信長伝

夢酔藤山

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第一四話 享徳大乱2

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               二
 

 庁南に武田信長はいなかった。上総国造細郷に赴き、次の拠点確保を始めているという。乱波はここの陣所で武田信長と会えた。
「そうか、白浜を奪ってからは、どうにも上手くいかぬか」
 里見義実の状況は、現地の都合に巻き込まれているだけのようだ。わざわざ援軍を望むなど、余程のことであろう。もとより里見義実の求めならば、是非もない。
「思いつくことがある」
 信長は笑った。
「これから当方が攻め入るのは、作海郷である。ここから安房は近いからな、安西の拠点である勝山城もすぐである」
 これを落としたら勝山へ上陸することを、里見義実に伝えることを信長は指図した。
「このことは全軍に触れよ。安西太郎とやらがどう動くか。それ次第だな。それから、丸の残党がいるのなら、ちゃんと庇護し匿うこと。これらの支援があり、安西討伐の大義名分の有無で、里見勢の立場も大きく変わるであろう」
「右馬助様の智謀、恐れ入りまする」
「行け」
「早速に」
 乱波は大きく頷き、安房へと引き返した。
 さて、件の作海郷平定である。城があるという話だ。これを落とさねばならない。
「そのこと」
と、金田孫八郎常信が進み出た。
「小糸川流域を抑えた今ならば、古戸の湊に漁師も多いで。この者らを用いれば、舟は足りる」
「兵は多く乗れぬな」
「乗れなきゃ、岬の向こうに下ろせば海沿いに陸路もありましょう」
 地図を描かせた。富津岬の向こう側は、上総湊まで陸も断崖はない。そこにある湊川で兵を下ろせば陸路もすぐだ。やれぬことはないだろう。
「でかした」
 信長はその策をさらに煮詰めて、舟は十隻欲しい、大きくて困ることはないと断じた。金田孫八郎常信は立ち上がり、調達に赴いた。上総湊へ向かう陸路の総大将に、信高の子で嫡孫にあたる八郎氏信を任じた。
「私は若輩ゆえ」
 氏信は当惑した。
「お前の父は生まれたときから戦場にある」
 安んじて将となるべしと、信長は笑った。
「爺様は舟で?」
「おう、のんびりしてると、手柄はみんな貰っちまうからな」
「負けてはいられませぬな」
 さっそく戦さ評定がされた。近臣の合戦巧者を選り、これを武田八郎氏信に付かせた。信長は氏信たちを舟から降ろしたのちに、海から遠弓で注意を引くと断じた。よって主力は氏信であり、信長は寡兵でいい。
 作海の城は海に面した丘状の山にある。上杉勢力は在地主体で多くの兵を置いていない。城とは勇ましいが、このとき砦に毛の生えた程度の機能しかなかった。湊こそが主要なものであり、駐在のような役割だ。
「上杉方はおろかだ。この湊が大事ならば、もっと真剣に城を構えるべきである。房総のどこかしこも、戦さについては温い。攻められることを誰も警戒していない。おかげで儂は楽に戦さを楽しめる」
 諸将は信長の言葉を笑った。
 信長にかかれば、負け戦さなど考えられない。その安堵感、さらには厳しい目があることの緊張感は、軍勢として理想的なものだった。
 出航は翌早朝、帆船一隻と漁船が一二隻。十分な数である。天候は花曇りであるが、海は穏やかな凪だ。順風満帆、やがて富津の岬を超えると、風が幾方向から交差するように吹いた。波も次第に高くなった。
 湊川の河口に舟は寄せられ、陸路の兵が続々と降り立った。
「爺様、抜かりなく」
「応」
 氏信勢が作海の城を奇襲したのは、それから間もなくのことだ。海から遠弓を放たれ注意を削がれている間に、たちまち城は包囲された。陸路に備えた天然の濠である白狐川は用を為さなかった。そういう作為をしていないのだから、ただの川も同然。
「敵襲だ!」
 作海城の物見が城内に触れた。
 上杉から派遣された兵は五〇。残りは在地の者ばかりで、戦意はない。騎馬による奇襲は電撃的だ。矢が雨のように降り注ぎ、城内の随所で悲鳴が上がった。火矢も放たれ、一層混乱した。その間に徒歩で白狐川を渡った小隊が、北側の丘陵より攻め登ってきた。
