孝謙異聞

夢酔藤山

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 湯浴みを終えて女官たちに身支度されながら、孝謙天皇は遠くの山々を観た。
 甲斐国の話は駒や牧などで知られるが、およそこのような深山にその片鱗は覗えない。見渡す限りの、深き峯。雲のなかに隠れる頂は、天にでも届いているに違いない。果たして霊峰と謡われた富士でさえ、この深山幽谷の狭間からは、その御姿を垣間見ることもない。
「まことに、ここが甲斐国かのう」
 女官は目を丸くしながら首を傾げて
「さようにございます」
「富士も望めぬとあれば、ここは奈良でも変わらぬものなり」
「なんと。奈良には有難き湧湯などござりませぬ」
「でも、これでは奈良と、その田を見ているようであるぞ」
 女官の一人は、その例えを
「それも一興」
と笑った。
 まるではぐらかされたようだ。
 すっかり興醒めの心地となった孝謙天皇は、浴衣を召し直すと、火照りも醒めやらぬ間にと、行宮へ落ち着くこととした。
 修験の行者と申す者たちが、行幸のことも知らずに村に落ち着いていることをあとから知った警護の文官たちは、このことを憂慮し、村の長を呼びつけては
「彼の地に帝がおわすと知れれば何といたすか。難癖を申して早急に追い立てるのや」
と急かした。
 この村は、霊泉で成り立つ村である。
 旅人は貴賤を問わずに、ここに微かな安らぎを得て、再び天地をめざしていく。いかに帝の行幸とはいえ、そればかりは聞くことが出来ぬと、小さないざこざが生じた。火照りの冷めぬまま御簾越しに村の景色を望めば、往来する旅人の姿は、その多くが修験者である。噂には耳にした役小角とか申す行者も、きっと、あのような姿で、諸国を巡っていたのかも知れない。
「旅の者よ、名は何と申す」
 つい座興で、御簾越しに孝謙天皇は修験の者に御声をかけた。年は若くないが、僧籍に入って浅そうな修験者だ。
向こうからは見えないようで、果たしてこれは天からの声であるかと、上擦りながら
「し……しがなき沙弥にて連の子」
と天に叫んだ。
 その仕草がおかしかったのか、孝謙天皇は大笑いした。
 それが天狗の高笑いに聞こえたものか、沙弥は大声で
「御師、良弁師匠」
と叫びながら走り去っていった。
(良弁……はて、覚えのあるような、ないような)
 金鐘行者良弁。
 盧舎那佛建立の折、この良弁は、造東大寺司次官佐伯今毛人や行基等とともに、聖武天皇を助けたとされる。大仏開眼ののち五月一日に初代東大寺別当に任ぜられた。そして鑑真一行が東大寺に詣でたとき、これを迎える役を負っている。
(まさかな……まさかその良弁が、こんなところに)
 そのまさかが、実は生じていたのである。
 藤原仲麻呂の中継ぎ役として、彼は弟子の修行に丁度良いと、遙々と甲斐路を辿ってきたのだ。無論、帝に会うことなく文官とのつなぎをするだけという、隠密さながらな役割ではあったが。機運にも、このとき女帝が戯れし沙弥、後年、その名を〈道鏡〉と改めることなど、当人たちの知り及ぶところではない。
 とにもかくにも、行者の逗留を巡るこの騒ぎ、かすかに女帝へと響かぬ筈などない。
 女官から事実を伝え聞いた孝謙天皇は
「民には霊泉こそ御仏。それを取り上げては、朕は父帝と同じになりそうで、ますます気鬱になりそう」
 そういって騒ぎを収束させた。
 しかし行幸のことだけは、断じて箝口令が敷かれていたのは云うまでもない。
「しかし、ほんにのう」
 幾度となく、ここは奈良と見間違うと孝謙天皇は繰り返しながら、やがて視線は、遠く近くの薄暮に霞む峰々へ、そして心は、再び父帝の遺した呪縛の記憶のなかへと、静かに泳いでいった。
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