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1巻

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   第一章 


「ラウラ、僕は心底君のことを軽蔑するよ。悪いけど、君とは結婚はできない。婚約は破棄させてもらう」

 酷く冷たい声で、そう言い放ったのは私の婚約者である侯爵家嫡男のフェリクス・マーラーだった。
 そして、フェリクスの後ろに隠れるようにくっついているのが妹のレオナだ。
 彼女の目には薄っすらと涙らしきものが見えるが、あれは涙ではない。恐らく目薬だ!
 私の名前はラウラ・バーデン。伯爵家の長女として生まれ、今年で二十歳になる。
 栗色のロングストレートの髪に同色の瞳で、あまり外出はしないため肌は白く体つきは華奢なほうだ。
 これといって目立つポイントがあるわけでもないし、普段着ている服も落ち着きのある色ばかりを選んでいる。
 そのせいでよく妹のレオナからは地味だと馬鹿にされるが、派手なものは苦手なので大して気にしていない。
 妹のレオナは私より三つ年下の十七歳。
 髪色や瞳の色は私と同じだが、彼女の髪質はふわりと柔らかく、ぱっちりとした大きい瞳は愛らしい。

(レオナは見た目だけは可愛い。見た目だけは……)

 そんな妹のレオナと、私の婚約者であるフェリクスが随分前から特別な関係であることには気付いていた。
 だから、突然こんな場面に遭遇しても、私は大して驚かなかった。

「分かりました。軽蔑されているのであれば仕方ありません。婚約破棄については受け入れます」
「……っ⁉」

 私が普段の口調で答えると、彼は酷く狼狽うろたえているように見えた。

(この人は自分から婚約破棄を宣言してきたくせに、何をそんなに驚いているの?)

 私は思わず怪訝な顔を浮かべてしまう。
 フェリクスとの婚約が決まったのは、私が物心ついた頃だった。
 いわゆる政略結婚といわれるもので、貴族であれば決して珍しいことではない。
 最初は少し婚約者という言葉に憧れを持っていたので、興味はあった。
 しかし実際にフェリクスという男を知っていくと、私の思い描いていた憧れとは真逆の存在であることに気付き、その気持ちは一瞬で冷めてしまった。
 簡単に説明すると、彼は優柔ゆうじゅうだんで毎回話すことがころころ変わる、だめな人間なのだ。
 さらに私のいる邸内で、堂々と浮気まで始めた。
 相手は妹のレオナだ。

(こんな男を好きになれというのは、どう考えても無理だわ)

 そんな理由から、婚約破棄を迫られても私が傷つくことはないし、妹のレオナが好きならば二人が結婚すればいいと思ってしまう。
 何よりも、やっとフェリクスの婚約者という立場から解放されることに私は安堵しているくらいだ。

「お姉さま、強がっているのですか?」
「強がってなんていませんよ」

 レオナはフェリクスの背後から不満げな顔をちょこんと覗かせると、私にそんなことを聞いてくる。
 私は特に表情を変えないまま、さらりと答えた。
 するとレオナの顔はさらに険しくなる。

「ラウラ、本当にいいのか? 婚約破棄だぞ?」
「はい、私は構いません。フェリクス様がそう仰るのであれば受け入れます」

 フェリクスの表情はわずかに引きっていて、その声からは完全に勢いが失われていた。

「お姉さまが今まで私にしてきたことを謝っていただけるのであれば、フェリクス様も許してくれるかもしれませんっ!」

 彼女の言葉を聞いて、私はわずかに眉をひそめた。

「どうして、私がレオナに謝らないといけないの?」

 私がしれっと答えると、レオナはさらに不満そうにムッと顔をしかめた。

「ううっ、酷いわ‼ 私にあんなに酷いことを言っておいて、都合が悪くなったら忘れるなんて卑怯よ! 私がどれだけあの言葉に傷ついたか……」
「ラウラっ! レオナに謝れ! ああ、こんなにも泣いて。可哀そうに」