「あの馬印は、武田右馬助である!」
 武田信長の名を聞いて恐れぬ者はない。作海の在地兵は、戦わずして逃亡した。上杉の駐留兵は逃げることもできず、応戦したが戦意に勝る寄せ手の敵ではない。皆殺しにし、総大将の武田氏信は労せずして城を手に入れた。
 旗が上がり、占拠を認めた信長は舟を湊に入れた。上杉方の舟が係留されている。いい舟だ。戦さに都合がいい。
「せっかくだ、貰ってやろう。漁師に飽きた者がいたら、この舟を任せてやるぞ」
 信長が誘うと、漁師たちはこぞって手を挙げ軍舟に飛び乗った。
「どうじゃな、総大将殿」
 信長は櫓の氏信へ声をかけた。
「最高ですなあ」
「それは結構」
「爺様のいいつけは守ってこそと、身に染みてござります」
「世辞も上手なもんずら」
 やりとりに皆が大笑いした。
 この城と湊の重要性は理解できる。しかし、上総はまだ完全に掌握できていない。戦力を分散することは得策ではないことを信長は知っている。目先で足元を見誤れば、瓦解は止められないだろう。
「落ち着いてからこの城に手を加えればいい。いまは、土地の者さえ懐柔すればいい」
 信長の決断だ。
「欲がないですなあ」
 氏信の付家臣・井上丹波が呟いた。欲が戦さの目を曇らせる、信長は厳しく諭した。
 在地の漁民や百姓は、武田勢の呼びかけに応じ恭順した。このなかには城務めに徴用された者もいるだろう。そのことを一切咎めない信長に、誰もが手を合わせ喜んだ。
「おまえたち。これより武田の軍勢が、逃散した上杉勢を追って安房に攻め入るぞと、触れて回るがいい。出来るかな?」
 民衆は正直だ。この噂を先にばらまくことを同意した。
 ここで信長は三日間常駐した。接収した舟を操練を慣らすこともあるが、乱波が里見義実のもとへ戻り、丸の残党を庇護し匿う刻が必要になる。この連中が安西への恨みを口にしたときが、大義名分の機となる。その時間は十分に与えてやる必要があった。
「武田の軍勢が逃散した上杉勢を追って安房に攻め入るぞ」
 この流言飛語の浸透にも時間が要る。
 これが浸透するほど、見えぬ相手に上杉に加担した者は怯えていく。あわよくば自滅か、撤退か。労せずに成果を為すことこそ大事だ。三日もあれば、金谷あたりまで進出することも出来た。
 湾上の地形と、安房とを隔てる天嶮の鋸山。
「ここにも城の条件が整っておりますな、爺様」
「三郎は賢いなあ」
 その築城の勘所は、信長も驚きだ。そも信長はこのことを教えたことがない。なら信高かとも思うが、成氏に従軍し野戦の多いなかで子供に教授する生きた教材はなかった。上総にきて、氏信は天賦の才を引き出しているのかも知れない。
 甲斐に行くため急いたところもあるが、若い奴らはこの上総にきて、思う以上に順応しているのだ。それはそれで、先が楽しいものである。
 里見義実の乱波が忍んできたのは二日目の深夜。すでに丸も、神余の残党も内々に匿い取り込んでいるという。里見義実は存外と人たらしだ。信長は面白くなったと、笑った。
「で、そ奴らは安西を恨んでおっただろう?」
「はい、殿に仇討を望みました」
「で、刑部はどうした」
「仇討は許さぬ。ただし儂とともに本懐を研げよ、と」
「出来た!」
 大きく手を打って、信長は笑った。
「明日、陽が高く昇ったら、我らは舟にて勝山城へ行く。そのこと、刑部の口から安西太郎に伝えるよう」
「御意」
 信長の頭で描いた獅子身中の虫を駆除する策の、総仕上げだった。
 翌朝、舟で勝山城へ乗り込むことを信長は宣言した。やるべきことを終えたら、舟で造細郷へ戻り、庁南へと帰る。作海にはこれきりとなる。
「丹波、お前がここに常駐し上杉に備えるべし」
「は」
 井上丹波は城を預かった。手勢も少数だ。
「戦さになったら、逃げていい。舟で造細郷に戻ってくること。戦っても益がない」
「逃げるのですね」
「そうだ」
 勿体ないという氏信に、信長は諭した。
「無理して傷つくくらいなら、出直して奪い返す方が余程いい。兵が損なわれることは、土地を損なわれることよりも痛手である。三郎はそのことをよく覚えておくのじゃ」
「はい」
「きちんと年寄の云うことを聞ける器であること。将器はそういうところで違いが生まれるもの」
 よくわからないと呟く氏信を、信長は笑いながら頷いた。

