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32 居場所

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 車の往来やクラクション、スマホを片手に喋る通行人達の声。賑やかでザワザワとしたその空気の揺らめきに、リリアナは自分の身体がぶれる感覚を持った。
 なんとなく自分の手のひらを確認した。自分がまだこの世のものではないのかと、身体が透けているかのような感覚にとらわれたからだ。

(……透けてるんじゃない。怖くて自分が震えてるだけじゃん)

 身体がおもりのようで、足を踏み出すこともできない。喉の奥に何かが張り付いたように、声も出せない。何をどうしていいのかもわからない、どこへ向かえばいいのか、どう助けを求めればいいのか、誰に助けを求めればいいのか、なにもわからない。

「……っ、ふぇっ……」

 ただただ涙が止まらない。

 だからあれほど言っただろ、なんでもかんでも考えなしに飛び込むなって。
 そんな声がハッキリよみがえる。

(……っううっ、ジルベルト様……)

 自分が好き勝手にやってこれたのは、自分が立ち回りが上手かったとか、運がよかったとか、そんなことではなく、受け止めてくれる人達がいたからだと気付いた。

 ――リリアナ、戻ってこい――

 戻りたい。ここには何もない。大好きな人。大好きな友。大好きな仲間。苦手な仕事、少し不自由な生活、血が巡るような激情も。
 それは置いていけるものではなくて、すべて自分の一部であった。

 ――リリアナ!――

 幻聴のジルベルトにすら怒られた気がして、リリアナは肩を震わせた。

『リリアナ!』

 排気ガスにも簡単にかき消されてしまいそうな幻聴は、それでも鋭くリリアナに真っ直ぐと届いた。
 聞いたこともないほど切迫したような彼の幻聴につられて、硬い無機質のアスファルトから重たくもたげていた頭と視線を上げた。

 この世界は今、夏なのだろうか。アスファルトに照り返す湯気がモヤモヤユラユラと陽炎を生むのか。
 それとも焦がれすぎて自分の心が見せる幻なのか。

 自分の立つ歩道の先に、ここでは異質でしかない銀髪の青年が揺らめくようにいた。

「……え」

 “ジルベルト”にしか見えないソレは、透けて見えたり、または色濃くそこに存在するかのように見えたりと、ユラユラ形を変えている。
 だけど、その青紫の瞳だけは真っ直ぐこちらを射る。
『リリアナ! 来い!』

「……ジルベルト、様?」
 渇ききっていたはずの喉から、自然と願いがこぼれる。そんな訳がないのに。ここは彼にとっては異世界で、自分がここにいることも知らないはずで、そもそも自分を呼ぶ理由すらもないのだ。

 それでも、あんなにビクともしなかった足が動き出す。一歩一歩、確実に近づけるように慎重に。
 陽炎のようなジルベルトは、まるで空気の幕にでも映写されてるかのように実体がおぼろだ。
 それでも、その幻覚は懸命に訴えてくる。

『こっちに帰ってこい! ああもう、目を離すとこれだから心配だったんだよ!』
「……すごいリアルなジルベルト様だなぁ」

 綺麗な銀髪を両手でワシワシとかきむしっている幻覚に、リリアナは感嘆の言葉を漏らした。自分の願望の忠実な再現に感動してると言ってもいい。

『アホッ! 俺は本物だ! ていうか悠長なこと言ってる場合じゃないんだ、俺じゃ石の力がもたないっ、早くっ』
「石?」

 リリアナは一気に頭がクリアになった。
「え、幻のジルベルト様じゃなくて?」
『そう言ってるだろっ、今、石の中のお前に呼び掛けてるっ。とにかくこのままじゃ、二度とお前を探せなくなる!』
「ジルベルト様、ごめんなさい。私、実はこの世界の人間だったんです。そちらにいてはジルベルト様に迷惑をかけてしまうので」
『只今絶賛大迷惑かけられ中だっ! これ以上の大迷惑はないから安心しろっ。いいか、一度だけ言うからな、その残念な耳でしっかり聞き取れ!』

 幻覚のジルベルトが大きく息を吸い込んだように見えた。そして、大きく両手が開かれた。

『お前が何も考えずに飛び込んでいいのは、俺の腕の中だけだ! わかったか!』

 やっぱりこれはニセモノだ、と思った。ジルベルトがそんな台詞をキザったらしいことを言うタイプではないことを知っている。
 知っているけど、コクコクと何度も頷く自分を止められない。

 これは未練が過ぎる自分が見せている幻だと、彼のそばにいてもいい理由を拗らせた幻聴だとわかっている。わかっているのに、動き出した自分の足は止まらない。

 よく考えてる。あの時、銀髪の少年を助けなければと、無鉄砲に後先考えずに飛び出したあの時とは違って。
 今目の前の、明らかに実体のない大好きな人の幻に、しっかり考えてもやっぱり私は両手を伸ばした。おもいっきりアスファルトを蹴って飛び込んだ。