 フェリクスは私のことをきつく睨みつけると、泣いているレオナを抱き寄せ、なだめるように優しく彼女の頭を撫でていた。

(だめだわ、この人達に付き合っていられない。そもそも私は注意しただけで酷いことなんて一つも言っていないのに)

 私は呆れて大袈裟にため息をもらすと、無視して部屋に戻ろうとした。

「ラウラ、まだ話は終わっていないぞ‼ 逃げるつもりか⁉ レオナに謝れ‼」

 フェリクスは怒りの感情をぶつけるように私に向かって叫んでいた。

(うるさいな……)

 変な言いがかりをつけられて、怒声まで浴びせられ、謝ってほしいのは私のほうだ。

「一体、何の騒ぎだ? これはフェリクス殿」

 騒がしい声を聞きつけたのか、奥の部屋から父が出てきた。
 また面倒臭い人間が一人加わり、私は落胆するようにため息をもらす。

「お父さまっ‼ 聞いてください。お姉さまが、また私に酷いことを言うんです」
「なんだと⁉ ラウラ、お前はまたレオナをいじめたのか?」

 レオナは父の姿を視界に入れるなり、悲痛な表情を浮かべたまま泣きついた。
 そんなレオナの態度を見た父は、頭に血が上ったかのように怒鳴り散らし、私のことを憎しみの目で睨みつける。
 このような光景を私は何度も目にしているせいか、いい加減慣れてしまった。

「バーデン伯爵、僕はラウラとの婚約を破棄したいと思っています。レオナに酷いことばかり言う彼女と結婚したくない。どう考えても無理だ。僕はラウラではなく、レオナと結婚したいと思っています」
「なんですと⁉ ……そう、ですか。レオナと……。分かりました」

 フェリクスの告白のような発言を、レオナは嬉しそうに微笑みながら聞いていた。
 うっとりとした表情を見せるレオナと目が合うと、フェリクスは照れたように頬を染める。

(これで解決かしら。私はもう関係ないし、部屋に戻っても構わないわよね)

 私がこの場から立ち去ろうとしたその時、不意に父と視線が合った。
 目を細めべつするような視線を向けられ、私は何か嫌な予感を察知した。

「ラウラ、婚約破棄されたお前は、もうこの伯爵家には必要ない。出ていけ‼」

 父は顔を真っ赤にして興奮気味に言い放つ。
 さすがにこの言葉は想定外で、私はしばらくの間、固まってしまった。

(出ていけ、か……)

 私はこの伯爵家が大嫌いだ。
 何かと妹と比べては嫌味を並べてくる母親に、私の言葉なんて一切聞く耳を持たない父親。
 そして、私のことをおとしめようとする我儘わがままな妹。
 こんな家には、なんの未練もない。
『出て行け』という言葉に爽快感すら抱いてしまう。
 心の片隅で、私はそうしたいと願っていたのかもしれない。
 こんな虐げられるだけのつまらない人生から抜け出して、楽になりたかった。
 家を出る行為が無謀なことなのは十分承知しているし、一人でうまくやっていける自信も全くない。
 だけど、この時の私は『出ていく』という選択肢がすごく魅力的に思えて仕方がなかった。

(ここには私の居場所なんてないわ。きっとこれからだって変わらないはずよ)

 そんな風に思うと、気持ちが重く沈んでいく。
 その気持ちが後押しになり、私は覚悟を決め大きく深呼吸をした。

「分かりました、出ていきます」

 私は静かに呟くと、自分の部屋に戻り必要最低限の荷物を急いで鞄に押しこめる。
 そして、部屋を出てからは誰とも目を合わすことなく邸をあとにした。
 半分勢いではあったけれど、後悔はしていない。
 長年背負っていた憂鬱な気持ちが徐々に晴れていくようで、なんとなく気分が良かった。
 私はとりあえず王都の中心部へと向かうことにした。


