鬼の瞳

〆鯖

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第十一話

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「……阿夜さん。それは正しいんですか……?」


「……お、恐らく。この様な物、だったよう、な……」


 囲炉裏の真上に吊られた今夜の食事。お互いに言葉を躊躇い、異形な姿となり果てた熊鍋らしき物を見つめる。


 ぐつぐつと煮えたぎる――元は透明だった真っ黒な水分に、ぶつ切りにされた肉が生々しく浮かぶ。漂う湯気は香りとは到底呼べずとても獣臭い。

 そして極めつけは、鍋の中を仕切る様に真ん中で茹でられる左手。全体が薬になるのだろうか、と思考した挙げ句にそのまま放り込まれた哀れな貴重品。


 顰める眉が戻らない両者は無言で禍々しい淵をじっと見つめ、微動すらしない。ボコッボコッ、と何故か粘り気までもが出ている水分の音だけが、静寂の中で不気味に木霊する。


「…………」


「…………も、申し訳御座いません!」


 堪えきれなくなったのだろうか、阿夜は後ろに飛び退き、深々と頭を下げて白状する。


「実はワタクシ……熊鍋を拵えるのは初めてなので御座います。昔に食した時の記憶と印象で、浅はかにも難しくは無いと踏んでいたのです。この里に訪れるまでは生で食していたのですが、流石にお二人にはちゃんとした物でなくてはと思い、このっこのような……」


 と、ぴんっと指を伸ばした掌で、記憶と印象で創造してしまった熊鍋(?)をおずおずと指した。


 頭を下げたまま申し訳なさそうに指す姿は見てて此方が悲しくなってしまう。視る事ができない彼女でも、自分がどんな物を作ってしまったのかを嫌でも理解したのであろう。


「………は」


 たまらず、頬が、綻ぶ。


「はは、は、あはははは」


「ひ、久野様……?」


「あははは、あー面白い。頭を上げて下さい阿夜さん。ボクは怒っていませんよ。奈津もそうだろ?」


 振り向いて訊ねた言葉に、隅で背を向け縮こまる奈津は肩を震わす。そして小さく、頭をそのまま頷かせる。


「何時までそうしてるんだよ。早くこっち来て座れってば」


「ふぐぅ……、アタシはその……あの……」


 言い淀む。しかし向こうには行きたい様で、何度も肩越しに覗いていた。














 ――奈津が目を覚ました時、目の前には心配そうに覗き込む久野の顔があった。ぼやける意識の中で言葉を交わしながら、徐々に頭は覚めていく。

 そして上体を起こし、無残に死に絶えた羆を見つけて完全に覚醒し、事の顛末を聞かされた。


 阿夜は……、と彼女は久野に訊ねた。どこか怪我をしていないか心配だったのだ。後ろから鈴の音がしてきたので彼女は後ろを向いた。止めようとした久野だったが、奈津を完全に振り向かせてしまった。


 ――正座する、真っ赤な彼女。


 髪は赤と混じってどす黒く、肌と着物も赤に染まって粘着質、右腕には肉片と毛が多数付着。それでいて表情は優しい微笑み。


『奈津様ー!』


 子供みたいに抱き付こうとする阿夜。びちゃびちゃと血が拡散する。血塗れの女が自分めがけて迫る。この姿、奈津にはどう映ったか。


『ふぎゃあぁあああ!』


 当然、白目を向いて卒倒した。

















 ――――と、云うのがこの様子の発端である。


 今は湖で洗い流したので綺麗だが。阿夜の事後の姿があまりにも壮絶であった為、奈津には鬼に対する恐怖心が完全に形成されてしまった。元から恐がってはいたので、それは更に大きくなって掘り起こされている。


 しかし、彼女は阿夜という鬼を既に知っている。慎ましく礼儀正しく可愛らしく、自分と何ら変わらない少女だとよく理解していた。まだ日は浅いが、友達だとも思って。


 だからどうしてよいものか自分でも困っているのだ。阿夜は好き、だが鬼は恐い。御礼もしたいし謝罪もしたい、だがやはり、鬼という彼女にどこか恐怖を抱いてしまう。その狭間で揺れ動いている奈津は、こうしていじける子供の様になるしかなかった。


「……奈津様」


「っ。……な、何?」


 呼ばれて、思わず顔を背けてしまう。本当はそんな事したくないから、心の中で馬鹿と呟く。


「鬼を恐がるは当然の事、奈津様の反応は正しいので御座います。あの時とは違い、今では奈津様がお優しい事も承知しております故、ワタクシは気にしておりません」


「…………」


「それで宜しいのです。やはりワタクシは鬼なのです。奈津様を悪く言うつもりは毛頭御座いません、ただ今日のでよくわかったのです。鬼とは忌み嫌われる事が当然の存在なのだと」


 人の理に収められない鬼には迫害される道しかない。どんなに血が滲む様な努力を積もうと、どんなに惨めな暮らしをしようと、人という存在に認められる事は永劫無い。


 此の世は、人の世である。


 ただ知能が高かっただけ、ただずる賢かっただけ、ただしぶとかっただけ。でもそうであるからこそ、人という種族は世界を牛耳る事を可能とした。


 だからこそ世界の秩序とは、人の傲慢で成り立つのだ。それに対応できる生物は人だけ。それ以外の生き物は、許されても許されない。


 故に鬼など認められない。人で無い以上、万に一つも――


「きゃう――!?」


 ……無い、が。


 例外は確かにある。久野がそうであるように、阿夜に抱き付いてきた奈津も一つの例外だ。


「奈津、様?」


「あっ……あんたなんか恐くないわよ。て言うより、アタシは恐いなんて一言も言ってないでしょうが」


 確かに言ってはいない。しかし態度はまさに其れだった。そのため説得力など無い。無い――が、鬼を見つめる彼女の瞳に嘘は無かった。


「ごめんね、アタシまた勝手な事してた。あんたを……阿夜を見失ってた」


「奈津様……」


「阿夜は良い子。恐くない。あんたはアタシの大切な友達だもの。だから、恐くなんかないっ」


 それは本当の言葉。尋常でない姿を前にして、恐がる事は正しかった。でもそれ以前に、奈津は阿夜を知ってしまっていた。血塗れの下は彼女。同年代の、女性から見ても可愛らしいと思える可憐な阿夜。

 何より、自分は助けて貰った身。友達に助けて貰った軟弱者。


 恐怖が正しい……ふざけるな。


 大切な友達を恐がるなんて行為、侮辱ですらない。今日を含めてたった二日だけの付き合い……それがどうした。阿夜が優しくて良い子と、疾うにわかっている。

 先程までの奈津が正しいというのなら、今の奈津は、もっと正しい。


「――奈津様!」


「ふぎゃ!」


 阿夜は奈津に抱きつき、そのまま押し倒した。そしてまたいつかのように、平らな胸で頬擦りを始めた。


「だからくすぐったいって、ばっ……くふふっ」


 抵抗は無かった。奈津は阿夜を確かめる様に抱き締めていた。泪したのは、単に愛おしかったから。


「……へぇ、こうなってたのか」


 その光景を見る久野は、慈愛に満ちる悪戯な笑みを浮かべた。止める気もなく、ただただ笑みを浮かべながら見つめていた。

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