉ではなく、可愛いらしい尚依と二人になった部屋で、俺ははしゃいだ。
 持っているミニカーを全部出して、畳のヘリにきれいに並べて。尚依に触らせてやるとうれしそうな顔をする。彼の母親の言う通り、言葉は全く発しなかったけれど、意外と不便はなく二人で楽しく遊べる。
 ミニカーの後は、宿泊客からは見えない裏庭で走り回って遊び、俺たちはすっかり打ち解けた。
 夜になれば従業員食堂の端っこに並んで座り、父親の作ってくれた夕食を食べ、いつも通り庭師のおじいさんに風呂に入れてもらい、脱衣所でパジャマに着替える。
「ねぇ、なおちゃん。お布団入ったら俺の名前呼んでくれるんだろ?」
 コクリと頷く尚依の返事に「やったー!」と大声を上げ飛び跳ねれば、廊下で待っていた母親に「静かに」と叱られた。
 自分でも何がそんなに楽しみなのか分からない。でも、もうすぐ尚依の声が聞けると思ったら胸が高鳴って、いつもは嫌いな歯磨きも率先してやった。
 仲居が部屋に並べて敷いてくれた布団に入ると、母親が「二人で大丈夫?」と問うから俺だけが「うん」と返事をする。
「友哉、きっと今夜はぐっすり眠れるわよ。おやすみ」
「おやすみ!」
 電気が消え、部屋の引き戸がゆっくりと閉まる。母親はいつもそうやって引き上げていくけれど、大抵は三十分もしないで「眠れない……」と事務仕事をする部屋へ俺が出向くのが恒例だった。

 この夜だって、気持ちが昂っていてすぐに眠れそうにはなかった。左側の布団にいる尚依に「なおちゃん」と呼び掛ければ、身体をこちらに向けてくれる。
「ねぇ、俺の名前呼んでよ」
 すると尚依は恥ずかしそうに、小さな、けれど聞き取りやすい声で「友ちゃん」と呼んでくれた。
 会話が成立しテンションが上がって、すぐに寝付けるような気分ではなかったはずなのに、気がつくと明るく陽が差す翌朝になっていた。

 それから、尚依と俺は同じ幼稚園に通った。年少のもも組と、年長のさくら組で教室は別々だったけれど、俺は事あるごとにもも組に顔を出し、尚依をいじめるやつがいないか、見回る。少しでも尚依が困った顔をしていれば、間に入って問題を解決してやった。
 幼稚園から帰れば、毎日二人で遊んだ。尚依の母親を見かけることは少なく、仲居や俺の母親に世話を焼かれながら毎日を過ごした。
 初日こそ名前を呼ばれただけで寝てしまった布団の中の会話も、少しずつ長くなっていった。それでも尚依と話しをすると、すぐに眠たくなり熟睡できるから「なおちゃんの声は魔法の呪文みたいだな」と、俺はいつも言っていた。
 寝つきが悪く、眠る前は酷く寂しい気持ちになることが多かった俺にとって、この現象は好ましいことだった。

 俺が小学生になり、二年遅れて尚依も同じ小学校に上がった。そして尚依が二年生のとき、彼の母親が長く患っていた病気で亡くなった。
 一人ぼっちになってしまった尚依に、俺の母親が優しく語りかける。
「ずっとここにいていいのよ。貴方のお母さんはなおちゃんが生まれるまで、この旅館で仲居としてたくさんお客様のお世話をしてくれた。貴方のお父さんも調理場で美味しいご飯をたくさん作ってくれた。二人にはとても感謝してるの。だから、何も遠慮せずにここで暮らしなさい」
 俺はその時初めて、尚依にも父親がいたのだと当たり前のことに気がついた。今はどうしているのだろうと疑問にも思ったが、口にはしなかった。
 それより尚依が喋らないのは、母親との約束だったはずだから、もう話をしてもいいのではないか?と考えていた。それを布団の中で尚依に問いかけたけれど、彼は首を横に振るだけだった。

