孝謙異聞

夢酔藤山

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「謀叛の噂がこれあるが、国法に叛くことは相成らぬ」
 この手の噂は藤原仲麻呂が意図的に広めたものだ。孝謙天皇はそれを信じた。信じたから、このような宣命を下したのである。
 その夜。
 中衛府舎人・上道菱太都なる者が、藤原仲麻呂のもとへと推参した。政治のありようや、帝と、それを擁する輩に対する不満を抱く者たちが結集し、現体制を打倒するべく蜂起する用意をしているとの密告だった。
 この密告により名の挙げられた首謀者は五人。
 翌日、孝謙天皇はわざわざ密告の名を連ねる塩焼王・安宿王・黄文王・橘奈良麻呂・大伴古麻呂の5人を招き寄せながら
「お前たちが謀叛をという密告があった。しかし、信じたくない。朕は信じない」
 そう労ったにも関わらず、翌日には更なる密告が重なった。しかも秘かに行われた拷問により、謀叛の未遂という事実が創り上げられたのである。
 後世、これを端的に〈橘奈良麻呂の変〉と歴史に名を記しているが、真相は闇の中である。
 果たして孝謙天皇を廃して誰かが即位し、藤原氏を排斥して取って代わる意図が本当に存在したのか否か。勝者だけが歴史の語り部になるのは古今東西みな同じである。
 この年八月、年号は天平宝宇と改元される。
 この改元はふたつの事を意味していた。
 まず皇太子・大炊王の早期即位を孝謙天皇に迫るためのものであり、これにより藤原仲麻呂個人の傀儡天皇を創造すること。もうひとつは、老いた叔母太皇太后の利用価値の終焉である。光明子にはその正体がまだ見えていないようだが、孝謙天皇には鳥肌が立つほどに理解できた。
 どうせ未練ある帝位でなし。
(いっそ盲目な母后に代わって引導を渡すのもよい潮時だろうて)
 かくして天平宝宇二歳(七五八)八月一日、孝謙天皇は皇太子・大炊王に譲位した。藤原仲麻呂の描いたとおりに乗せられた風を演じつつ、心はサバサバとしていた。
 哀れなるは太皇太后・光明子である。目論見に乗りながら、自覚もなく、既に仲麻呂の心が離れていることすら気づいていない。
 哀れなり……言葉にするだけ詮なき想いを、孝謙天皇は噛み締めていた。
 これまで父帝を忌み哀れみ蔑んできた孝謙天皇にとっての政治的拠りどころは、母后であった。この譲位はその足枷を外すきっかけのひとつになったようである。
 少なくとも、これを機に、孝謙天皇は
「自ら考える」
ということを知った。
 任せることが当然の世界から、解脱したといってよい。

 このとき、孝謙天皇四一歳。
 大炊王改め淳仁天皇二六歳。
 太皇太后・光明子五八歳。
 そして藤原仲麻呂三六歳。

 そして譲位を果たした孝謙天皇は、太上天皇として今上の上に立ちながらも、傀儡師たる藤原仲麻呂の掌で逃れる術もない。なによりも藤原光明子が盲目な信頼を傾けているのが始末に悪い。
「唐風こそこれよりは大事」
 そんな気取ったことを口走り、光明子を介して孝謙天皇から
「恵美押勝」
なる名前を押し頂いた。自画自賛を悟られぬ仕草も、今となっては誰の目にも明らかであった。
 すっかり嫌気の増した孝謙天皇が
「病療養」
を口実に、平城の都から少しでも彼方に逃げたいと思ったとしても、それは断じて不謹慎なことではないだろう。
 もう、都には新しい帝がいる。
 孝謙天皇など、公式行事の看板くらいの役割しかないのだから。
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