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再会と初雪
虚言
しおりを挟む開け放たれた扉から、階下で話す両親の声が聞こえた。
椿の部屋の扉が開いたままだと知らず、彼女には聞こえないと思って話しているようだ。
「あまり期待をしない方がいいんじゃないか?」
「どうして? つーちゃんは出来るわよ」
「そうだろうけど……」
「一番賢くて運が良い子だって、ちゃんと聞いたんだから」
「また、うちに来たばかりの時みたいに変なことを言い出したら……とにかくストレスは良くないよ。病院は、無理に継がせなくったっていいんだから」
椿は部屋の扉を静かに閉めた。
橘椿 、それが新しい名前だと言われた。
本当の苗字は覚えていない。
どこかの公園の、椿の木の下で見つけられたから、関係者の誰かに「椿」と名付けられたらしい。
産後すぐに置かれたようで、本当の両親のことは何もわからない。
この家に来る前のことはあまり良く覚えていなかったが、来たその日からのことは覚えている。
新しい綺麗な服に、広い一人部屋。
母親は夕食にハンバーグを作ってくれて、父親は食後にアイスクリームをくれた。
身の回りにある全てのものが綺麗で新しく、口に入れた食べ物は全部初めての味だった。
ずっと憧れていたお姫様に、本当になったような気がして、楽しくて嬉しくて両親もとても優しくて。
信じられないような幸せな日々が、朝起きても夢ではなく、まだちゃんと続いていることに毎朝驚いていた。
だから、すっかり「鈴の家」の所長先生と約束していたことを忘れていた。
橘の家に来てひと月が経った頃。
幼稚園の帰り道、椿は母親と傘をさして多摩川沿いの土手を歩いていた。
「わかった!」
椿は唐突に大きな声でそう言い放った。
「びっくりした。何がわかったの?」
母親はそれまで静かに歩いていた椿が、何の脈絡もなく突然大きな声で叫んだので驚いて立ち止まった。
「雨の日には、小さな銀色の虫が降ってくることがあるでしょう? あの子たちが地面に落ちて、それからどこへ行くのか、今までずっと、とっても不思議だったんだけど、今わかったの!」
母親はしゃがんで椿の顔を覗きこみ、そして彼女の指す川の方を見た。
「川よ、川に集まるの。でも可哀想、食べられてしまうんだ……あれに」
「あれって? 川に何かいるの?……お魚さん?」
「違う」
椿は大きく首を振って否定した。
「あの、大きな……自動車くらいの? ゴツゴツとしたパイナップルみたいな生き物よ」
「……どこにいるの?」
「いるじゃない、ほらそこに。大きな口を開けて、口の中は真っ赤なの、そこへ銀色の虫がどんどん入っていくの」
母親は雨の波紋で揺れる川面をしばらく眺めてから立ち上がった。
「つーちゃん、想像の話を本当みたいにお話しするのは良くないことよ」
「え? でもお母さん、想像じゃないの、本当にいるんだもん」
「いませんよ」
「いるわっ!!」
「いない!!」
「嘘つき!!」
「つばきっ!!」
その日、初めて母親の怖い顔を見た。
「銀色の虫も、パイナップルみたいなお魚もいません、わかった?!」
わかったかと言われて、わかりませんとは言えなかった。
椿は下を向きレインコートの裾から出ている母の黒いブーツを見た。
母のブーツの下で銀色の虫が何匹も這い出してくるのが見える。
けれど、それも多分言ってはいけないことなのだ。
「この前も、なんだっけ? お友達に風の中にネズミがいるって言ったわね?」
椿は自分の長靴を見た。
新しく買ってもらった綺麗なピンク色のそれを見る。
「火を食べる虎に、雪と一緒に落ちてくるチョウチョ? 想像力が素晴らしいのは分かったけれど、本当にいるみたいにお話するのは嘘を言っているのと変わらないことなのよ、嘘をついてもいいの?」
椿は下を向いたまま首を振った。
「駄目でしょう? 嘘は相手を傷つけることなのよ? そして自分も」
傷ついているのは今の自分だ。
嘘なんか言っていないのに、大好きな人から嘘をついている、嘘をつくなと言われている。
でも、お母さんが怒るのは、きっとお母さんも傷ついて悲しいからなのかもしれない。
大好きな母が怒ったり、悲しい顔をしているのを見ると、椿の胸は苦しくなり自然と涙が出てしまう。
椿の黒い瞳から大粒の涙がポロポロとこぼれて、長靴のつま先へ落ちた。
所長先生が言っていた。
本当に見えたとしても、他の人には見えないし、分かってもらえないから、秘密にしなさい、と。
でないと、また「しせつ」に戻ってくることになると。
お母さんならわかってくれる、そう信じていた。
でも違った、お母さんもやっぱり「他の人」なんだ。
自分だけの部屋、自分だけのおもちゃ、自分だけが読んでいい絵本、自分だけのために作られる料理とお菓子。
何よりも両親が出来て、愛情を一人占め出来る幸せを知ってしまったら「しせつ」に戻るなんて絶対に嫌だった。
「ごめんなさい、もう嘘は言いません」
椿が謝ると、母親は満足したように微笑みまた椿の手を握った。
「きつく言ってしまってごめんなさい。でも、つーちゃんには、もうお父さんもお母さんもいるでしょう? 寂しくないでしょう?」
椿は泣きじゃくり嗚咽しながら、母親の手を強く握り返した。
そう、もう寂しくはならない、きっと。
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