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第六話
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かくして、騒々しい夜は終わりを告げた。月に代わり太陽が空を昇り、全てが清らかな陽光に包まれる。
――小鳥の囀り。
――輝く緑。
――反転した世界。
暖かく心地良い日差しの下、ちゅんちゅんと楽しげに仲間と戯れる雀。朝を告げるその可愛らしい声で、眠っていた久野は重い瞼を開き始めた。
ぼやける視界に天井が映る。暫く眺めたら、顔をしわくちゃにして大きく背を伸ばして大きな欠伸をして。睡眠で硬くなってしまった五体をほぐしてから、さっと起き上がって布団を片付け始める。
少女とのいざこざでろくに眠れてはいないが、数年もの月日で染み付いた習慣はそう簡単には崩れない。テキパキと片付け、薄手の寝間着から普段着である浅葱色の着物に着替え、家の戸を開けると――微睡む空間を一遍に払い飛ばすかの様に陽光が家の中に流れ込んだ。
「――っはぁ、今日もいい天気だな。良きかな良きかな」
深呼吸。唄うような独り言。朝の匂いが体を駆け巡る。
広がる青空には雲一つ無く、太陽の光が燦々と村に注がれてる。夜は蒼、朝は白といったところ。夏にはまだ少し遠く、動き回っても汗は出ないであろう程に気温は落ち着いていた。
軽い足取りで奈津の住む向かいの家へと歩く。戸を叩いて寝坊助な彼女の起床を促すのも彼の日課なのだ。が、悪態を吐いて寝ぼけ眼のいつもの彼女は姿を現そうとしない。
でも久野にはわかっていた。昨日自分と一緒にいたのだから彼女も疲れて、いつも以上に睡魔に勝てないのだろう、と。……まぁ、毎日起こしてもらっている身では何とも言えないのだが。
入るよ、と声をかけて、久野は戸を開いた。
「ぶっ!?」
そして吹いた。
一人分の布団で身を寄せた彼女達は、淫らに着崩れていた。
――――――――――。
「――全くもぅ……。女の子が住む家に躊躇いなく入ってくるなってのよ」
「悪かったよ。いやぁ、それにしても慌てたなぁ。奈津は何とも思わないんだけど、彼女はちょっと――っ痛てててて、何でつねるんだよ!」
ふん、と奈津はそっぽを向く。太腿をさする久野はその行動が理解出来なかったのだが、何故か機嫌が悪い様子の奈津からは答えが返ってきそうに無い。仕方なく、腑に落ちない顔のまま朝食を再開する事にした。
奈津の家の囲炉裏を三者が囲む。家の主である奈津は上座に座り、左右はてきとうに久野と少女で落ち着く。
野菜と米を煮込んだだけの朝食、塩は貴重なので含まれていない。味が薄い粥ではあるが、野菜本来の甘味は朝の胃袋に程よく優しい味わいだった。
「久野様と奈津様は大変仲が宜しゅう御座いますね」
瞼を閉じている少女は器用に食事をしていた。茶碗に口を付けて啜る見苦しい食仕方はせず、箸で少しずつ慎ましく頬張っていく。
視認を無くした筈の動作は常人と同じ、まるで万物の形と位置がわかっているかの様に滑らか。座に着くまでもそうだ。布団を奈津の代わりに片付け、調理も手伝おうかと提案したがこれは断られ、座って待っていればいいと言われたのでそうする。これらを彼女は、眼を使わず探りも無しに、二人とぶつかる事もなく行ったのだ。
昨日はそれほど気にしなかった事に唖然とする二人が訊ねてみれば、匂いと音と空気の流れを感じ取り、気配と直感で読み取るのだとか。当たり前の様に話す彼女に、二人が再び唖然としたのは言うまでもない。
「そんなんじゃないわ。ただの腐れ縁よ」
「そうですよ。奈津は古くからの馴染みというだけです。特別変わった間柄では……、な、何で睨むんだよ」
ふん、とまたそっぽを向く。彼女が何を言いたいのか険しい顔で考える久野だが、やはり答えは見いだせず、また問う事も出来なかった。
