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128.変わっていくもの③-side アイロス-
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あんなことがあったせいで昨日は一睡もできなかったが、ザシャに伝える言葉を考えなければならない。
毎日、仕事前と後にザシャの執務室に立ち寄っているのだが、今日はいつもに増して足取りが重かった。
「おはよう、アイロス。今日は来るのが少し早いね」
「おはようございます、ザシャ様。実は話しておきたいことがありまして……」
執務室に入ると普段と変わらないザシャの姿がある。
彼は俺の顔を見るなり「顔色が悪そうだけど平気か?」と心配そうに尋ねてきた。
一晩眠れなかっただけで、今の俺の顔はそんなにもひどいものに見ていてるのだろうか。
「昨日少し眠れなかっただけですので問題ありません」
「ここ最近は、アイロスにも色々と無理をさせてしまっているからね。エミリーの護衛については他の者を手配させることも可能だから休んでくれても構わないよ。この先もっと多忙になると思うから、休めるうちに休んでおいたほうがいいかもしれないね」
「いえ、本当にただの寝不足なのでお気になさらず。護衛の時間は休憩のようなものですし、疲れるということはありませんので」
「ふふっ、たしかにそうだね。……となると、寝不足の原因はハウラー公爵のことかな?」
さすがというべきかザシャの鋭い洞察力にドキリとして表情を強ばらせた。
「はい。妹のシルヴィアのことです」
「ああ、妹のほうか。なにかあった? 勤め先についてはこの前話したとおり進めているけど」
ザシャは不思議そうに問いかけてくる。
早く説明をしないといけないのに、慎重になりすぎてすぐに言葉が出てこない。
「アイロス……?」
「すみません。実は……」
いくら言葉を選んだとしても、告げる内容は変わらないのだから悩むこと自体意味のないものだ。
覚悟を決めると、昨日起きた出来事をすべてザシャに伝えた。
シルヴィアがエミリーに対してひどい言葉を口にしたこと。
そして妄想のような発言をしたり、脅すような態度を見せたこともすべて伝えた。
「……そうか、シルヴィアがそんなことを」
俺の話を聞き終わったザシャは意外と冷静だった。
なにか考えたようにぼそりと一言呟いただけだ。
「それだけですか?」
「え……?」
「あの、今の俺の話聞いてましたよね? シルヴィアはエミリーに対して侮辱するような発言をしました。怒られないのですか?」
「ああ、うん……。まあ、私も似たようなことを少し聞かされていたからね」
予想外な言葉が返ってきて、さらに頭の中が混乱する。
「誰からですか?」
「シルヴィア本人からだよ。濁すような言い方をしていたけど、他の候補者に不満を持っているのはなんとなく理解できたかな。エミリー以外に対してもね」
「なっ! それならどうして俺に教えてくれなかったのですか?」
「話したらアイロスは気にするだろう? お前が妹を大切にしていることは前々から知っていたし、今は公爵とのこともあるから、あまりことを荒立たせたくなかったんだ。すまない」
「いえ、謝らないといけないのは俺のほうです……」
こんな状況になっていたなんて、予想もしていなかった。
なにも見えていなかったのは俺だけだったのかもしれない。
シルヴィアは守るべき存在だと思い込んでいたので、事実を見過ごしていたのだろう。
(なんて失態を……)
思い返してみれば、シルヴィアには何度もそのような兆候があった。
以前、エミリーが泣いたとき、ザシャはとても心配していたが、その場面でシルヴィアは二人を引き離そうとしていた。
それに、平等に与えられていた時間も邪魔に入っていたようだ。
昨日見たシルヴィアの姿が本物だとしたら、最初から邪魔する目的で動いていたということになる。
(近くにいたのに、なんでこんなことにも気づけなかったんだ!)
