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第1章 その翼は何色に染まるのか

35話 事件再来

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「ディーナ、そろそろ行くぞ」
「はいっ!」

 灯真が靴を履き終え待機していると、慌てた様子で上着を羽織るディーナは小走りで玄関まで向かう。

 ドルアークロでの出来事から1週間が経過した。拘束された松平たちは、かつて森永や広瀬たちが配属されていた法執行機関キュージスト第2捜査班によって連行。阻害結界ホルビニシオを発動していた部下たちも、決められた条件を満たさない使用が法執行機関キュージスト規則違反であるとして一緒に連れて行かれた。

 今回の事態を重く見た日之宮ヒノミヤ 一大モトヒロ 法執行機関キュージストレディールは、セリーレの捜査のために広瀬と山本の両名に監視の指示を与えていたことを公表。本来協力を仰ぐべきだったルイス・ブランド調査機関長ネフロラレディールへ謝罪。しかし、セリーレがエルフ創造を企んでいたことについては言及されず、ドルアークロ襲撃という部分のみが大々的に広まっていった。
 それに対してセリーレ側は、今回の松平の犯行が彼の個人的な行動でありセリーレ全体の意思ではないとの声明を発表。結局今回の一連の騒動は、松平とその部下たちに責任追及される形で幕を閉じることとなった。

「体調の方は?」
「それを聞くのは私だと思うんですが……」
「俺は大丈夫だ」

 玄関を出ると、二人はエレベーターに乗り込みエントランスに向かう。ディーナを狙っていた松平が拘束されたとはいえ、未だ安心はできず灯真が散布探知エトラスクを用いて建物内を警戒するのは変わらない。

 あの出来事以降、灯真の夢に亡くなった人々の姿が出ることはなくなり、寝ている間の魔法発動が止まっている。しかし、彼を責め立てる声は止まらず睡眠不足は解消されていない。また、魔法暴走ラーズィープランブの症状は完全に止まったわけではなく不安定で、魔力を際限なく消費できてしまう状態も変わらないという理由から、障害認定のランクが下がることはなかった。

「無理はダメですよ。昨日だってあんなに」
「わかってる」

 症状に改善が見られたのは良かったのだが、それに伴いある弊害も生まれた。灯真の魔法の力である。

 これまで彼は、魔道具マイトや魔術の使用を除けば自身の魔法を勝手に使ってしまう状態で、常に魔法を使意識してきた。魔法を使いたい時はそれを止めればいいのだから、羽を大量に作り出すのは容易だったのだ。
 しかしそれが止まった今、灯真は自分で意識しなければ魔法を使うことができない。普通に戻ったとも言えるが、魔法使いとしての力は以前と比べて半減したといっても過言ではない。
 そのことがわかってから、灯真は仕事を休み初心に戻って魔法の訓練をしている。ドルアークロでの事件に巻き込まれたこともあって、会社からも特別休暇の了承を得た。事情を知っているのは、彼が魔法暴走ラーズィープランブであると知っていたルイスと、協会ネフロラ本部での件もあって情報共有を許された君島と、そしてドルアークロでの事件に巻き込まれた岩端の3人のみ。最も、君島は彼の状態を知って何故今まで黙っていたのかと、ルイスと灯真に怒号を浴びせ二人を困らせたが……。
 
「本当にダメですからね!」

 心配と怒りが混ざったディーナの言葉に、灯真は肩を竦めてみせる。ディーナが心配するのも無理はない。いくら寝ている間に魔力を使わなくなったとはいえ、灯真は訓練でかなり無理をする。それこそ、一瞬ディーナから魔力供給が必要になるまで。限界の見極めと言い訳をしているが、償いはまだ終わっていないという意識が彼を駆り立てていた。

 エレベーターが1階に到着し扉がゆっくりと開く。正面に見えるエントランスの自動ドアから、外の光が視界に入り眩しく感じる。

「だいぶ加減の仕方は掴めてきたんだ。もうあんなことには……」
「よう!」

 灯真がディーナの方を向いたまま外に向かって歩いて行くと、自動ドアが開き外の風を感じた瞬間に聞いたことのある声が耳に入る。

「あっ!」

 先にその姿を捉えたのはディーナだ。建物の外には、ジーパンにパーカーというラフな格好の広瀬が待ち構えていた。そばにある車の運転席には山本の姿もある。

「調子は悪くないようだな」
「事情聴取ならもう終わったはずですが?」
「その件なら俺に権限はねぇ。当事者の一人だからな。今日はお前たち2人に用があってきたんだ。ちょっと乗ってくれや」

