信長伝

夢酔藤山

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第一五話 都鄙和睦2

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               二


 これまで武田信長の存在を京で重くみていたのは、管領・細川勝元だけだった。
 足利義教が重んじた実績も、十分に理解していた。足利成氏への忠節は、秩序を重んじた意識の表れだということも承知している。それゆえに、秩序の頂点が室町幕府であり足利義政であることこそ〈正統〉であることを、筋道として説くことが出来る人物であると、洞察していた。
「敵にしては厄介な相手を収めるためには、どうあっても味方にすることが大事である」
 評定の場で勝元は、武田信長を調略することを主張した。餌に旨味がなければ、大魚は釣れぬ。
「いっそ守護大名に任じるくらいのことを、云うべきではないか」
 勝元の言葉に反論する者もいた。信長の力量を知らぬ者だ。
「御所様に寝返らせるなら、それくらいの事はお安いもの」
 既に実効支配していても、信長は守護大名ではない。つまり国を治める権限は何一つ持っていないのだ。徴税の権利なき者が年貢を奪えば、畿内を騒がす悪党と変わらぬ。討伐対象だ。しかし、これを攻め得る者は、上杉方のどこにもいない。ならば討伐できないのではなく、必要のない大義名分が必要だ。ゆえに上総守護職への任命、その見返りに成氏から離れるというのである。
「誰も困りはすまい。今の状況と何も変わらぬ」
 細川勝元の意見に、足利義政は同意した。上総国支配を確立した武田信長に対し
「守護大名に補任する」
と、将軍足利義政は内々に申し伝えた。その代わりに古河公方から幕府への鞍替えを誘ったのである。
「馬鹿馬鹿しいことだ」
 そのことに、武田信長は一切、応じなかった。
 繰り返し、誘いがあった。
 三度目の誘いには、見慣れぬ言葉が添えてあった。
「都鄙和睦?」
 余分な学のない信長は、難しい言葉がどういう意味かを、広く質した。
「幕府と古河公方様の和睦ということではありませぬか?」
 武田信高が首を傾げながら解釈した。云うことは悪いものではない。しかし、関東混乱の原因は、幕府の勝手な介入によるところが大きい。その先兵とされた東常緑はまだ居座っている。伊豆堀越にも私称の公方が留まっているのだ。
「これが退かねば、聞けぬ話だな」
 信長の言葉は正論だった。
 長福寿寺。
 もとは三途台の北北東のところにあったのだが、古い氏族である平姓長南氏が現在地に移し、同家の菩提寺にした。これは、三途台が後に築いた長南城の鬼門に当たるためである。
「長南という氏族が多いのは、そういうことなのか」
 長福寿寺に参拝した信長は、住持から土地のことを広く聞いた。もう、ここは信長の国だった。自分の国である以上は、古くのことを知り、そのうえで、新しいことを始めなければならない。
「殊勝なことです」
 長福寿寺の住持が手を合わせた。
 風が心地よい。この庁南に、拠点を得たことは
「なかなか、よい勘どころだと、我ながら思う」
 信長は目を細めた。
「いえいえ、それだけではありますまい」
 傍らに控えている金田孫八郎常信が、ぼそりと呟いた。そうだったなと、信長が笑った。
「頃合いかな」
 信長にも勝てぬものがある。
 時間だ。
 これにはどう足掻いても、勝ち目はない。
(いや、抗うのではない)
 これを受け入れて、最適な決断を導いていくことが求められた。そうとなれば、自ずと答えはあるようなものだ。ただちに信高を呼び、二人でじっくりと話し合った。豪勇ではないが、信高は戦さのなかで生まれ育った稀なる子である。信長の意図することも理解し、無謀には反論も出来る。
「父上の云いつけならば、断れませんねえ」
 いつか来るべき事だと、信高は頷いた。