 私が住んでいた伯爵邸は王都の中心から少し離れた場所に存在している、いわゆるタウンハウスだ。
 そのため、王都の中心街に辿り着くまでに、あまり時間はかからなかった。
 一応、荷物を鞄に詰めてきたが、金目のものは一つもない。
 両親はレオナには何だって買い与えていたが、私は違う。
 どうしても顔を出さなければならない王家主催のパーティーに参加する時は、レオナにドレスや宝飾類を借りていた。
 さすがにみすぼらしい姿で出席なんてできないからだ。
 わずかな所持金は持ってきたが、それも数日もすればすべてなくなってしまうだろう。

(さすがにお金がないと、困るわね。どうしよう……)

 王都の中心街に着いたものの、早速難題を抱えていた。
 野宿すれば宿代は浮くが、さすがに怖いし抵抗がある。
 そこで私は髪を売ることにして腰まであった長い髪を、肩くらいまでばっさりと切り落とした。
 今の私はもう貴族でもないわけだし、髪が短くなったとしても何ら問題はないはずだ。
 それに髪が短くなると、気持ちもすっきりできて良いリスタートが切れそうな気がした。
 折角新しい人生を歩んでいくのだから、前向きな気持ちでいたほうがいい。
 髪は思ったよりも高い値段で売れたので、これで数日は安心して過ごすことができそうだ。
 しかし、お金が尽きる前に働き口を見つけなければならない。
 そう思い立つと、私は直ぐにギルドへと向かうことにした。
 ギルドでは冒険者向けの討伐依頼など、さまざまな依頼を受けつけていて、一般人向けの働き口の募集も常時行っているようだ。
 私は働き口の依頼が張りつけられている掲示板を見にいった。
 掲示板にはずらりと紙が貼られていて、一通り目を通してみる。
 多種多様な仕事があり、自分にできそうなものを考えながら探していくと、一つ目に留まる張り紙があった。
 それは公爵家でのメイドの募集だった。
 高収入で住みこみプラス三食付きと書かれている。
 なんて魅力的な内容なのだろう。

(メイドってうちの邸にもいたけど、お茶の準備をしたり、掃除をしたり主に雑用よね)

 それなら私にもできるかもしれない。
 他の募集も一通り見たが、これ以上に待遇が良いものは見つからなかった。
 経験者歓迎と書かれているが、未経験者でも大丈夫なのか聞いてみることにした。
 そう思い、私は掲示板からその張り紙を取って受付へと向かう。

「あの、メイド経験はないのですが、大丈夫でしょうか?」
「多分問題ないとは思いますが、本当にこちらを志望するおつもりですか?」

 窓口の受付係はその紙を見て、とても険しい顔をして言った。
 もしかして、私には無理だと思われたのだろうか。
 そんな不安が頭をよぎるが、今の私には迷っている余裕なんてない。

「はい、できたら応募したいと思っています」

 弱気な姿を見せたら断られるかもしれないと思った私は、はっきりとした口調で答えた。

「貴方は、ヴァレンシュタイン公爵様をご存知ではないのですか?」
「えっと……」

 私はあまり貴族については詳しくなくて、名前を出されても分からず口もってしまう。

「ヴァレンシュタイン公爵家の当主である、アルフォンス様は王族です。そして若くして近衛騎士団を率いていた方です。一年程前に退団されて戦果を挙げた功績で、公爵位を与えられたそうです。当時、戦場では数百……、いや、数千人は切り殺したと言われていて、人を斬ることに一切の躊躇ちゅうちょはない。気難しい人で、少しでも逆鱗に触れれば……」
「…………」

 受付係の脅しともとれる発言に、ぞくりと背筋に鳥肌が立つ。
 公爵家の当主である、アルフォンスという人物の怖さは十分すぎる程伝わってきた。

「怖がってすぐに辞められる方も多いので、公爵様は大変怒っておられます。高待遇なのはなかなか続けられる人間が見つからないからです。貴女にその覚悟はありますか?」
「……それは」