そんな様子が見えてもいないのに、少女はくすくすと笑う。
「それよりも早く食べちゃって。これから村長にあんたの事を伝えに行くんだから」
「はい。承知しました。……鬼が来たと伝えるのですか?」
「いえ、ただ単に顔を見せるだけです。暫く厄介になると伝えて、みんなに受け入れてもらうんですよ。寧ろ鬼というのは隠していて下さい、話がこじれるので」
朝食の前に話した今日の目的を確認し合う。
山によって隔離された集落の住人はどうしてもよそ者に敏感である。言うほど毛嫌いしている訳ではないが、やはり見知らぬ者にはどこか嫌悪に似た感情を抱いてしまう。二人はそれを早々に拭いたいのだ。
「……そういえば、あなたのお名前をまだ聞いていませんでしたね」
村長の家に着いた後の事を想像していた久野は、肝心な事を思い出した。
「あっ。アタシもまだ聞いてない。ねぇ、あんたって何て名前なの?」
「――これは大変申し訳御座いませんでした。ワタクシとした事が」
そう言って、茶碗を床に置いて少女は座布団から後退する。正座した膝の前に揃えた指を置いて、
「阿夜と申します。改めまして、宜しくお願い申し上げます」
深々と頭を下げた。
その礼儀正しく美麗な動作に、二人は思わず箸を止めて魅入ってしまう。
無駄が無い。
所作が正しい。
迷いが無い。
礼儀礼節が成っている。
言い方ならいくらでもある。これらを完璧にこなした動作とは確かに美しい。しかし、違う。
少女――阿夜の其れは単純に、美しかった。頭を下げるというだけの姿、あれやこれやの意見など感想など何一ついらない。奈津から譲り受けた燈色の古臭い着物でさえ、今ばかりは極上の反物に映る。
彼女自身が絶世の美女である事は相乗効果かも知れない。でもそれは根源ではない。どちらかといえば後付けの付属品でしかない。けれどもまた、難しい話でもない。
――唯一つ、それは単純に美しいのである。理由を付けなければわからない者もいるだろうが、彼女の前では関係ない。誰であろうとも一度は、美しさに言葉を失った体験がある筈だ。
高々、人型が頭を下げる、それだけの光景。……だがそれは、言葉を失わせるものと同一であった。彼女が鬼だからか、いや、これはまた別の――
「――なんか、なんというか……。阿夜、あんた純粋っていうか、純真というか。鬼のお姫様でもしてた?」
「うんうん。ボクもそれ考えたよ。自然なんだよなぁ、阿夜さんは」
二人で同じ予想を立てた。本当はしっくりする言葉が思い付かないのだが、今の自分の気持ちに近い意見を出す。見目麗しく礼儀も弁える、姫とは存外、当てはまる例えだ。
けれど対して、頭を上げた阿夜は小首を傾げる。
「自然……。本来は、自然では駄目なのでしょうか?」
自分がやっている事に疑問と感心を向けられる意味が、彼女にはわからなかった。だから素直に訊ねる。
「あぁいやいや。すみません、そんな意味で言った訳ではないんです。えっとですね…………んっ……んー……」
「早く言いなさいよ」
「…………と、とにかく。綺麗、なんですよ。うん。綺麗です」
「ふふ。久野様。お褒めの言葉、有り難く頂きます」
阿夜は優しく微笑んで礼を言う。あはは、と久野は顔をほんのりと紅くして微笑み返す。顔の色は阿夜の笑顔によるものもあるが、彼自身、今しがた自分が放った言葉に後悔していた。女性に綺麗だと言ったのは、これが初めてだったのだ。
「……ふぅーん。綺麗です、ねぇ?」
「な、何だよ奈津」
「べっつにぃー。あんたにしては珍しいからさぁー。……アタシには言わないくせに……」
「えっ、何?」
「なんでもないわよ!」
「いだだだだだ!だから、つねるなって――いだっ、ぃ痛いってば!」
力任せに大腿をねじられる久野の叫び声は、本当に悲痛だった。奈津は加減を知らない。幼馴染みの間柄ならば尚の事。それ以外の何かしらも含まれているが、久野には知る由もない。