こんな自分が悔しくて情けなくて嫌になる。
「アイロス、そんなに気を落とさないで。伝えなかった私も悪いし、善意だけでシルヴィアのことを見逃したわけではないからね」
「はい……」
そうだった。
ザシャは決して優しいだけの人間ではない。
きっとシルヴィアのことも使えると思って、今は怒らせず友好的に接しているのだろう。
意外な状況になってしまったわけだが、今の俺は少しだけ安堵していた。
今のところはまだシルヴィアに罰を与える様子がなかったから。
「でも、それならばどうして職の話を受け入れてくださったんですか?」
俺が不思議そうに問うとザシャはふっと笑った。
「理由はいくつかあるけど、アイロスには今後も私もそばで仕えてほしいと思ってる。余計な心配事がないほうがアイロスも安心して仕事ができるだろう?」
「それはそうですが……。しかし、シルヴィアがエミリーに敵意を抱いているのはたしかです。そんな危険な存在をそばに置くべきではないかと」
ここまで伝えれば、ザシャも考え直すだろう。
「アイロスはそれでいいのか?」
「俺ですか? はい、そうするのが正しいのではないかと思います」
逆に質問を返されて、俺は戸惑いながら答えた。
「そうか。だけど、元々この話は婚約者決定後に伝える予定だったから、しばらく保留ということにしておくよ」
「なぜですか? ザシャ様にとってシルヴィアは邪魔な存在ですよね。エミリーに危害を加えることもあるかもしれない……」
「なにもしなければそうなるかもしれないね。だけど、アイロスが本気でシルヴィアに向き合えば変えることもできるんじゃないかな? 今のアイロスのようにね」
今のザシャの言葉を聞いて、はっとした。
「人は周りにいる人間に影響されやすいものだと思うよ」
「たしかにそれは一理あると思いますが、エミリーが嫌がりませんか?」
「エミリーが正式に私の婚約者に決まったら、シルヴィアには離宮から出て行ってもらうつもりだよ。それに、付き合い方も改めるつもりでいる。私だってエミリーに不要な心配事は与えたくないからね」
「それなら完全に追い出してしまったほうが……」
「そうしたらエミリーはどう思うだろうね? アイロスがシルヴィアのことを気にかけていることはすでに知られているはずだ。そして、ハウラー公爵家はこれから大変なことになる。エミリーがこのことを気にしないと思うか?」
「……それは」
今までのエミリーの行動を思い返すと、簡単に結論が出てしまう。
あいつは絶対に気にする。
そして、ザシャにシルヴィアを置いてくれるように頼むとか言い出しそうだ。
「私はね。そういう不安も極力与えたくはないんだよ。きっと、これからエミリーは自分が思う以上に己の立場の大きさに困惑するはずだからね」
ザシャは少し棘のある言い方をしているが、きっと俺にも気を遣ってくれているのだろう。
それに、こんなことでエミリーの心を煩わせたくないというのも本音だと思う。
(これはエミリーのために考えた結論ということか……)
そう思うと、心の中にあった錘が軽くなったような気がした。
(俺がシルヴィアの考え方を改心させることができたら、問題解決ということだな)
「ザシャ様、お聞きしたいことがあります」
「なにかな?」
「ザシャ様の心の中にいる女性は、今もひとりだけですよね?」
聞かなくても答えは分かっている。
だけど、それが揺るがないものであることをちゃんと確認しておきたくて問う。
「ああ、当然だ。私はエミリーのことを誰よりも大切に思っている。今までも、これからもそれは絶対に変わらない」
「そうですか。それを聞けて安心しました」
俺が安堵した気持ちで答えると、今度はザシャのほうから「わたしもひとつアイロスに聞きたいことがある」と聞かれたので「なんですか?」と問い返した。
ザシャは先ほどまでの穏やかな表情から一変して鋭い眼差しを向けている。
思わずごくりと息を呑んだ。
「シルヴィアの新たな姿を見て、アイロスはどう感じた?」
「正直なところ、まだ頭の中が混乱しています。あの姿が本当のシルヴィアで、今までの姿は俺が勝手に想像で作り上げたものだったのかと……」
「彼女は邸という閉鎖的な場所で長い間過ごしてきた。アイロスと同様に公爵のことはあまり好いていないようだけど、傍にいたことで思想が似てしまうのは仕方のないことだと思う」
「そうですね」
たしかにその通りだ。
俺は早々に邸を出てザシャの元で過ごしていたから父のような考えを持つことはなかったけど、シルヴィアは違う。