 そんな話を聞かされて私は委縮してしまう。
 だけど、こんなに高待遇の求人なんて他にはないし、『住みこみプラス三食付き』という言葉に魅せられてしまった。
 今の私には行く場所なんてどこにもないし、助けてくれる人もいない。頼れるのは自分だけだ。
 真面目に働けば、きっと主である公爵様に目を付けられる心配もないだろう。

(大丈夫……。この仕事が決まれば住むところも、食事の問題もすべて解決するわ)
「私、ここで働きたいですっ!」

 私は再びはっきりとした口調で答えた。

「覚悟は……、ありそうですね。分かりました。それでは後日公爵邸で面接を受けてもらうことになります。こちらから公爵家に連絡を入れさせていただきますので、追って面接の日程をお知らせしますね」
「分かりました。よろしくお願いします!」

 面接があるので採用されるのかはまだ分からないが、やれるだけやってみようと思っている。
 それに仕事が決まるかもしれないと思うと、少しだけほっとした。
 直ぐにギルドの人が公爵家に連絡を入れてくれ、翌日には面接の日程を知らされた。


 そして、それから三日後。
 私は面接を受けに公爵邸を訪れていた。
 執事に「面接に来ました」と伝えると応接間へと通された。
 私の心臓はうるさい程にバクバクと鳴り響いている。
 こんなに緊張するのは生まれて初めてかもしれない。
 貴族の邸は見慣れているので驚かない自信はあったのだが、さすが公爵邸というべきなのか、予想を遥かに超えた大きさで、邸を取り囲むように大きな庭が広がっている。
 背の高い生垣は綺麗に同じ高さで並び、中心には薔薇園もあるようだ。
 薔薇の甘い香りを感じながらさらに奥へと進むと、まるで城のような造りの建物がどっしりと構えていた。

(私、来る場所間違えたかな……。未経験者の私が勤めるような場所ではない気がするわ)

 待っている間、つい弱気なことを考えてしまい全身がどんどん強張っていく。
 その時、急に扉が開き奥から執事服を着た初老の男が入ってきた。
 年齢は六十前後といったところだろうか。
 髪は白髪なのだが、執事服をしっかりと着こなし姿勢もすごく綺麗だ。
 きっと長年執事として仕えている者なのだろう。

「よ、よろしくお願いします」

 私は慌てるようにソファーから立ち上がり挨拶をしたのだが、緊張しすぎていたこともあり声がわずかに震えてしまう。

「大分緊張なさっているようですね。私はただの執事ですので、気を楽にしてくださいね」

 執事の男は穏やかな口調で話し、私に向けられた表情もとても優しそうに見えた。

(優しそうな人で良かったわ)
「早速面接させていただきますね。座りながらで構いませんので、楽な気持ちで私の質問に答えてください。ああ、私としたことが挨拶を忘れていました。私はヴァレンシュタイン公爵家に仕える執事長のアルバン・バシュと申します。まずは貴女のお名前を伺ってもよろしいですか?」
「はい。ラウラ・バー……いえ、ラウラと申します」

 途中まで言いかけたが、私はもう伯爵家の人間ではない。
 だからラウラとだけ名乗った。

「ラウラさんと仰るのですね。メイドのご経験はありますか? どこかのお邸で仕えていたなどあれば教えてください」
「ありません。私はメイドの経験もないですし、働くのも初めてになります」