 変わらずに俺と同じ部屋で暮らし続けた尚依は、本を読むのが好きな子どもになった。そして寝る前にはいつも俺に、読んだ本の話をしてくれた。俺は三分もすれば寝てしまうのだけれど、その短い時間がとても心地よい。
 尚依が中学一年に上がった時、俺は噂話を聞くことになる。
「一年に喋れない奴いるの知ってる?」
「あぁ、知ってる知ってる。だけどあれ、喋れないんじゃなくて喋らないらしいぜ」
「なんで?ずるじゃん。あいつだけ授業中に当てられないんだから」
「俺の母さんが言ってたんだけどさ、あいつ、父親を殺したらしい」
「は?何それ、こわっ」
「あいつの声を聞くと誰でも眠くなっちゃうんだってさ。それで子どもの頃、車の助手席に乗ってたあいつのせいで父親が居眠り運転して、事故って死んだらしいぞ」
「うわっ。で、あいつは助かったの?」
「無傷だったらしいよ」
「ヤベー」
 俺はその話が本当だろうと嘘だろうと、尚依のことを悪く言った奴らへの怒りが制御できず、その会話をしていた三人組をボコボコに殴った。
 酷い怪我をさせ、母親が学校に呼び出され、殴った理由を問われたけれど誰にも言わなかった。
 その後も常に目を光らせ、尚依がトラブルに見舞われないよう気をつけた。ただ、俺が尚依だけに親切にすることを面白く思わない奴らが出ないよう、チッと舌打ちをして面倒くさいフリをしたり、適度に周りの他の奴らにも気を配る癖もつけた。

 一足先に高校生になった時、俺たちは隣り合った別々の部屋を与えられた。一人になりたい年頃だろうから、という母親の気遣いだったが、部屋が別れた初日から俺はまた寝つけなくなった。
 結局、就寝前に枕を持って尚依の部屋に行き、彼の布団に潜り込む。互いに躊躇いはなく、今度は同じ布団で寄り添って眠ることが日常になる。
 十代の男二人が狭い布団で一緒に寝るのは傍から見ると奇妙だったようで、新入りの仲居が「おかしいんじゃないか」と母親にご注進した。
 けれど母親の目にはすっかり身体が大きくなった俺たちが、まだまだ小さな子どもに見えていたのだろう。勘ぐった仲居が俺たちの目の前で叱られて、その話は終わりとなった。

 母親も父親も、実の子である姉と俺に続く末っ子のように、尚依を可愛がった。意地悪な姉も尚依には優しかった。
 どうやら尚依には父方に叔父がいるらしいが、その人は海外に住んでいて疎遠なままだという。
 母親は、尚依が進学する高校を決めるとき、大学へ進むことを考慮して検討するように言って聞かせ、学費は気にしなくていいと伝えていた。
 父親は、尚依の声が眠気を誘うということに関して治してやりたいと、以前から色々調べていたようだ。どこぞの大学教授に話を聞きに行ったり、尚依を検査に連れていったりもしていた。
 その結果として俺が聞かされたのは、「尚依が声変わりをしたら、眠くなる意外に他の特性も発動するかもしれないから、気をつけてやってくれ」ということだった。父親はそういう事例をいくつか聞いて警戒していたようだが、具体的なことまでは言わなかった。
 尚依が高校一年になり、俺が三年になった頃、変化は尚依ではなく俺に訪れた。
 尚依の顔が近くにあれば柔らかい頬を指で突きたくなり、形の良い後頭部が目に入れば髪をくしゃくしゃと撫でたくなる。布団に入ればふざけた振りをして背中に抱きつき、俺のほうが早く目を覚ませば尚依がじっと寝顔を眺めてしまう。
 尚依はその度に、照れて耳まで真っ赤にするから俺の行為は増長する。可愛くて、可愛くて、愛おしくて、胸がギュッと苦しくなる。
 尚依が遅い声変わりをしたのも、この頃だった。ごく僅かな人しか聞いたことがないであろうその声色は、少し低くなったけれど、聞き取りやすい綺麗な声のままだ。
 いつしか俺たちは、寝る前にキスを交わすようになっていた。チュッと触れるだけの幼い子どもみたいなキスは幸せをもたらし、罪悪感は全くなかった。