「この先、彼女と分かり合えず対立することもあるかもしれない。そのとき、アイロスは耐えられるか? 辛いなら今回の件からは降りてくれても構わないよ」
最悪な状況になってしまったときのことをザシャは話しているのだろう。
父と戦う覚悟はできているが、シルヴィアは違う。
あまりにも突然のことで、俺は即答することができなかった。
だけど、これだけは分かる。
俺に迷いが生じれば、一瞬の隙にエミリーも、ザシャでさえも危険に晒すことになるということだ。
それは従者としては失格で、自信がないのならば今すぐにこの使命から降りたほうがいい。
ザシャがこんな質問をしたのは俺のことを心配してくれているのだと思う。
この場面がきたら、どちらに対しても俺の心が傷つくと思ったに違いない。
だから『耐えられるか』なんて聞いたのだろう。
「俺はすでにザシャ様に忠誠を誓いました。ですので与えられた任務を全うします。そうなった場合は仕方ないですが、いえ……まだ決まったわけではない。最後の最後まであがいてみます。誰かのように……」
「ふふっ、誰かってエミリーのことかな」
あいつはなにに対しても一生懸命で、簡単に諦めたりはしない。
そんな姿に心を動かされた人間は俺一人だけではないはずだ。
「ザシャ様も少し労ってあげたらどうですか?」
「エミリーに?」
「はい。普段は気丈に振る舞っていますけど結構気にするタイプですし、たまには様子を見に行ってはいかがですか? 以前のように夜であれば目立たないだろうし、いいわけなら俺がいくらでも作りますので」
俺の提案にザシャは「ははっ」と困ったように笑っていた。
「今は大事な時期でありますが、それで大切なものを傷つけてしまったらなんの意味もないのでは? いくら手紙でやりとりをしていたとしても、顔を合わせなければ本心は意外と分からないものです」
まさに今の自分に対して言っているような台詞だ。
「そうだね。ありがとう、アイロス。今夜こっそり行ってみるよ。あ、エミリーには内緒にしておいて」
「分かりました」
いつの間にかザシャはいつもの表情に戻っていた。
それはきっと俺も同じなはずだ。
俺は今でもエミリーのことが好きだし、手に届かない存在であることも分かっている。
それでも、大切な二人には幸せになってもらいたい。
俺はそんな二人をいつまでも見守っていたいと心底思っている。
そして今度こそ、シルヴィアが間違った道に進まないように導かなくてはならない。
新たな問題が増えたけど俺は絶対に諦めない。
そうでなければ彼女の指導係としては失格になってしまうからだ。
ここに来るまでは憂鬱な気分が拭えなかったが、今は晴れ晴れとした気持ちになっていた。
毎日、仕事前と後にザシャの執務室に立ち寄っているのだが、今日はいつもに増して足取りが重かった。
「おはよう、アイロス。今日は来るのが少し早いね」
「おはようございます、ザシャ様。実は話しておきたいことがありまして……」
執務室に入ると普段と変わらないザシャの姿がある。
彼は俺の顔を見るなり「顔色が悪そうだけど平気か?」と心配そうに尋ねてきた。
一晩眠れなかっただけで、今の俺の顔はそんなにもひどいものに見ていてるのだろうか。
「昨日少し眠れなかっただけですので問題ありません」
「ここ最近は、アイロスにも色々と無理をさせてしまっているからね。エミリーの護衛については他の者を手配させることも可能だから休んでくれても構わないよ。この先もっと多忙になると思うから、休めるうちに休んでおいたほうがいいかもしれないね」
「いえ、本当にただの寝不足なのでお気になさらず。護衛の時間は休憩のようなものですし、疲れるということはありませんので」
「ふふっ、たしかにそうだね。……となると、寝不足の原因はハウラー公爵のことかな?」
さすがというべきかザシャの鋭い洞察力にドキリとして表情を強ばらせた。
「はい。妹のシルヴィアのことです」
「ああ、妹のほうか。なにかあった? 勤め先についてはこの前話したとおり進めているけど」
ザシャは不思議そうに問いかけてくる。
早く説明をしないといけないのに、慎重になりすぎてすぐに言葉が出てこない。
「アイロス……?」
「すみません。実は……」
いくら言葉を選んだとしても、告げる内容は変わらないのだから悩むこと自体意味のないものだ。
覚悟を決めると、昨日起きた出来事をすべてザシャに伝えた。
シルヴィアがエミリーに対してひどい言葉を口にしたこと。
そして妄想のような発言をしたり、脅すような態度を見せたこともすべて伝えた。