――くすくす。阿夜にはその光景など見えない。でも、やはり笑う。会話だけでも、二人の仲良さが、彼女には心地よかった。
――小鳥の囀り。
――輝く緑。
――反転した世界。
暖かく心地良い日差しの下、ちゅんちゅんと楽しげに仲間と戯れる雀。朝を告げるその可愛らしい声で、眠っていた久野は重い瞼を開き始めた。
ぼやける視界に天井が映る。暫く眺めたら、顔をしわくちゃにして大きく背を伸ばして大きな欠伸をして。睡眠で硬くなってしまった五体をほぐしてから、さっと起き上がって布団を片付け始める。
少女とのいざこざでろくに眠れてはいないが、数年もの月日で染み付いた習慣はそう簡単には崩れない。テキパキと片付け、薄手の寝間着から普段着である浅葱色の着物に着替え、家の戸を開けると――微睡む空間を一遍に払い飛ばすかの様に陽光が家の中に流れ込んだ。
「――っはぁ、今日もいい天気だな。良きかな良きかな」
深呼吸。唄うような独り言。朝の匂いが体を駆け巡る。
広がる青空には雲一つ無く、太陽の光が燦々と村に注がれてる。夜は蒼、朝は白といったところ。夏にはまだ少し遠く、動き回っても汗は出ないであろう程に気温は落ち着いていた。
軽い足取りで奈津の住む向かいの家へと歩く。戸を叩いて寝坊助な彼女の起床を促すのも彼の日課なのだ。が、悪態を吐いて寝ぼけ眼のいつもの彼女は姿を現そうとしない。
でも久野にはわかっていた。昨日自分と一緒にいたのだから彼女も疲れて、いつも以上に睡魔に勝てないのだろう、と。……まぁ、毎日起こしてもらっている身では何とも言えないのだが。
入るよ、と声をかけて、久野は戸を開いた。
「ぶっ!?」
そして吹いた。
一人分の布団で身を寄せた彼女達は、淫らに着崩れていた。
――――――――――。
「――全くもぅ……。女の子が住む家に躊躇いなく入ってくるなってのよ」
「悪かったよ。いやぁ、それにしても慌てたなぁ。奈津は何とも思わないんだけど、彼女はちょっと――っ痛てててて、何でつねるんだよ!」
ふん、と奈津はそっぽを向く。太腿をさする久野はその行動が理解出来なかったのだが、何故か機嫌が悪い様子の奈津からは答えが返ってきそうに無い。仕方なく、腑に落ちない顔のまま朝食を再開する事にした。
奈津の家の囲炉裏を三者が囲む。家の主である奈津は上座に座り、左右はてきとうに久野と少女で落ち着く。
野菜と米を煮込んだだけの朝食、塩は貴重なので含まれていない。味が薄い粥ではあるが、野菜本来の甘味は朝の胃袋に程よく優しい味わいだった。
「久野様と奈津様は大変仲が宜しゅう御座いますね」
瞼を閉じている少女は器用に食事をしていた。茶碗に口を付けて啜る見苦しい食仕方はせず、箸で少しずつ慎ましく頬張っていく。
視認を無くした筈の動作は常人と同じ、まるで万物の形と位置がわかっているかの様に滑らか。座に着くまでもそうだ。布団を奈津の代わりに片付け、調理も手伝おうかと提案したがこれは断られ、座って待っていればいいと言われたのでそうする。これらを彼女は、眼を使わず探りも無しに、二人とぶつかる事もなく行ったのだ。
昨日はそれほど気にしなかった事に唖然とする二人が訊ねてみれば、匂いと音と空気の流れを感じ取り、気配と直感で読み取るのだとか。当たり前の様に話す彼女に、二人が再び唖然としたのは言うまでもない。
「そんなんじゃないわ。ただの腐れ縁よ」
「そうですよ。奈津は古くからの馴染みというだけです。特別変わった間柄では……、な、何で睨むんだよ」
ふん、とまたそっぽを向く。彼女が何を言いたいのか険しい顔で考える久野だが、やはり答えは見いだせず、また問う事も出来なかった。
そんな様子が見えてもいないのに、少女はくすくすと笑う。
「それよりも早く食べちゃって。これから村長にあんたの事を伝えに行くんだから」