 私が答えるとアルバンは「働くのも?」と少し驚いた顔をして聞き返してきた。

「はい。雇っていただけたら一生懸命働かせていただきますっ! 最初は慣れないかもしれませんが、必死で覚えます!」

 私は質問されていないことまで思わず喋ってしまう。それくらい緊張していた。

「ふふ、ラウラさんは随分とやる気がありそうですね。ならば、採用しましょう」
「え……? ほ、本当ですか?」

 あまりにも簡単に採用されてしまい、私はきょとんとしてしまう。

「ええ、本当ですよ。ずっと人手不足で困っていたので、貴女みたいに若くてやる気がある人に入っていただけるのはありがたいことです」
「ありがとうございます‼ 私、精一杯頑張りますのでどうぞよろしくお願いします」

 嬉しさが込み上げてきて、自然と声も明るいものへと変わっていく。
 まさか、こんなにも簡単に決まってしまうなんて思ってもいなかった。

(本当に採用されちゃった。どうしよう、すごく嬉しい。頑張って早く仕事を覚えて、クビにならないようにしなきゃ)
「ああ、それから大事なことを伝えるのを忘れていました。こちらのお邸の当主であるアルフォンス様についてですが、厳格な方でいらっしゃいますが決して怖い方ではございません。噂ではいろいろと言われているようですが、半分は大袈裟に周りが言っているだけです」
「そうなのですか?」
「アルフォンス様は普段は穏やかで、使用人にさえも気を遣ってくださる、お優しい方ですよ。だから安心して働いてくださいね。ただ……、敵だと見なした相手には容赦ないので、それだけ気をつけてください」
「…………」

 以前ギルドの受付係が話していた内容を思い出し、私は小さく体を震わせた。

(公爵様ってやっぱり怖い方なのかしら。だけど、敵だと思われないようにすれば大丈夫よね)

 そんな時、奥のほうからガチャっと扉が開く音が聞こえ、私は視線をそちらへと向けた。

「アルバンさんっ! 折角来てくれた新しいメイド志願者を怖がらせてどうするんですか!」 
「ああ、すみません。一応、伝えておいたほうがよろしいかと思いまして。中には悪いことを考えているやからもおりますから。だけど、ラウラさんはそのような心配はなさそうですね。怖がらせてしまって申し訳ありません。実は、そういう反応を見るのが楽しみで、少し大袈裟に話してしまいました」

 アルバンは冗談ぽく言った。

(冗談、だったの?)
「もうっ! 毎回面接で逃げちゃう人が多いのって、半分はアルバンさんのせいよ! 今日は間に合って良かったわ」

 視線の先にはメイド服を着た若い女性が立っていて、呆れた顔でアルバンを見ている。
 アルバンは彼女に制されて苦笑しながら再度謝ってきたので、私は「大丈夫です」と弱弱しく答えた。

「ラウラさん、だっけ? アルバンさんの言葉は信じなくて大丈夫よ。アルフォンス様は本当に優しい方だから」
「そうなのですね。それを聞けて安心しました」

 私がほっとしていると、若いメイドはにこにこしながらソファーのほうへと近づき、私の隣に腰かけた。

「ラウラさんは、採用されたのよね」
「はい」

 私が戸惑っていると、アルバンが代わりに答えてくれた。

「私がしっかり仕事を教えてあげるから、辞めずに頑張ってね。あ、私はビアンカよ。年齢が近い感じの子って他にいないから、ラウラさんみたいな人が来てくれてすごく嬉しいわっ!」

 ビアンカは本当に嬉しそうに声を弾ませる。
 彼女は赤毛の髪に色素の薄い茶色い瞳をしていて、よく喋る明るそうなタイプだ。
 話しやすそうな感じで、なんだかほっとする。

「ラウラさんは、いつから仕事に入れる?」
「いつでも大丈夫です。できれば早いほうが助かります」

 働けるなら早いほうがいい。
 お金もそろそろ底を尽きそうだったので早く仕事をしたかった。

「ビアンカさん、私の仕事を取らないでください」
「えー、いいじゃない。ねえ、アルバンさん。ラウラさんの部屋ってもう用意できる?」

 いつの間にかビアンカが話の主導権を握っていて、アルバンは役目を奪われてしまい苦笑している。
 私はそんな二人のやりとりを眺めながら、仲が良いんだなと感心していた。