 広瀬はそう言って親指で後ろの席の扉を指す。松平の味方ではないと分かってはいるが、灯真は彼らを完全には信用していない。勘というものをあまり信用しない灯真だが、彼らには何か裏があるように思えてならなかった。

「これから訓練なので出来れば遠慮したいんですが……」
「その女のことが広まったら、協会ネフロラの法令違反で大騒ぎになるだろうな」
「……脅しですか?」
「そうしてでもお前らを連れてきたい理由がこっちにはあるんだ」

 真っ直ぐ灯真を見つめる広瀬に、人の感情を読むのが得意ではない灯真でも緊張している様子が感じ取れる。戦って無理やりにでも連れて行こうという雰囲気すら、その場を流れる空気でわかる。灯真は数秒の間をおいた後、ディーナの手を取って車の方へ歩いて行く。ディーナに抵抗する様子はなく、あくまで灯真の意思に従うというスタンスのようだ。

「先日助けてもらったお礼がまだですし……でも、あまり長時間は付き合えませんよ」
「善処する。さっ、乗ってくれ」

 広瀬自ら後部座席のドアを開けると、灯真はレディーファーストと言わんばかりにディーナを先に乗せる。もちろん警戒は怠っていない。万が一彼女を乗せたところで発車されても大丈夫なように、車の前にはすでに羽を展開している。

「どこへ行くんです?」
「それは……」
「陽英病院だ。そこで2人に会いたいという人が待ってる」

 どういうべきか悩む広瀬に変わり山本は目的地を告げると、ギアをDに入れすぐに車を発進させる。風もない穏やかな陽気に絶好の訓練日和だと思っていた灯真は、外の景色を見ながら嘆息する。彼らの会わせたい人物が誰なのか予想がつかない。

調査機関ヴェストガインに正規のルートで連絡できないってことは、先日の件と何か関係でも?」

 別にこんな朝早くに家の前で待ち伏せしなくとも、呼び出すことは可能である。それが出来ないということは、公表されていない事案に絡んでいることだろうと灯真は踏んだ。

「松平の事とは関係ねぇ。もっと言えば、その女の正体ともな」
「二人とも……ディーナのことはご存知なんですよね」
「半信半疑ってところだ。俺たちは松平から話を聞いていただけで、直接エルフを作っている場所に行ってたのは奴だけだ」
「総大将から我々に降った任務も、セリーレと通じている松平の監視というだけで、その他に具体的な指示はなかった」
「じゃあ……協会ネフロラ本部でのやり取りは、お二人の演技だったと?」
「まっ、そういうこった」
「手を抜いては怪しまれてしまうからな。あの時はすまなかったと思っている。もっとも、本気を出して勝てたかどうかはわからんが」

 ルームミラー越しに一瞬だけ、山本の視線が灯真に向けられる。その目はまるで獲物を狙うように鋭く、灯真は思わず散布探知エトラスクと自分とディーナを守るための羽を展開し始める。

「……ご冗談を。あの時は、こっちの力を知られていなかっただけで」
「お前な! ここで警戒させてどうすんだっつーの!」

 車内に流れる怪しい空気を感じ取ったのか、広瀬が諫める。しかし山本は口元を緩ませ、何やら上機嫌である。

「あれだけの実力を見せつけられたんだ。本気で手合わせしてみたいと思っても仕方ないだろう?」
「時と場所を選べよ、全く……すまねぇ。こいつ、自分を鍛えるのが趣味なやつで。あんたに次会ったら、試合申し込むんだってずっと言っててさ」
「試合?」
「俺らが普段やってる、相手を拘束して行動不能にしたら勝ちってルールの訓練のことだよ」
「……おっ……お断りします」
「なっ!?」

 灯真の回答にショックを受けた山本は、その場で突然ブレーキを強く踏み込む。油断していた広瀬は、前方へと押し出される衝撃で体にシートベルトが食い込む。後ろにいた二人は警戒して張っていた羽にぶつかり、ディーナは涙目になって勢いよく当たった額を押さえている。