「はい。承知しました。……鬼が来たと伝えるのですか?」
「いえ、ただ単に顔を見せるだけです。暫く厄介になると伝えて、みんなに受け入れてもらうんですよ。寧ろ鬼というのは隠していて下さい、話がこじれるので」
朝食の前に話した今日の目的を確認し合う。
山によって隔離された集落の住人はどうしてもよそ者に敏感である。言うほど毛嫌いしている訳ではないが、やはり見知らぬ者にはどこか嫌悪に似た感情を抱いてしまう。二人はそれを早々に拭いたいのだ。
「……そういえば、あなたのお名前をまだ聞いていませんでしたね」
村長の家に着いた後の事を想像していた久野は、肝心な事を思い出した。
「あっ。アタシもまだ聞いてない。ねぇ、あんたって何て名前なの?」
「――これは大変申し訳御座いませんでした。ワタクシとした事が」
そう言って、茶碗を床に置いて少女は座布団から後退する。正座した膝の前に揃えた指を置いて、
「阿夜と申します。改めまして、宜しくお願い申し上げます」
深々と頭を下げた。
その礼儀正しく美麗な動作に、二人は思わず箸を止めて魅入ってしまう。
無駄が無い。
所作が正しい。
迷いが無い。
礼儀礼節が成っている。
言い方ならいくらでもある。これらを完璧にこなした動作とは確かに美しい。しかし、違う。
少女――阿夜の其れは単純に、美しかった。頭を下げるというだけの姿、あれやこれやの意見など感想など何一ついらない。奈津から譲り受けた燈色の古臭い着物でさえ、今ばかりは極上の反物に映る。
彼女自身が絶世の美女である事は相乗効果かも知れない。でもそれは根源ではない。どちらかといえば後付けの付属品でしかない。けれどもまた、難しい話でもない。
――唯一つ、それは単純に美しいのである。理由を付けなければわからない者もいるだろうが、彼女の前では関係ない。誰であろうとも一度は、美しさに言葉を失った体験がある筈だ。
高々、人型が頭を下げる、それだけの光景。……だがそれは、言葉を失わせるものと同一であった。彼女が鬼だからか、いや、これはまた別の――
「――なんか、なんというか……。阿夜、あんた純粋っていうか、純真というか。鬼のお姫様でもしてた?」
「うんうん。ボクもそれ考えたよ。自然なんだよなぁ、阿夜さんは」
二人で同じ予想を立てた。本当はしっくりする言葉が思い付かないのだが、今の自分の気持ちに近い意見を出す。見目麗しく礼儀も弁える、姫とは存外、当てはまる例えだ。
けれど対して、頭を上げた阿夜は小首を傾げる。
「自然……。本来は、自然では駄目なのでしょうか?」
自分がやっている事に疑問と感心を向けられる意味が、彼女にはわからなかった。だから素直に訊ねる。
「あぁいやいや。すみません、そんな意味で言った訳ではないんです。えっとですね…………んっ……んー……」
「早く言いなさいよ」
「…………と、とにかく。綺麗、なんですよ。うん。綺麗です」
「ふふ。久野様。お褒めの言葉、有り難く頂きます」
阿夜は優しく微笑んで礼を言う。あはは、と久野は顔をほんのりと紅くして微笑み返す。顔の色は阿夜の笑顔によるものもあるが、彼自身、今しがた自分が放った言葉に後悔していた。女性に綺麗だと言ったのは、これが初めてだったのだ。
「……ふぅーん。綺麗です、ねぇ?」
「な、何だよ奈津」
「べっつにぃー。あんたにしては珍しいからさぁー。……アタシには言わないくせに……」
「えっ、何?」
「なんでもないわよ!」
「いだだだだだ!だから、つねるなって――いだっ、ぃ痛いってば!」
力任せに大腿をねじられる久野の叫び声は、本当に悲痛だった。奈津は加減を知らない。幼馴染みの間柄ならば尚の事。それ以外の何かしらも含まれているが、久野には知る由もない。
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