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山猫ヨルの妖(あやかし)診療所-アクセス
診察時間は決まっておりません
しおりを挟む梵天は玄関扉の横に貼ってある「助手募集」の前に立っていた。
もちろん、それは人にはわからないアヤカシの文字と言葉で書いてあるものだ。
その横を椿が通りすぎて行く。
「助手募集? なんだそういう意味だったのか」
椿は独りでそんなことをブツブツと言って、梵天の脇を通りすぎると、診療所の中へ入っていった。
「こんにちはー」
玄関でスニーカーを脱ぎ、家中に響くような大声で挨拶すると、スリッパを履き真っ直ぐ診察室へ向かった。
「ヨルせんせー」
診察室の中には誰もいない。
ポトンとソファに座り、ぼんやりと出窓の外を眺める。
鎮石があった場所には、小鳥達のためのバードハウスが建っている。
餌台がふたつとその上にはカラス避けの屋根もついていて、なかなか立派な作りだ。
しかし、そこに餌はない。
小鳥達に餌をやるのは、食べ物が少ない冬場だけであって、春を過ぎて新緑の季節になった今はもう出番ではない。
満開のハナミズキが餌台に日陰を作っていて、時折さらさらと揺れる。
「……いい香り」
椿はその香りをたどるように開け放たれたままの、室内扉の方へ顔を向ける。
「大学はどうですか?」
声と同時にヨルが姿を現した。
湯気のたったマグカップを両手に持っている。
「うん、今までで一番勉強してる。受験勉強も大変だったけど、今はそれ以上。ありがとう」
椿はヨルからマグカップを受けとる。
蜂蜜漬けの輪切りレモンが入った紅茶だ。爽やかな柑橘の香りがほのかに漂う。
「今まで何とも思ってなかったけど、なんか当たり前すぎて? でもよくよく考えたら、その身体にくっついているものまで消せてしまう能力って、凄いね」
「まぁ、そのお陰でいちいち服の着脱が不要になりますからねぇ。覚えておいて損はない術ですかね」
「え、術なの? それ」
「はい。姿現化は術のひとつです」
「そうだ、さっきアヤカシの言葉が読めたんだよ」
「おお、それは実央君と一緒に勉強している成果ですね」
「助手募集? の張り紙、あれ読めた。ずっと御札系の魔除けか何かの絵だと思ってた」
椿はケラケラと笑った。
「梵天が書いたので、文字の癖は強めです、かね」
「そうだ、ボンボンは?」
ヨルはすっと作業台の椅子の方へと目をやった。
「なんだ、そこにいるのか」
「はぁー。いちいち椿のために姿現化するのは面倒だな」
梵天がその姿を現した。
梵天は椅子ごとクルっと回ると、玄関脇から剥がしてきた助手募集の紙を掲げて見せた。
「クセ強め、ですか? なかなか綺麗に書けてると思いますけど……少なくとも椿の下手くそな絵よりはまし」
「え、下手じゃないし」
「豆人間のどこが上手いんだよ」
「マメニンゲンて? なにそれ」
「丸から手足生えてるやつ」
「マメから手足は生えないし」
「マメじゃなくて、マル!」
「言ってることがわからない」
椿は首を横に振ると、マグカップに口をつけた。
「まぁ、その辺で……」
というヨルの声は、徐々にエスカレートしていくふたりの言い合いに消されてしまう。
ヨルはマグカップのお茶にふぅーっと息を吹きかけ冷めるのを待った。
椿は虎玉の力を失うのと同時に、アヤカシや蟲を見る力も失った。
ヨルや梵天の姿も見えなくなり、彼らが姿現化しない限り話すことさえ出来なくなった。
虎玉の力が消えて普通の人に戻った、いつか命も終えるときが来るだろう、と口にはしないが考えているようだ。
ヨルは実央に雪舞蝶の効果ですか?と聞かれたが、それはあまりないように見えた。
虎玉の力が消えた後でも椿の命が続いているのには、ちゃんと理由があることを千寿がちらりと言いかけていたからだ。
しかし結局、千寿は何も語らずまた旅へと出てしまった。
確か、高天原の女官が絡んでいるような口振りであった。
ヨルにはそれがどういう話なのかまったく見当がつかない。
虎玉の力が消え、本来持っていて隠されていた何かの力が目覚めた、ということなのか……。
また、覚書をひっくり返して読まなければならないな。
今度は椿が生まれた年の辺りを重点的に。きっと見落としている、または気にも止めなかった診療記録が記されているはずだ。
ヨルが出窓を開くと、爽やかな薫風が診察室へと吹き込んできた。
アヤカシが見えなくなっても椿はあたり前のように診療所に来たし、ヨルも梵天も今まで通り何も変わらず椿を受け入れた。
椿が来れば、ただ姿現化する。
そういう手間が少し増えただけのことである。
それ以外なんの変わりはない。
のんびりした時が流れ、たまに患者がやってくる。
そんなヨルの診療所である。
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