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76.裏切りの代償②-sideルシアノ-

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 最近のニコルは苛立っていることが多く、耳障りな高い声を室内に響かせてくる。
 それを聞く度に僕はうんざりとした気分になる。
 一時はあんなにも夢中になっていたはずなのに、沸騰したお湯が冷めるかのように彼女への熱も消えていた。

「ニコル、わざわざ毎日来てくれなくてもいいよ。試験も近いみたいだし、君にはもっとやるべきことがあるんじゃないの?」
「そ、そうだけど、勉強はルシ様に見てもらうので」

 僕が呆れた口調で問いかけると、彼女は一瞬ドキッとした表情を見せて慌てて答える。
 ニコルの言葉を聞いて、僕は再び溜息を漏らしてしまう。

(こんな時までニコルの勉強を見ろって言うのか? 勘弁してくれ……)

 ニコルはいつだって自分の都合しか考えていない。
 一人にして欲しいと何度伝えても、無視して僕の屋敷にやってくる。

「悪いけど、今はニコルに勉強を教えられる状態じゃないんだ。誰か必要なら、両親に伝えて家庭教師を付けてもらって」
「そんなの嫌っ! 私はルシ様に教えてもらいたいのっ! 分かりやすいし、落ち着くから……」

 ニコルは僕の袖をぎゅっと掴んで、懇願する様な瞳を向けて来る。
 僕が困った顔をすると、ニコルは「お願い」と言い出し、諦めるつもりは無い様だ。
 そんな態度が鬱陶しく感じてしまう。

「……分かった。そこまで言うのならニコルの勉強を見るよ。だけど僕の頼みも聞いて欲しい」
「本当に? 嬉しい、ありがとう、ルシ様っ! 頼みって何?私に出来ることかな」

 彼女の顔はたちまち明るくなるが、こんな無邪気な笑顔さえ憎らしいと思えて来る。

「うん、ニコルにしか頼めないことだよ。アリーと会えるように手伝って欲しいんだ」
「……え?」

 僕が静かに答えると、彼女の表情が消えていく。
 これは姉妹であるニコルだからこそ頼める内容だった。
 僕はプラーム家への立ち入りを禁止されているが、外に出ることは止められていない。
 外でならアリーと会っても問題が無いという事だ。

 僕がいくら一人で思っていても、その気持ちはアリーには一切伝わらない。
 なんとかしてその機会を得なくては、何も始められないのだ。

「そんなの無理よ」
「どうして?」

「どうしてって……。決まってるじゃない。私はきっとお姉様に嫌われているわ。それにルシ様だって、この前会った時に分かったでしょ?」
「あの時は隣に殿下もいたから、あんな態度を取るしかなかったのかもしれない」

 幼い頃からアリーの隣にいたのは、この僕だ。
 殿下との出会いは、恐らく王立学園に通うようになってからだと思う。
 そんな後から出会った男に、簡単に心が動くはずが無い。
 もしかしたら、強引に婚約者に決められてしまったのかもしれない。

(ああ、考えてみればその可能性も無いわけではないよな。それなら尚更僕が助けてあげないと……。アリーを救えるのは僕だけなはずだ)

「そうだとしても相手は王子よ。ルシ様に敵う相手なんかじゃないわ! これ以上問題を起こせば、本当に侯爵家から追い出されるかもしれないのよ? それでもいいの?」
「アリーを取り戻すことが出来るのなら、それでも構わない」

 僕の言葉に迷いなんて無かった。
 家を追い出される事になってもいい。
 アリーさえこの手の中に戻って来るのであれば、全てを捨てる覚悟は出来ている。

(そんなことよりも、アリーがいない人生なんて耐えらえない……!)

「私は……? ルシ様は私の事を捨てるの?」

 ニコルは震えた声で呟いた。

「僕は最初から君にアリーを重ねていただけだ。……ごめん」

 僕の中に罪悪感が無いわけではない。
 ニコルに誤解させるような気持を抱かせてしまったことは、本当に申し訳なく思っている。
 だけど僕はアリーじゃなければダメなんだ。

「酷い、酷いわっ……! 私、絶対にルシ様と離れないっ! 結婚するのっ!」

 彼女の目からは溢れる程の涙が零れていた。
 一度は手を伸ばそうとしたが、彼女を受け止める資格なんてないと気付き、掌をきつく握りしめた。
 胸の奥には針で突かれたような、チクチクとした痛みが広がる。

(何が二人とも幸せにする、だ。僕は幸せにするどころか、傷付けて泣かせただけじゃないか!)

 そんな自分に腹が立った。
 ぎゅっと握りしめた掌に爪が食い込む。

 だけど本当の気持ちを知ってしまった以上、もうニコルの傍にはいられない。
 この先一緒にいたとしても、僕は身代わりとしてしか彼女を愛せないだろう。

「もし、君があの時アリーの身代わりでいいなんて言わなければ、僕達はこんな風にはならなかったのかもしれないな」

 僕はぽつりと独り言を吐き捨てた。
 それはニコルを責めるために出た言葉では無い。
 間違った選択をしたのは僕自身だ。

 今思えばどうして『身代わり』という言葉に惹かれてしまったのか分からない。
 本人に伝えなければ意味がない事なのに。

「……っ……!!」

 その言葉を聞いていたニコルは、ズルズルとその場に滑り落ち、放心状態になっていた。
 僕達はお互い何も喋らないまま、時間だけが流れていく。
 暫くの沈黙を経た後、僕は重くなっていた口を開いた。

「ニコル、僕達の婚約は無かったことにしよう。全て僕の所為にして構わないから」
「い、や……、そんなの嫌っ!! それに私との婚約が無くなった所で、お姉様は手に入らないわ! ……今頃隣国にいるし、屋敷にもずっと帰って来ないしっ」

「それはどういうこと?」
「お姉様は王宮に篭ったきり戻って来ないわ。だから会うのなんて不可能よっ!」

「殿下に閉じ込められているのか?」
「知らないわ、そんなこと。まさか、奪いに行くなんて考えてないわよね?」

(やっぱり、アリーは強引に殿下との結婚を決められたってことなのか?)

 僕は黙ってどうしたら良いのか考えを巡らせていた。
 この時の僕は、まだアリーに僕への気持ちが残っていると思いたかった。
 そう考えない限り、アリーとの関係が絶たれてしまうと分かっていたから。

「ルシ様、聞いてるの?」
「……ごめん、聞いてるよ。決めたよ、ニコル」

「……?」
「僕はアリーを助けに行く。そして再び心を取り戻してみせる」

 僕の中で何かが壊れた様な音がした。
 全てを投げうってでも、アリーを取り戻したい。
 その思いが僕の心を突き動かしていた。
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