 春が来て、俺は東京の大学へと進学し、今も暮らす都内のワンルームマンションで一人暮らしを始めた。地元から通える場所に大学が無いのだから仕方がない。五才からずっと一緒に眠った俺たちも、これを機に離れ離れになってしまった。
 新生活が始まっても、夜はやはり上手く寝つけず、毎晩尚依へ電話を掛けた。スマホ越しでも彼の声を聞けば、スヤっと眠りにつけるから。けれど、尚依に触れたい、温かみを感じたい、キスをしたい、そんな欲求は募るばかりで、満たされない想いを一人きりの部屋で持て余す。
 東京へ来て三か月たった夜のこと。
 シャワーを浴び、狭いベッドに寝転がり、俺の手は自分の股間へと伸びる。尚依の姿を思い浮かべながら、ゆっくりと陰茎を擦りあげて自慰をした。
「尚依、尚依……」
 いつしかなおちゃんから尚依へと呼び捨てになっていた呼び名を、小さな声で呟きながら。
 頭の中で彼を裸にし、身体中に口づけを落としていく自分を想像する。妄想の中の尚依は恥ずかしそうに身体を赤く染めながらも俺を求めて、首に両手を回してくれた。
 先走りが溢れヌルヌルと滑る先端を右手の親指で撫でまわしながら、左手に持つスマホで尚依に電話を掛けた。
「も、もしもし、尚依。……勉強してた?」
 興奮して妙に息遣いが荒いのがバレないようにせねば。
「ううん。大丈夫だよ、友ちゃん。今日は大学どうだった?」
「……んっ」
「友ちゃん?」
「が、学校は、普通。な、尚依は今、どんな本、読んでるんだ?」
「そうそう、友ちゃんにその話をしたかったの!」
 彼の声を聞きながら、右手を大きく動かし、陰茎をしごく。眠気が訪れる前に、早く達しなくてはならない。
 射精感はどんどんと昂まっていく。気持ちがいい、とても、とても。
「なっ尚依っ、あっ、いっ」
「え?友ちゃん」
 電話の向こうで、きっと気がついてしまっただろう。俺がしていた卑猥なことを。

 大学に入って初めての夏休み、実家の旅館でバイトをする約束をしていた俺は、すぐに地元へと戻った。俺の仕事は、フロントに入り観光地の説明をしたりタクシーを呼んだり、宿泊客の要望に応えることだ。
 六月頃にこの温泉街がテレビ番組で紹介されたとかで、例年の夏より混み合い、常に満室の予約が入っていた。
 同じく夏休みの尚依も働きたいと厨房の皿洗いをかってでて、戦力となってくれた。実は海外に行っていた彼の叔父が夏前に帰国し、尚依を引き取ると申し出たらしいが、高校卒業まではここに居たいと訴えたと聞き、心底ほっとした。
 俺たちは暑さに負けずよく働き、心地よく疲れ、ガンガンに冷房を効かせた尚依の部屋で、同じ布団に入って眠った。
 寝しなに再び交わした子どものようなキスは、数日後には深く甘いものへと変わった。キスにより昂ってしまった股間を彼の太腿に押しつければ、尚依のものだって大きく形を変えていく。
 だから、一週間も経つ頃には、布団の中で二人の陰茎を合わせて俺が握り、一緒にしごきあげて吐精するという行為にまで発展した。
 尚依は僕が寝てしまわぬように声を殺し、顔を真っ赤にして悶える。気持ちよさそうに身体をくねらせ、達する時には首を反らし、綺麗な喉仏を晒す。
「尚依、尚依、なっ尚依……」
 なんて可愛く愛おしい存在なのだろう。
 思えばあの夏の前半は、俺にとって最も幸せな時間だった。
 しかしそれは突然、破綻した。