「……そうか、シルヴィアがそんなことを」
俺の話を聞き終わったザシャは意外と冷静だった。
なにか考えたようにぼそりと一言呟いただけだ。
「それだけですか?」
「え……?」
「あの、今の俺の話聞いてましたよね? シルヴィアはエミリーに対して侮辱するような発言をしました。怒られないのですか?」
「ああ、うん……。まあ、私も似たようなことを少し聞かされていたからね」
予想外な言葉が返ってきて、さらに頭の中が混乱する。
「誰からですか?」
「シルヴィア本人からだよ。濁すような言い方をしていたけど、他の候補者に不満を持っているのはなんとなく理解できたかな。エミリー以外に対してもね」
「なっ! それならどうして俺に教えてくれなかったのですか?」
「話したらアイロスは気にするだろう? お前が妹を大切にしていることは前々から知っていたし、今は公爵とのこともあるから、あまりことを荒立たせたくなかったんだ。すまない」
「いえ、謝らないといけないのは俺のほうです……」
こんな状況になっていたなんて、予想もしていなかった。
なにも見えていなかったのは俺だけだったのかもしれない。
シルヴィアは守るべき存在だと思い込んでいたので、事実を見過ごしていたのだろう。
(なんて失態を……)
思い返してみれば、シルヴィアには何度もそのような兆候があった。
以前、エミリーが泣いたとき、ザシャはとても心配していたが、その場面でシルヴィアは二人を引き離そうとしていた。
それに、平等に与えられていた時間も邪魔に入っていたようだ。
昨日見たシルヴィアの姿が本物だとしたら、最初から邪魔する目的で動いていたということになる。
(近くにいたのに、なんでこんなことにも気づけなかったんだ!)
こんな自分が悔しくて情けなくて嫌になる。
「アイロス、そんなに気を落とさないで。伝えなかった私も悪いし、善意だけでシルヴィアのことを見逃したわけではないからね」
「はい……」
そうだった。
ザシャは決して優しいだけの人間ではない。
きっとシルヴィアのことも使えると思って、今は怒らせず友好的に接しているのだろう。
意外な状況になってしまったわけだが、今の俺は少しだけ安堵していた。
今のところはまだシルヴィアに罰を与える様子がなかったから。
「でも、それならばどうして職の話を受け入れてくださったんですか?」
俺が不思議そうに問うとザシャはふっと笑った。
「理由はいくつかあるけど、アイロスには今後も私もそばで仕えてほしいと思ってる。余計な心配事がないほうがアイロスも安心して仕事ができるだろう?」
「それはそうですが……。しかし、シルヴィアがエミリーに敵意を抱いているのはたしかです。そんな危険な存在をそばに置くべきではないかと」
ここまで伝えれば、ザシャも考え直すだろう。
「アイロスはそれでいいのか?」
「俺ですか? はい、そうするのが正しいのではないかと思います」
逆に質問を返されて、俺は戸惑いながら答えた。
「そうか。だけど、元々この話は婚約者決定後に伝える予定だったから、しばらく保留ということにしておくよ」
「なぜですか? ザシャ様にとってシルヴィアは邪魔な存在ですよね。エミリーに危害を加えることもあるかもしれない……」
「なにもしなければそうなるかもしれないね。だけど、アイロスが本気でシルヴィアに向き合えば変えることもできるんじゃないかな? 今のアイロスのようにね」
今のザシャの言葉を聞いて、はっとした。
「人は周りにいる人間に影響されやすいものだと思うよ」
「たしかにそれは一理あると思いますが、エミリーが嫌がりませんか?」
「エミリーが正式に私の婚約者に決まったら、シルヴィアには離宮から出て行ってもらうつもりだよ。それに、付き合い方も改めるつもりでいる。私だってエミリーに不要な心配事は与えたくないからね」
「それなら完全に追い出してしまったほうが……」
「そうしたらエミリーはどう思うだろうね? アイロスがシルヴィアのことを気にかけていることはすでに知られているはずだ。そして、ハウラー公爵家はこれから大変なことになる。エミリーがこのことを気にしないと思うか?」
「……それは」
今までのエミリーの行動を思い返すと、簡単に結論が出てしまう。
あいつは絶対に気にする。
そして、ザシャにシルヴィアを置いてくれるように頼むとか言い出しそうだ。
「私はね。そういう不安も極力与えたくはないんだよ。きっと、これからエミリーは自分が思う以上に己の立場の大きさに困惑するはずだからね」