 寛正三年(1462)師走。
 成氏にとって親衛隊のような信頼する存在だった結城成朝との関係が壊れた。そして幕府に内通しはじめたのだ。結城成朝は二年ほど前から幕府方と通じていた。武田信長がいたころはこんなことはなかった。
「右馬助殿の抜けた穴は大きい」
 この呟きが、結城成朝の口癖だった。
 誰もが同じ思いだった。それでも歯を食いしばってきた。結城成朝は少しだけ、気が弱かったのだろう。気弱な言葉が過ぎて、成氏と口論になった。ささいなことだが、これが幕府に通じるきっかけだった。次第に成氏と心が離れ、疎遠となり、遂に決裂をしたのである。
 こういうことになった要因は、探せばきりがない。
 それでも、どこかで心だけは通じてくれると信じていた成氏の失意は大きかった。
「どうして、こんなことになったのかな」
 心を許す三人、結城成朝、里見義実、武田信長。うち二人は安房・上総へと遠くに行き、手元にあって頼りとしてきた結城成朝が、こんなことになってしまった。
 まさか幕府と通じようとは。
(いや、そうではあるまい。驚いてみせるのも白々しく思う)
 成氏は知っていたのだ。
 こうなる前に、なんとか出来た筈なのだ。それを、しなかった。直接質し、和解に努めることが出来なかった。早くから説得すればよかったのだと、後悔だけが残された。
 大事なことを先送りにしたため、取り返しのつかぬことになってしまった。
 ようは、そういうことである
「こんなときに八郎がいたらなあ」
 頼れる筈の武田信長はこのとき上総庁南にあって、このような事態など、きっと夢にも思っていない。
 成氏は決断した。
 結城成朝の腹心である多賀谷朝経を招くと
「楽にしてやれ」
「は?」
「そのことで救われるのは、右京亮(上杉憲忠)にとどめを刺したそなたであろう。結城家のなかにいて、あれが幕府に通じれば、必ず上杉とも手を結ぶ。そのとき、親の仇だとそなたを差し出せばなんとする」
「そんなこと」
「あるわけないか。そうだな、だけど思いもよらぬことは起きるものだ。儂は幼きの頃より結城家にだけは感謝を忘れまいと心掛けていたのだ。そんなこと、まさかという心地である」
 多賀谷朝経には返す言葉もなかった。
 結城成朝が幕府と内通することで、上杉側から憲忠の仇討ちを申し出されるたとしたら
(殿は、儂を守ってくれるだろうか)
 主君である古河公方家を裏切るくらいなのだ。多賀谷朝経を上杉に引き渡し、存分にと嘯くくらいのことは平気でやるに違いない。
(だれだって、わが身はかわいい)
 成氏のいうことは理解できる。
 だからこそ、主に捨てられる前に、他ならぬ己の手で引導を渡す必要がある。
「公方様の仰せに従います」
 多賀谷朝経は泣いて一味した。
 どこまでも、多賀谷朝経と古河公方は一蓮托生だ。となれば、主に害なす者を許してはならぬ。この日、多賀谷朝経は成朝を討った。暗殺だ。
「ほんとうに辛いものだな」
 斬らせた成氏こそ、心が痛んだ。
 信じられるものを失った空虚に泣いた。このこと、武田信長も里見義実も知らない。

 信長が隠居を宣言したのは、寛正四年(1463)のことである。このことに古河公方・足利成氏は咎めることはなかった。長年の功績に、むしろ感謝しかない。
「ずっと上総に籠ってないで、たまには古河へ顔を出すこと」
 そういって成氏は慰労の言葉を文書で送った。
 信長の跡を継いだ信高は、子・八郎五郎を元服させ、これを真理谷城に置いた。
「真理谷は庁南の防備の要である」
 信高は、あくまでも庁南城の下位にあることを強調した。そのうえで
「真理谷は上総の西から下総が睨める。庁南は上総の東、そして安房」
 信高の言葉に、八郎五郎は首を傾げて
「安房の里見とは盟約が」
「それは、御隠居様が存命のうちだ」
 どういうことかと問う八郎五郎に、信高は低く呟いた。信長は甲斐源氏の優れたものを持ち過ぎた。その子孫は、どう足掻いても、見劣りする。
「室町将軍から官位で調略されるようなこと、坂東の武者でも滅多にない。どんなに逆立ちしても、儂は父上には勝てぬ。そういう立派な御方の跡目ほど難しい御家はないのだ。今ほど父上が恨めしいと思ったことはない」
 信高の苦悩は戦さで育ったゆえのもの、若い八郎五郎には理解できなかった。信高自らは庁南城へ入り、信長は孫の後見として真理谷城に留まることとなった。

 武田信長が上総に留まる。
 このことは、古河公方の戦力に些かの変化をもたらした。敵にしてみれば、あんなに強い武将と戦わずに済むという安堵に結び付き、味方にしてみれば、その分の責務が重くなる。この重さが辛いと感じる者もいた。武田信長の穴を埋めることは、生半可なことではない。
「敵の弱きをみて侮ることなかれ」
 そう断じる上杉方の武将は、扇谷家宰・太田資長くらいだ。あとは古河公方家の弱体を喜び、反撃の機を伺っていた。足利成氏勢力と上杉勢の最前線となった場所が、五十子陣である。陣とは、砦や城とはやや意味合いが異なる。地の利が有益で攻め易く守り堅し、交通の要所であることが求められる。つまり野戦の前提であり、野営の場合が多いが寺院を本陣とする場合もある。
 この五十子は武蔵国児玉郡五十子、現在の埼玉県本庄市大字東五十子及び大字西五十子の一部の地域を指す。五十子陣の中心地は、今日の女堀川と小山川に挟まれた国道17号線沿いの一帯。飲食店や宿泊所のあるあたりといわれる。痕跡は僅かに残る土地の高低差や掘割で構造物の類はない。この五十子陣の睨み合いは大小のことを含めて、一八年に渡り最前線であり中心地だった。
 この年、山内上杉房顕の右腕とされ〈東国不双の案者〉と謳われた家宰・長尾景仲が鎌倉で没した。この死に、上杉房顕は相当な落胆をした。
「もはや甲斐なし」
と、師走に関東管領職の辞意を幕府に表明した。このことは
「許されまじ」
と、足利義政により拒絶された。
 長尾景仲の死後は嫡男・左衛門尉景信が家宰職を継いだ。景信は山内上杉家を補佐しながら足利成氏と戦い続けた。

 結城の一件で古河公方が、そして長尾の急逝で関東管領が、それぞれ大事な人材を失った。
 まるで共倒れを望むような態度で、幕府は時おり軍勢を送り、和解を誘い、無秩序で無節操な介入を挟み込んできた。そのたびに関東の情勢は大きく揺らいだ。
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