 ジルベルトの幻に、腕の中に包まれた気がして、身体は浮遊しグニャリと歪んだ。


 **


 ガンガンとした耳鳴りに呻くようにして身体を起こすと、目の前にアスファルトはなかった。よく見慣れた、ボロい木の床があった。しかも誰かの腕がある。視線を横へずらすと、刺繍の入った白シャツに、シルバーのベスト。乱れた銀髪のジルベルトが後頭部を押さえて呻いていた。

「本物?」
 腕を取れば感触がしっかりあるし、上体を起こそうとすると重たかった。そして怒られる。
「俺はずっと本物だっ。てか、飛び込みが強いっ、頭打ったぞ」

 どうやら石の中から飛び出てきた自分が、ジルベルトを勢い良く押し倒したらしい。
「だ、大丈夫ですかっ!」
 気が動転して、王太子の後頭部を撫でようと手を伸ばしてしまったが、それは銀髪に届く前にジルベルトの手によって捕まった。

「やっと、大丈夫になった」
 そう言ってニヤッと笑ってみせると、そのまま強く手を引いて、リリアナを腕の中に閉じ込めた。
「わっ?!」
 ボンッと顔どころでなく頭ごと噴火したのではないかというくらいリリアナは真っ赤になり、やっぱりまだ幻に包まれているのかと疑った。
 だけど、硬い腕とシルクの服の肌触り、速い鼓動と温もりが、それを違うと教えてくれる。

「よかった……もう駄目かと思った……」
 吐息のように漏れたジルベルトの言葉が、リリアナの頭をくすぐる。
「なんか、すみません、ほんとに」
 しおらしくリリアナも呟く。

 自分と同じく速い鼓動を打つその胸に額を当てた。まるで子供でもあやしているかのように、ジルベルトの手のひらが頭を撫でていく。安心させるように落ち着かせるように撫でてくれてるのかも知れない。だけど、益々鼓動は速くなるし全身が固まって沸騰しているかのように緊張していく。
 よくよく考えたらこれは女官として、ありえない状況なのではという不安のほうが喜びよりも勝ってきてしまった。

「そうだ、もっと反省しろよ。お前の突飛な行動力を甘く見ていた俺も責任があるけど」
「突飛って」
「まさか石の中に飛び込むなんて、突飛以外のなにものでもないだろ」
「ですね。すみません、私の帰る場所はそこしかないのかと」
「アホ」

 呆れたようにして、ジルベルトは腕をゆるめた。リリアナもやっと異常から通常の状態に戻ってホッとする。
 なんとなくお互い向かい合うようにして座り直した。

「でも、なんで?」
 リリアナは周囲を見渡した。
 やっぱり小屋に戻ってきたらしい。石も転がっているし、床にジルベルトへの置き土産として書いたメモも散乱しているし、外も明るいので、自分が石に飛び込んで間もなくのようだった。日中は、王太子の職務で忙しくしているジルベルトが、小屋へ来ることなどまずないはずだった。

「ロレットが教えてくれた」
「ええ?!」

 予想外の名前が出てきて、リリアナは瞳を大きく見開いた。元はと言えばの人なのだ。あの性根の捻れ曲がった弟殿下が、まさか逆の行動をするとは。

「俺はてっきり、ロレットがお前に気があるのかと思ってたんだけど、アイツはお前をからかって遊んでたらしいな、まったく」
「……なんだって?」
「お前を困らせようと思ったら、絶対選ばないと思っていた選択肢を選んだおかしいぞあの女、って執務室に来たんだよ」
「なっ! くっそーあの男っ!」
 言ってしまってから口を押さえた。あははと楽しそうにジルベルトは笑いだした。

 額に張り付いた銀髪をかきあげ「あー、焦ったほんと」と、後ろ手で床に手をついて伸びるジルベルトを見れば、汗に濡れていた。

「まさか、それで、執務中なのに、私を助ける為に?」
「……まあ、そうだな」

 急にジルベルトのトーンが低くなった。伸びをしていたのに胡座を組み直すようにして、なぜかそっぽを向いて頬をポリポリ掻いている。

「ほんとにごめんなさい。思い詰めすぎたというか、考えが足りないというか、その、でもジルベルト様にだけは迷惑かけたくないって思ってたのに……」

 どんより落ち込み始めたリリアナをチラリと横目で見ながら、渋々という感じで、ジルベルトは口を開いた。
「ほんとだよ。……まあ、あれだな……。お前は女官には向いてないな」
「はい……すみませんでした」
「罰として、お前の今度の配属は、王太子妃だな」
「はい……今度こそ、ご迷惑かけないように、がんばり……ん?……はい?」

 リリアナは頭を上げ何度も瞬きして確認したが、目の前のジルベルトは相変わらず視線を合わせてこないが、確実に辞令を下したのだ。

「お前は女官にしとくと、どこ行くかわかんないからな。もう、俺の妃になっとけ」
「……でえええっ?!」

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