ザシャは少し棘のある言い方をしているが、きっと俺にも気を遣ってくれているのだろう。
それに、こんなことでエミリーの心を煩わせたくないというのも本音だと思う。
(これはエミリーのために考えた結論ということか……)
そう思うと、心の中にあった錘が軽くなったような気がした。
(俺がシルヴィアの考え方を改心させることができたら、問題解決ということだな)
「ザシャ様、お聞きしたいことがあります」
「なにかな?」
「ザシャ様の心の中にいる女性は、今もひとりだけですよね?」
聞かなくても答えは分かっている。
だけど、それが揺るがないものであることをちゃんと確認しておきたくて問う。
「ああ、当然だ。私はエミリーのことを誰よりも大切に思っている。今までも、これからもそれは絶対に変わらない」
「そうですか。それを聞けて安心しました」
俺が安堵した気持ちで答えると、今度はザシャのほうから「わたしもひとつアイロスに聞きたいことがある」と聞かれたので「なんですか?」と問い返した。
ザシャは先ほどまでの穏やかな表情から一変して鋭い眼差しを向けている。
思わずごくりと息を呑んだ。
「シルヴィアの新たな姿を見て、アイロスはどう感じた?」
「正直なところ、まだ頭の中が混乱しています。あの姿が本当のシルヴィアで、今までの姿は俺が勝手に想像で作り上げたものだったのかと……」
「彼女は邸という閉鎖的な場所で長い間過ごしてきた。アイロスと同様に公爵のことはあまり好いていないようだけど、傍にいたことで思想が似てしまうのは仕方のないことだと思う」
「そうですね」
たしかにその通りだ。
俺は早々に邸を出てザシャの元で過ごしていたから父のような考えを持つことはなかったけど、シルヴィアは違う。
「この先、彼女と分かり合えず対立することもあるかもしれない。そのとき、アイロスは耐えられるか? 辛いなら今回の件からは降りてくれても構わないよ」
最悪な状況になってしまったときのことをザシャは話しているのだろう。
父と戦う覚悟はできているが、シルヴィアは違う。
あまりにも突然のことで、俺は即答することができなかった。
だけど、これだけは分かる。
俺に迷いが生じれば、一瞬の隙にエミリーも、ザシャでさえも危険に晒すことになるということだ。
それは従者としては失格で、自信がないのならば今すぐにこの使命から降りたほうがいい。
ザシャがこんな質問をしたのは俺のことを心配してくれているのだと思う。
この場面がきたら、どちらに対しても俺の心が傷つくと思ったに違いない。
だから『耐えられるか』なんて聞いたのだろう。
「俺はすでにザシャ様に忠誠を誓いました。ですので与えられた任務を全うします。そうなった場合は仕方ないですが、いえ……まだ決まったわけではない。最後の最後まであがいてみます。誰かのように……」
「ふふっ、誰かってエミリーのことかな」
あいつはなにに対しても一生懸命で、簡単に諦めたりはしない。
そんな姿に心を動かされた人間は俺一人だけではないはずだ。
「ザシャ様も少し労ってあげたらどうですか?」
「エミリーに?」
「はい。普段は気丈に振る舞っていますけど結構気にするタイプですし、たまには様子を見に行ってはいかがですか? 以前のように夜であれば目立たないだろうし、いいわけなら俺がいくらでも作りますので」
俺の提案にザシャは「ははっ」と困ったように笑っていた。
「今は大事な時期でありますが、それで大切なものを傷つけてしまったらなんの意味もないのでは? いくら手紙でやりとりをしていたとしても、顔を合わせなければ本心は意外と分からないものです」
まさに今の自分に対して言っているような台詞だ。
「そうだね。ありがとう、アイロス。今夜こっそり行ってみるよ。あ、エミリーには内緒にしておいて」
「分かりました」
いつの間にかザシャはいつもの表情に戻っていた。
それはきっと俺も同じなはずだ。
俺は今でもエミリーのことが好きだし、手に届かない存在であることも分かっている。
それでも、大切な二人には幸せになってもらいたい。
俺はそんな二人をいつまでも見守っていたいと心底思っている。
そして今度こそ、シルヴィアが間違った道に進まないように導かなくてはならない。
新たな問題が増えたけど俺は絶対に諦めない。
そうでなければ彼女の指導係としては失格になってしまうからだ。
ここに来るまでは憂鬱な気分が拭えなかったが、今は晴れ晴れとした気持ちになっていた。
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