閻魔の庁

夢酔藤山

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桓武帖

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               一


 延暦二五年(806)正月、桓武天皇は病床のなかにいた。
 床のなかにいて、彼の気は決して休まることはない。なぜなら昼に夜に、目を閉じても開いても、常に弟宮・早良親王の姿が纏りついて離れないのだ。
 彼を無罪と知りながら死罪に貶めたのは、貧民の母親を持つ桓武天皇の野心そのものといって良い。
(帝になりたい)
 すべてはそれだけのために、腹違いの弟宮を殺したのである。僧侶が何かと政治に口を挟む平城京を捨てて、遷都を断行したのは、決して政治的英断に踏み切ったわけではない。
(弟宮殺しの苦い記憶)
 ただその罪と畏れから逃避するためだった。
 結果的に、桓武天皇は早良親王に祟られた。罪なき死人は己を貶めた相手を許しはしない。その激しい祟りは、遷都したばかりの長岡京を怨霊の巣窟と化した。
 その長岡京を捨てて、はや一二年。
 こうして平安京へ逃れてもなお、早良親王の怨霊は、一向に鎮まろうとはせず、恨めし気に桓武天皇を昼に夜につきまとい見つめる。奉るための〈祟道天皇〉という賜号も、早良親王を慰める気休めにすらならなかった。
 その怨念に導かれてか、今年に入ってからは、井上内親王の怨霊までも、まるで惹かれるように、桓武天皇の枕元に立った。井上内親王は東大寺大仏建立の偉業を残す聖武天皇を父親に持っている。そして夫は桓武の父帝・光仁天皇。つまり桓武天皇にとっては血の繋がらない母の一人ということになる。そして、血統的にいえば、聖武系の井上内親王は正式な皇后ということになり、当然その腹を痛めて生まれた他戸親王が次帝になる。
 このときも桓武帝(当時の山部親王)は罪を犯した。
 異母弟が立太子となったことに、桓武は悔しさを隠せなかった。その心を見透かしたのが、時の式部卿・藤原百川である。権力を望む百川にとって、このことは渡りに船だった。
 桓武が帝になれば、恩を売って栄達を得る。
 そのためなら、人は悪にもなれるのだ。桓武はその悪しき囁きに躊躇いもなく耳を貸した。他戸親王が即位する道を閉ざせば、必ず帝位の座に就く機会が巡ってくる。
「内親王には呪殺に加担した疑いこれあり」
 藤原百川の叫んだ讒訴は、人心を大きく揺さぶった。
「ちがう、ちがう」
 何かの間違いだと、他戸親王が叫んだ。井上内親王も叫んだ。しかし古今東西、人の世は正しい言葉よりも、邪な言葉が常にまさる。言葉は、みるみると無責任な拡散を呼ぶ。
 罪の正否など、人は望んでいない。
 ただただ成功を約束された者が、地に転がる様こそを密の味とするのが、人の残虐性なのだ。
 これにより他戸親王は幽閉された。無実の罪ほど、晴らす術はない。事実でないことを証明することの、なんと難しい事か。この失意を称えたまま、他戸親王は二年後に他界した。井上内親王も世を儚んで死んだ。
 その後は申すまでもない。
 井上内親王は凄まじき怨霊と化した。藤原百川は桓武擁立による即位を仕立てた矢先に、まるで嘘のように苦悶して死んだ。これこそ井上内親王の祟りだと、口さがない者たちの評判になった。
 すっかり成仏したと思われたのに
(こうして枕元に……)
 桓武天皇の心は恐怖で張り裂けそうであった。
 不気味なことがある。この早良親王や井上内親王の姿は、桓武天皇にしか見えない。どんなに近侍の者に恐ろしき想いを訴えようとも、彼らには怨霊の姿を視ることが出来ない。
「主上、お気を強く持たれよ!」
 簀の子越しに掛けられる公卿等の声も、魘される桓武天皇の耳には届かない。
 この病床のなか、桓武天皇は、日に日に衰弱していくのであった。
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