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初恋と命運
出自
しおりを挟む実央は父親のことを何も知らない。
小さい頃に、名前だとかどんな人だったのかとか、そういうことを知りたいと思った時期も確かにあったが、漠然としたことしかあえて話さない母親の態度から、聞いてはいけないことなのだ、と子供ながらに感じとっていた。
家に位牌や写真がなかったり、命日に拝んだり、墓参りに行ったことがないから、死別ではなさそうだという程度で考えていたし、名字は母方の姓であること、若くして出産していることから、もしかしたら未婚だったのかもしれない、と、ある程度婚姻制度がわかった頃に思ったことはあった。
そして、何かの手続きのために戸籍謄本を取り寄せた折、書類上ではその見当で間違いはなかったということも確認していた。
母親が実央の父親について話したことは思えば何もない。
自分を妊娠したので高校を辞めたこと、勉強は好きではなかったので丁度良かったと笑って話していた。
そして、実央の父親をとても愛していて今もそれは変わらない、ということも。
そんなことを、たまに話すことはあった。
実家とは疎遠らしく、祖父母は健在らしいが実央は一度も会ったことがない。
孤立無援で幼子を抱え、生活苦とその厳しさから、詰まるところまできての置き去りだったのだろう。
実央を施設に預けている間、働きながら通信制の高校を卒業し、美容師の資格を取っていて、また一緒に暮らす、という思いは強くあったのだ。
それだけで充分だった。
自分が生まれてきたことで母親の人生は大きく変わったのだろうが、母親自身がそれを後悔していないのなら、実央も惨めではない。
自分は望まれて生まれてきた、そして愛されている。
そう思えば、自分をゲームセンターに置き去りにした母親も許せた。
一緒に死のうか、自分だけ逝こうか、そんなところまで切羽詰まっていたのかもしれない……
と、施設の誰かが言った言葉も、そのまま信じていた。
親子だとか血縁だとかいう絆は時に甘い言い訳になり、そして免罪符にもなるだろう。
実央は川沿いの土手に座り、ぼんやりと川を眺めていた。
朝日が水面を射して、輝いている。
夜勤明けで一睡もしていないが、実央の頭は冴えて眠気などとは皆無だった。
血が騒ぐとはこういう感じなのだろうか。古書を読んだときの激しい高揚が今も続いている。
今までぼんやりと思っていたこと。
つまり自分が普通の人とは違う感性を持っているということ、それが全てこの理由をもって肯定されたのではないだろうか。
他人には見えないものが見えたり、大きな音が怖かったり、匂いに敏感だったり、変に勘が良かったり。
まるで失くしたパズルのピースのひとつがピタリとはまったときのような、解けなかった難しい数式の答えがすんなり出たときのような、そんな爽快感があった。
腹に据わるような、妙に納得する気持ちだ。
あの「鈴の家」での火事の日に、見たこと感じたことが生々しく思い出される。
あれが、夢ではなく本当に体験したことなら、あの古書の内容と一致することが多い。
虎玉という言葉も覚えていた。
黒い雨ガッパをきた男の声と、もう一人若い男の声も。
そのどちらかが、あの古書の筆者だろう。
自分の出生の全てを受け入れたわけではないが、しかしもしあの古書に記されていることが本当なら、何よりも先に考えなければならないのは、椿のことだった。
十三年といえば、もうその時ではないか?虎玉というやつの効力が失われるのは。
あの、命運に従うのみ、という文面をそのまま読めば命尽きるのが妥当ということになるが、深読みすれば「運」という部分にも希望がある、という意味にはならないだろうか。
今度は絶対に見捨てたりしない。
実央は立ち上がった。
学校へ行く小学生たちとすれ違い振り返る。
「ヒロくん!」
そう呼ばれた気がした。
小学生の群れの中に、あの頃の椿を見た気がした。
小さな椿は手を振って早く来いと笑っていた。
懐かしい想い出が昨日のことのように次々と甦った。
と、その椿の姿が徐々に滲んでいく。
「いやぁ、おはよう!!」
実央は何度か瞬きをして目を凝らし、その手を振っている人物に注目する。
「もしかして、僕の忘れ物、届けに来てくれた?」
「……」
にこやかに手を振っていたのは岩梵だった。
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