 その日も旅館は満室だった。それでも夕食の片付けが終わり、自慢の露天風呂も空きはじめる時間帯になると、裏方皆がホッとひと段落をする。
 従業員用の風呂に入り、自室でパソコンを少し触り、枕を持って尚依の部屋に出向く。
 尚依は布団の中で本を読んでいたから、邪魔をしないように、するりと隣に潜り込んだ。
 彼はうれしそうに微笑みながらも、キリの良いところまで読み進めてから本を閉じた。そして立ち上がり、部屋の照明を消す。
 カーテンが少し開いていて、満月の明かりが部屋を照らした。窓があるのは山側なので、俺も尚依もその隙間を気にもしない。
 布団の中で足を絡め合えばクスクスと笑い、背中に腕を回してくる。俺は彼のおでこに、頬に、鼻にとキスを落とし、唇を奪う。
 尚依からは余裕のある笑みが消え、目つきがトロンとし、イヤらしい表情に変わっていった。
 パジャマ代わりの短パンとTシャツを脱がせ、自分もボクサーパンツ一枚になる。月明かりが彼の白い身体に反射して美しい。
 ギュッと抱きしめ合えば、互いの昂ったものが重なり合い「あぁ」と尚依が甘い息を吐く。
 その時、ドアが「トントン」と鳴らされる。反射的に二人の身体がビクンと跳ねた。そして返事など待たずに、元々子ども部屋だった鍵のないドアが勢いよく開いた。
「友哉、ここにいる?あのさー、熱出したお客さんがいてねー」
 女将見習い中の姉だった。彼女の後ろには父親もいた。彼女らの目ははっきりと、裸で抱き合う俺たちを捉えていた。どんな言い訳も通用しないくらいに。
 今までこうして部屋に誰かが訪ねて来たことはなかったから、俺は完全に油断していた……。

 姉の顔が嫌悪感に歪み、父親は「お、おまえたち、な、何をやっているんだっ!」と怒鳴った。どちらかというと温厚な人だから発せられた大きな声に父の動揺が伝わる。
 そこへ母親が「どうしたの?、早くしてちょうだい」と言いながら現れたが、一目で状況が把握できたのだろう。父と姉を促して部屋に入って、ドアを閉めた。
 狭い部屋に尚依を含めた家族五人が揃う。俺と尚依は裸でベッドに入ったままだ。酷く気まずい。
「友哉、菖蒲の間に泊まってるお客様が高熱を出したの。お父さんはビール飲んじゃったし、あんた車で諏訪先生を迎えに行ってきてちょうだい」
 咎めもしないで、要件を話し始める母親に戸惑っていると「ほら、早く着替えなさい」と急かされる。
「お父さんは氷枕作ってあげて。若女将は先生への謝礼を用意」
 いろんな客と対峙している女将の、肝の座り方はやはり凄い。
「それから尚依。お父さんから話しがあるから後で事務所に来なさい」
 最後に告げたその声は、とても重たく響いた。

 俺は車でいつもお世話になっている町医者の先生を迎えに行った。往診をしてもらい、また病院まで送り届ける。発熱の原因は今回の旅行の為に、数日分の仕事を無理矢理に片付けてきた為の疲れということだった。
 車を駐車場へ戻し部屋に帰ったときには、かなり遅い時間になっていた。尚依の部屋の電気は消えていたけれど、軽くノックをして彼を訪ねる。尚依は布団の中で丸まっているようで、こんもりとタオルケットが盛り上がっていた。
「尚依、ただいま。さっきは本当にごめん。俺が油断した。旅館のバイトってこんな雑用も含まれるのな。なぁ父さん、なんだって?酷いこと言われた?ごめんな、本当に」
 布団の山はぴくりとも動かず、何の反応もない。しばらく待ったが諦めて「おやすみ」と声をかけて自室へ戻った。
 枕は尚依の部屋に置きっぱなしだったから、タオルを丸めて頭の下に敷いて横になる。けれど全く寝付けず、気がつけば外は徐々に明るくなっていった。