「使用人の部屋はいつ来られても大丈夫なように準備はできていますよ」
「じゃあ、ラウラさん。私が部屋まで案内してあげるわ!」

 ビアンカは私の腕をグイっと掴んだ。

「よろしくお願いします」
「そういうことなのでアルバンさん、あとは私に任せてね!」

 ビアンカは私の腕を強引に掴みながら扉のほうに歩き出す。
 私は慌ててアルバンさんのほうを向き、軽く一礼し、この部屋をあとにした。
 二人で廊下を並ぶように歩いていると、ビアンカは話し始める。

「ラウラさんは貴族でしょ? 雰囲気で分かるわ」
「えっと……」

 説明したほうが良いのか私が迷っていると「いろいろ事情があるんでしょ? 無理に話さなくていいわ」と先に言われてしまった。

「私は生まれた時から平民だったの。まあ、見れば分かるよね。マナーなんて何も知らないし、敬語もまともに使えない」
「……」

 彼女と出会ってまだ数分しか経っていないが、言われてみれば少し砕けた会話のようにも感じる。
 しかし、気の利いた言葉が思いつかず、私は何も返すことができなかった。

「ラウラさん、戸惑いすぎよ。別に平民であることを悔やんでいるわけではないから、そんな顔をしないで。なんか、ラウラさんって貴族って感じがあまりしないわね」
「そうですか?」

 ビアンカは「そうよ」と即答するとクスクスと楽しそうに笑っていて、その表情から不快感は一切見受けられなかった。

(良かった。怒っていないみたい)

 ほっとすると緊張も自然と緩んでいく。

「私ね、幼い頃に両親を亡くしてからずっと孤児だったの」
「え……」

 突然の言葉に私は耳を疑った。
 しかし、その言葉はしっかりと聞き取れていたので勘違いではないはずだ。

「孤児院を出たあと、この公爵邸で仕事をするようになったんだけど、アルフォンス様は私の生い立ちなど気にすることなく接してくれるのよ。信じられないわよね」 

 悲しい話をしているはずなのに、ビアンカの表情が暗くなることはなかった。
 彼女をそんな表情にさせているのは他でもない、この邸の主である、アルフォンス・ルセック・ヴァレンシュタイン公爵なのだろう。まだ会ったことはないけど、この屋敷に仕える者達からは好かれているようだ。
 アルバンもビアンカも彼のことを優しいと言っている。

(一体、どんな方なのかしら)

 そう思うと、会ってみたいという気持ちが膨らんでいった。


 メイドの朝は早い。
 昨晩は興奮からあまり寝つけなくて少し眠気が残っていたが、初日から失敗なんてできないので「頑張ろう!」と自分に活を入れる。
 私は初めて仕事着であるメイド服に袖を通した。
 黒地のワンピースを着て、その上から白いふんわりとしたエプロン身につけ、最後に頭の上に白いカチューシャをセットする。

(伯爵家でも毎日のように見ていたけど、まさか自分が着ることになるなんて夢にも思わなかったわ)

 私は鏡に映る自分の姿を見て、なんとも不思議な気分になる。
 そんな時、トントンと部屋をノックする音が聞こえた。

「ラウラさん、準備はできた?」
「は、はい! 今行きます」

 扉の前からビアンカの声が聞こえてきたので、最後にもう一度鏡をチェックすると私は部屋を出た。

「へえ、案外似合っているじゃない」
「ありがとうございます。ビアンカさん、今日からよろしくお願いします」

 似合っていると言われて、少し嬉しくなり顔がわずかに綻ぶ。

「ラウラさんは、今日からこの公爵邸で働くことになったのだから、まずはアルフォンス様に挨拶からね」
「え? 挨拶、ですか? い、いきなりすぎませんか⁉」


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