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山猫ヨルの妖(あやかし)診療所-アクセス
慶事が降ってくる
しおりを挟む「鈴木さん、カラーのご指名です」
雨が降っていた。
暗い空と寒さのため、早菜は1日憂鬱だった。
天気のせいか、客は少なく予約もキャンセルが相次いで、四人いる店員は暇をもて余し長めの休憩を交互にとっていた。
早菜が遅いランチから戻ると、受付の子から、そう声がかかる。
明るく気さくな性格と、腕がいいことから、早菜は指名されることの多い人気の美容師である。
「はーい」
のんびりと返事を返し、濡れた傘を傘立てに入れる。
確か予約は入っていなかったはず。
受付表には「川名」と記されている。
ドキン、と心臓が跳ねた。
かわな……よくある名前、だろうか。
少なくとも、今までその名字の人を接客したことはなかった。
鏡の前の椅子に座るその人を見て、早菜は恐るおそる近付いてゆく。
心臓の鼓動はさらに早まる。
「ラキさん……?」
早菜が鏡越しに目を合わせたのは、十数年振りに見る実央の父親、楽鬼だった。
「早菜ちゃん」
楽鬼は振り返り気まずそうに微笑む。
「……魚は? 鯛は釣れた?」
「うん、釣れた」
「遅くない? 地球の裏側まで行ってた?山ほど釣って缶詰めにでも加工してた?」
「遅くなって悪かった。地球の裏側はあながち間違ってない、のかも」
「待って、心臓が痛い」
早菜は胸を押さえ、ぎゅっと目をつぶる。
「ちょっ、と、ごめん。突然すぎて……どうしたら良いのか……これがどういう感情なのか、正直わからないかも」
「まぁ、そうだと思う」
ふぅーと息を吐き、落ち着こうと努力する。
「取り敢えず……カラーは、どんな色がいいですか?」
「染めるのは初めてで、おまかせします」
楽鬼は短い白髪をさっと撫で、ぺこっと頭を下げた。
「カラー見本持ってくる」
早菜は店のバックヤードに入るなり、しゃがみこんで顔を伏せた。
自分でも整理不能な、わからない感情が涙と共に溢れ出た。
早菜は楽鬼の正体を今でも知らない。
ただ好きになったときは、アルバイト先の料理人だった。
穏やかで、誰にでも優しく親切な人柄は厳しい調理場の中であっても外であっても少しも変わらず、それは早菜の信用に値した。そして初めて尊敬出来る大人としてその目に眩しく映る。
また、楽鬼の作る賄いは美味しく、食の細かった早菜が、彼が当番の時はいつもよりたくさん食べた。
子供が出来たと伝えたら、戸惑う早菜の前で、嬉しそうに喜び彼女を抱きしめて言った。
これ以上幸せなことはない、と。
お祝いに鯛を釣って来るから。
そう言って海へ行き、そのまま船上から忽然と消え、後日船だけが見つかった。
あれから随分と長い月日が経っている。
実央は大きくなり、自分も歳をとった、突然現れたこの人は今でも私の恋人なのか?
それとも元恋人と呼ぶべきなのか……
早菜は、実央と同じ楽鬼の白い髪に薬剤を塗る。
その手はずっと震え、上手く出来たかは不明瞭で、よく覚えていない。
散りかかった桜の花びらが、大学のキャンパスに舞っていた。
「新入生の皆さん!!ぜひうちのサークルへ!!」
講堂へ向かう広い通路の両端は、サークルへ勧誘する先輩達が並び、大きな声でそんなことを叫んでいた。
「そこのイケメン新入生さん、うちのダンスサークルに入らない?」
実央は袖を引っ張られ、無理矢理チラシを渡される。
「ちょっと、すみません。急いでい
るので」
「用事が済んだら来てね!待ってるから!!」
実央はそこから逃げるように立ち去る。
携帯で時間を確認すると、オリエンテーションが始まる時間まであと数分である。
ほぼ人で埋まった講堂の、その扉が閉まる間際に滑り込み、なんとか間に合った。
これも、あの新婚バカップルのせいだ。
と心の中で毒づく。
楽鬼が鯛の刺身を持ってアパートへやって来たのは、昨年のこどもの日、辺りのことだった。
「お母さんと結婚します!」
派手なドピンクの髪色で、頬も似たような色に染めながら、勢い良く? 勢いで? そう言い放った。
突然現れた父親は羽振りのよい人だった。
鎮石の下に埋まる前までは、日本料理店の板前だったらしいが、それ以外にひと財産は持っているような口振りであった。
アヤカシ界隈では、人の世界でお金に不自由しない仕組みでもあるのだろうか?
それに、ちゃんと人としての戸籍と身分証を持っていて、婚姻届もすんなり受理されたらしい。
そして実央の受験費用や入学金、学費の全部をポンと払ってくれた。
新しいマンションも買ったから、一緒に住もうと言われたが、さすがに新婚のふたりの邪魔をする気はなく、一人アパートに残った。
今朝、母親が突然アパートへやってきて、楽鬼さんと喧嘩した、もう戻らないから、と拗ねまくっていたが、いざ楽鬼さんが迎えに来れば
「じゃあ、オリエンテーション頑張って!」
と言い、幸せそうな笑顔でさっさと二人で帰っていった。
そのゴタゴタのせいと、途中、お年寄りに切符を買ってやり、迷子の子供の親を探し、その親から丁寧なお礼を受け、電車内で急病人が出て介抱してたら電車が遅れる、という様々な要因が重なった。
オリエンテーションが無事に終わり、外へ出ると、在校生と新入生が合わさり人の波が大きくなっていた。
その大勢の人の中で、実央は椿をすぐに見つけた。
見つけたと言うより一際目立って目に入った。
短い前髪、真っ直ぐな長い髪、くりっとした大きな瞳。
両手にカフェのテイクアウトカップを持ち、空を仰ぎながら歩いている。
実央も空を見上げる。
上空にはヘリコプターと、それと同サイズの青いトンボのような蟲が悠々と飛んで行くのが見えた。
「おっと、すみません」
案の定、実央にぶつかって謝る。
「あ、なんだ」
ヒロくんならいいか、という顔で椿は笑う。
「あ、なんだ、じゃない」
「遅かったね、オリエンテーションの前に会う約束だった」
「ごめん、いろいろあって。何見てたの?」
実央は椿からコーヒーを貰う。
「桜の花びら、見てた……。何、そのチラシたち」
「そこで渡されて」
「ちょっと、サークルとか浮わついたもんに入ってる暇はないよ、医学部なんだから!」
「あ、はい。で、その脇に挟んでいる同じようなチラシは? 新入生じゃないでしょう? 椿、せん、ぱい、は」
「あーこれ? 勝手に渡してくるんだもん」
ふたりは賑やかなキャンパスの道を並んでゆっくりと歩いた。
桜の花びらが降り積もる、薄桃色の明るくまっすぐな花道を。
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