「ディーナ、大丈夫か?」
「痛いです」

 事前に急ブレーキを察知し、腕を自分の正面に出して衝撃に備えた灯真だけが無傷であった。幸い後ろに他の車がいなかったので追突されずにすんだ。しかし、山本を警戒し全面にしか羽を展開していなかったことを灯真は反省する。

「いきなり何してんだよ山本!」
「すまん……断られるとは思わず……」

 試合といっても訓練であることには変わりない。山本は灯真が魔法の訓練をしているという情報は掴んでいたので、それの延長として引き受けてもらえるだろうと考えていた。楽しみにしていたこともあり、よほどショックだったのだろう。先ほど鋭い視線を向けていた同じ人とは思えないほど肩を落としている。

「後でちゃんとお願いしてみりゃいいだろうが。俺も一緒に話してやっから」
「分かった……」

 灯真とディーナの中で二人の印象がガラリと変わる。広瀬の方が感情的に動くのかと思いきや、今は逆に見える。

(猛獣と調教師か……)

 肩を叩いて宥める広瀬と落ち込んだまま車を再び発進させる山本の姿を見て、率直にそう感じた灯真であったが口に出すのは控えた。

「着いたぜ」

 陽英病院……協会ネフロラ設立以前より日本の魔法使いたちをまとめ上げてきた日之宮家が創設した病院。その名は「名も知られぬ傷ついた英雄たちに、再び陽の光を与える」という意味を持ち、表向きは国や地域のために貢献している貧民層の人々の治療をするために作られたとされているが、実際は人知れず魔法を悪用する者達と戦ってきた同胞たちの治療を目的として作られた歴史がある。
 一般的な治療に魔法を使うことはないが、一部カウンセリング等には協会ネフロラの承認を得て軽度の魔法使用を許されており、灯真も魔法暴走ラーズィープランブの定期診察に来ている。

「こっちだ」

 広瀬に案内されるまま灯真たちは一般の診察受付とは別の道へ進む。看板を見ずとも灯真はその先にあるのが病棟であることを知っている。15年前こちらに戻ってきた直後に灯真もお世話になっていたし、灯真の定期診察は一般の方ではなく病棟側の特別診察室で行われる。清潔に保たれた白い廊下を進みエレベーターに乗り込むと、広瀬は8階のボタンを押す。灯真の記憶では特別診察室は7階で、8階は入院用の病室がある階だ。

「そろそろ教えてくれてもいいんじゃないですか?」
「行けばわかる。多分、お前ならな」
「俺なら?」

 広瀬の言葉の意味もわからぬまま、灯真たちを乗せたエレベーターは8階に到着する。陽が差し込む廊下は15年前ここに連れてこられた時と変わらない。当時のことはあまり記憶に残っていないが、この廊下と窓から見える街並みや遠くの方に広がる海、そしてネフロラジャパンも入っている商業ビル群を見て、自分たちの住んでいた世界に帰ってきたと実感したのを覚えている。
 広瀬がナースステーションで面会の手続きを終えると、一番奥の個室へと案内される。部屋番号は無く、そこに入院しているのだろう人物の名前のみが壁に掲げられている。

「日之宮…誠一セイイチ……さん?」

 名前を見たディーナはいつもの癖でその人物に心当たりがあるか記憶を辿っていた。しかし彼女はその名を知らない。それは名前の人物が魔法使いではないという意味でもある。

「どうしてここに、セイさんが……」

 ディーナとは逆に、灯真はその名を知っている。15年前に出会い、ドルアークロで働く蛍司と一緒に苦楽を共にした彼の名を忘れたことはない。灯真の反応を伺いながら、広瀬は扉を2回ノックする。

「どうぞ」
「失礼します」

 中から男性の声が聞こえたのを確認し、広瀬は扉を静かに開けた。聞こえてきた声は灯真が知るものではない。

「総大将、如月灯真を連れて参りました」

 広瀬の言葉に灯真は耳を疑った。扉が開き目の前に現れたのは、ベッドに横たわる男性の足を丁寧に曲げ伸ばしする、体格の良い男性の姿。以前灯真が写真で見た精悍な顔立ちとはまるで違う優しい目をした彼が、法執行機関キュージストをまとめ上げる現日之宮家当主、日之宮 一大であるとは信じられなかった。