 信長は接収した舟で勝山城へ向かった。軍勢は精鋭のみで、多くは氏信を総大将として先に引き上げることとなった。
 その頃、平松城では
「武田八郎殿が来られるのなら、迎えに参らないと!」
 里見義実からそのことを聞いた安西景春は、急いで酒食の支度させるよう、配下に指図し先行させた。そのうえで、安房府中まで出て平久里川沿いに富山の裾野を抜け勝山に出ると告げた。
「呑気に朝飯など食っている暇はない、さあ、刑部殿。参ろう」
「勝山に来るというだけだ。儂は安房の平定を急ぐ」
「そんなこと申されるな。さあ、さあ、さあ」
 安西太郎景春は里見義実を引き摺るように、勝山へと軍勢を仕立て急いだ。信長に取り入ることだけが、安西景春にとっての重大事だった。そのために里見義実が傍らにいるいないでは、信頼されるか否かにも影響する。あらゆることが自分の都合に一致したら、そのときこそ里見義実は用済みである。
(などという考えは、だだ洩れじゃ)
 気づかぬふりをすることが、むしろ不自然だ。しかし里見義実は知らぬ芝居を続けた。安西景春はすっかり気持ちが大きくなっていた。
 昼過ぎ、安西景春たちは勝山城に到着した。城はやけに静かだが、高揚している安西景春は気が付いていない。のんびりと八幡山を登る、そのときだ。
「遅い!」
 一喝する怒号が響いた。
 声の主は信長だ。城の兵や安西の眷属は、その後ろで神妙に控えていた。
 「これが関東公方様であれば、遅参は重罪である。その方は公方様の下郎であることを軽んじているのではないか」
 安西景春は戦慄し、少し小便を滲ませた。これが、武田信長。噂に聞くよりなんと恐ろしい威風であろうか。下手な口答えなどしたら、たちまち首を捩じ切られそうな恐怖である。
「おう、刑部殿。安房は温くていいのう」
「八郎殿も上総を平らげる手の早さはさすがにて」
 鬼のような武田信長と、平然と接する里見義実は何という胆力なのだ。この者を侮っていた己は、大事なことを見誤っていたのだろうか。
 里見義実を軽んじていたことが露呈すれば、信長に殺される。
 安西景春は恐ろしさで震えが止まらなかった。
「この者、筆まめな当主でな。勝山にきてから、城内の書状控えを沢山読んだよ。こやつな、刑部殿を亡き者にしようと図っていたようじゃ」
「ほう、そこまで具体的なことを図っておったとは」
 そのような書状は書いたことない。それは誤解だ、安西景春は必至で弁明した。
「そうか、誤解か。そういわれたら、乱波も泣くよなあ」
 あっと、思い出した。
 たしかにそのことを、勝山城の子等には一筆を送っていた。そのことか。信長の後ろに控える子供たちを睨むと、彼らは顔を背けた。安西景春の強引なやり方に不服な家臣は多い。こういうときに、彼らは寝返る。
「東条攻めの援軍はちょっと難しい。しかし、その分、安西太郎が死ぬ気で励むであろう」
 どうかと、信長は質した。
 拒むことは出来ない。
「儂の目となるよう、乱波を刑部殿の近くに付けよう。困ったときは知恵を出せる」
「かたじけない」
 勝山城に主席の支度が整った。信長はどっかと酒食を堪能し、家来も相伴した。里見義実は信長との歓談に興じ、大笑いだ。その接待を安西景春の四人の倅が務めた。
「城主がそんなところにいたら駄目だなあ。ほれ、座を楽しませよ」
 信長の催促は、針の筵である。
 結局、安西景春は勝山まで恐怖を刻みに足を運んだだけだった。里見義実の近くには、姿の見えぬ乱波の目が光る。もしも里見義実への無礼があれば、即座に信長の知るところとなる。そうなれば、どうなってしまうか。
(草も木も、ひとつも残さず焼き尽くされてしまう) 
 大それた野望を捨てぬ限り、今を生きることも苦しい。
 信長は灸をすえた。本当の生殺与奪の判断は、里見義実次第である。

 一夜明け、信長の軍勢は舟に乗った。
「大義名分は、もう」
「あとは、存分に」
 信長と里見義実のやりとりは、己の命のこと。このことを知ったら、安西景春はきっと恐怖のあまりお陀仏になるのだろうな。信長のほくそ笑いは見事なまでに意地が悪かった。

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