 その夜から、尚依は俺の前でも全く喋らなくなった。夜部屋を訪ねてもブルブルと首を横に振り、入室を拒絶される。目も合わせてくれない。スマホにメッセージを送っても既読無視だ。
 尚依にとって、俺と裸で抱き合っていたことがバレたのは、そんなに辛いことだったのだろうか。ゲイだと思われたくなかったのだろうか。尚依も俺を好いてくれていると思っていたのは、勘違いだったのだろうか……。
 そして数日後。
 部屋の荷物と共に突然、彼はいなくなった。旅館の皆で探したけれど温泉街に尚依の姿はなかった。
 翌日、尚依の叔父から女将宛に電話があったという。
 尚依の希望により、今後は叔父と暮らす、高校は転校させる、今までのご恩はいつかお返ししますと、そんな内容だったらしい。
 俺は母親にも父親にも姉にも、旅館の人々にも落ち込んだ振りを見せぬよう必死で明るく振る舞った。
 尚依とは兄弟みたいなもので、別に恋愛感情があった訳ではないのだ、と周りに思わせる為に。あれはほんの遊びみたいな行為で、尚依はゲイではないのだ、と思ってもらう為に。
 何のダメージも受けていないフリをしながら、必死に笑顔でバイトをこなした。
 実際は毎晩眠れない夜を過ごし、尚依のことを思いながら、また彼と会える日がくることを願い続けて。

 その俺の強がりこそが周囲の誤解を深めることになっていたと知ったのは、つい最近のことだ。
 俺の父親が尚依の声変わりを心配していた理由は、声色の変化が催淫効果をもたらし、聞いた者が眠気ではなくイヤらしい気分になる可能性があると、どこぞの大学教授に聞いたからだった。そうなる確率は三割と言われたそうだ。
 あの夜、父親から事務所でその可能性について聞かされた尚依は、俺が彼の声でおかしくなって自分にキスをしたり触ったりしてきたと誤解したのだろう。
 そんなはずはないのに。俺は小さな頃から尚依のことが大好きだった。だから彼にキスをしたかったし、触れたかったし、抱きたかったのだ。
「好きだぜ」
 尚依に一言もそんな大切なことを告げなかった俺が、すべて悪いのだ。



 俺は大学を出て地元の観光協会に就職した。今は月の半分は旅館の自室で、残りは東京のワンルームマンションを拠点に温泉街を売り込む営業をしている。
 今日の昼間は温泉街の役員たちと観光客誘致に向けた目玉になるものがないか話し合う会に参加していた。あの夏以降、宿泊客が右肩下がりの温泉街には、見て回る場所も、遊ぶ場所も殆どないのだ。
 ろくなアイデアは出なかった。明日からはまた東京の事務所で頭を悩ませる日々になるだろう。
 最寄駅で電車を降り、雨に濡れた道路を歩き、アパートへと向かう。それでも尚依に会えたお陰で、いつもよりずっと足取りが軽い。
 ふと、アイデアを思いついた。
『熟睡できる温泉街』
 宿自慢の温泉に入って、よい布団に、よい枕。快適な室温に湿度、部屋の香りにも気を配り、よく眠れる環境を作る。それにオプションで本の読み聞かせサービスもつけたらどうだろう。
 あぁ、このご時世に沿った素晴らしいアイデアだ。尚依にお礼を言わなければ。
 彼の居場所を今は誰も知らない。時間がかかったとしても、俺は尚依を見つけ出してみせる。
 新幹線で幼い兄弟に読んでやっていた尚依の手作りの絵本、読んでる声は聞けなくても、絵と文字はしっかり見た。
『ねむたいをくばるねこ』
 あの絵本が、俺たちを再び合わせてくれるのではないだろうか。なぜかそう思った。
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