「セイさん……」

 ベッドに横になっている男性は、痩せ細ってはいるものの、間違いなく灯真が知る日之宮 誠一本人だった。天井を見つめたまま、灯真たちが来たことにも反応する様子はない。

「来てもらってすまないが、少しだけ待ってもらえるだろうか。もう少しで終わるのでな」

 捲られたワイシャツの袖から見える逞しい腕で、誠一の足の曲げ伸ばしを繰り返し行うその意味が、ディーナは気になって仕方なかった。
 
「灯真さん……あれは一体……」
「あれは……」
「関節が固まらないように動かしてんだ」

 答えてくれたのは広瀬だった。彼の答えの意味がいまいち分かっていないディーナが首を傾げているのに対し、灯真は顎に手を置いて誠一の状態を考えている。

「15年前、行方不明だった誠一さんは発見されてからずっとあの状態のままだ。体に異常もねぇし、脳も正常。なのに自分から動くことはねぇし言葉を発することもねぇ。ああやって体を定期的に動かしてあげなきゃいけねぇんだ」
「そんな……」
「お待たせして申し訳ない」

 作業を終えて洗った手を拭いながら、一大は灯真たちへ近寄ってきた。ディーナは思わず一歩下がって灯真の後ろに隠れる。目の前の人物に会ったことがあるからではない。灯真もできることなら一歩下がりたいと思っている。それほどに日之宮 一大という男から、力強さというか気迫というか法執行機関キュージストの長であると思い知らされるものを感じさせられる。

「本当ならば食事の席でも設けるべきなのだろうが、このような場で許して欲しい」
「いいえ……」
「日之宮 一大だ。今日は法執行機関キュージストの長としてではなく、誠一の父として君に話があってここに来てもらったんだ」

 彼から差し出された右手を、灯真は恐る恐る握り返す。大きく、そして硬い手だ。

「今日ここに来てもらったのは、君たちの持つ契約テノク魔道具マイトについて話を聞きたいと思ったからだ」
「……何のことでしょうか?」

 ディーナのことは一大にも情報共有されているが、灯真の持つ魔道具マイトについては君島とルイス、そしてアーサーだけで情報を止めている。契約の魔法テノク協会ネフロラが禁忌と認定しているため、それがバレたら灯真は逮捕され魔道具マイトも没収されてしまう。それを回避するため、ルイスとアーサーはその事実を隠している。灯真は平静を装いながら、彼からの質問をどう捉えるべきか判断に迷っていた。

「佳久から先日の事件の詳細は聞いている。君が魔力枯渇ラグナトルスに陥ったことも、そこから復活したことも」
「それは……」
「そのディーナという女性も、広瀬たちの話では助からないはずだったと聞いている。君が契約テノク魔道具マイトを使って助けたのではないか?」 
「……何がお望みなんですか?」

 誠一を見ていた時とはまるで違う、刺すような視線が灯真たちに襲いかかる。ディーナは灯真の後ろに隠れたまま彼の服をギュッと握りしめ一大と目を合わせないよう下を向いた。心臓を掴まれたかのような息苦しさを感じ、灯真は思わず部屋中を満たすほどの羽を生み出していた。視界をわずかに歪ませる透明な羽に気付いているものの、一大が動揺する様子はない。部屋の中に張り詰めた空気が流れ、心配した広瀬が灯真に何かを告げようとするが、そのよりも先に一大が口を開いた。

「単刀直入に言おう。君の持つ魔道具マイトを我々に……」
「失礼します!」

 一大の言葉を遮るように、部屋へと入ってきたのは車を止めて後からやってきた山本だった。体力には自信がある彼が息を切らせてやってきたことに、よほどの緊急事態なのだろうと一大は察した。

「どうした?」
「松平主任が……殺害されました」
「何!?」

 松平は現在、ドルアークロでの一件について尋問するため法執行機関キュージストが所有する留置場で拘束されていた。警備体制も万全な施設であり、そう簡単に部外者が侵入できる場所ではない。
 松平はセリーレの暗躍を証明する重要な証人。それを失うことは捜査が振り出しに戻ったと言ってもいい。一大の表情が険しくなっていく。

「松平の監視を行なっていた者たちは全員倒され、何名かの女性職員が行方不明とのこと」
「犯人は!? 」
「監視カメラの映像から……」

 山本は何故か犯人の名を口にすることを躊躇っている。その様子に広瀬はハッと何かを感づいた様子を見せた。

「悠里、言ってみろ。犯人は誰だ?」
「……心一シンイチさんです」

 山本が告げた犯人の名を聞いて驚いたのは広瀬や一大だけではない。灯真もまた、知った名前を耳にして衝撃を受ける。同時に、山本が躊躇ったのも納得できた。
 日之宮 心一……灯真と同じく15年前に行方不明となった被害者の一人であり、日之宮家の長男、誠一の兄でもある。

「バカ息子が……動きおったか……」

 灯真に向けられていたプレッシャーはどこかに消え去り、項垂れる一大は近くにあった椅子に腰を下ろした。驚いているというよりは、この状況を予想していたような印象を灯真は受ける。

(一体何があったんだ……シンさん……)

 灯真が知るかつての心一は、粗暴な印象で恐怖を感じることもあった。しかし、誠一が間に入ってくれたおかげで芯の部分では優しさを持ち合わせる人物だと知った。そんな彼が人殺しをするとは思えなかった。
 植物状態の誠一といい、松平を殺害したという心一といい、彼らと会うことがなかった15年の間に何があったのか……一大たちがここに呼び寄せた理由といい、灯真の頭の中には疑問ばかりが渦巻いていた。


* * * * * * 


「どうなってんだよ一体……」

 一方その頃……調査機関ヴェストガイン日本支部の事務所では、求めていた結果を得られず落ち込む紅野が、手に入った資料と睨み合いを続けていた。

「例の女性の失踪事件のか?」

 そっと缶コーヒーをテーブルに置き、土屋が資料を手に取る。ここ数ヶ月の間に、若い女性が何人も行方不明になっているという事件で、警察内部にいる協力者から調査の依頼が入った。紅野は1ヶ月前から調査に動いたが、有力な手がかりがまるで見つからない。

「はい……俺の勘では間違いなく魔法使い絡みだと思ったんですが……それっぽい魔力残渣ドライニムの反応もないし、かといって現場の情報を探っても犯人らしき奴の声も聞こえないし……」
「今日確か、情報提供者に話を聞くんじゃなかったか?」

 3日前、行方不明になった妻を夫が探し出し救出したという事案が発生した。その夫は、一般人として暮らしているが協会ネフロラに登録されている魔法使いであり、妻の失踪が現在調査が行われている別の事件と酷似している部分があるとして協会ネフロラに通報。それを受け調査を行なっていた紅野は、彼から詳しい話を聞くことになったのである。

「あ~、もうそろそろ約束の時間です。でも、ちょっと問題があって……」
「問題?」
「紅野さん、お客様がお見えになりましたよ」

 女性職員の声を聞いて立ち上がった紅野が目にしたのは、右手に白杖を、そしてかけているサングラスからはみ出るほど両目に大きな傷跡を持つ小太りの中年の男性だった。

「稲葉さん、先日はどうも。ちゃんとご挨拶もできなくて……」
「如月はいますか?」
「え?」

 その男、稲葉 光秀イナバ ミツヒデの言葉に事務所の職員たちの手が一斉に止まる。彼のことを呼ぶ人は、神奈川県警の三科ぐらいしか覚えがない。

「如月は本日お休みをいただいておりまして……」
「そうですか。こちらで働いていると耳にしたので、挨拶ぐらいはしておこうと思ったのですが……」

 いないとわかっても光秀にがっかりする様子はなく、むしろホッとしているように紅野は見えた。

「でっ……では、応接室の方で詳しいお話を聞かせていただきます。どうぞ」

 如月の名を聞いて若干動揺しながらも、紅野は営業スマイルを崩さず光秀を応接室へと案内する。光秀が白杖を持っていることを忘れいつも通りの歩調で進む彼に、最初に光秀を案内した女性職員が声をかけようとするが、光秀は白杖で床を軽く叩きながら紅野と変わらぬ速度で彼についていく。本当に目が見えていないのかと疑うほどに。白杖の音で、自分が何を忘れているのかを紅野は気付いた。

「申し訳ありません。先行してしまって」
「いえ、大丈夫です。完全に見えないわけではないので」

 紅野は応接室の扉を開け光秀を誘導しようとしたが、彼は紅野に軽く会釈するとそこに扉があることを知っていたかのように、どこにもぶつかることなく部屋の中へと入っていった。
 
 この稲葉光秀という人物との巡り合いによって、運命の分岐点が生まれつつあることをこの時の紅野はまだ知る由もなかった。


* * * * * *
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