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阿部内親王から孝謙天皇へと即位して間もなく、天下国家の大事があった。
天平感宝三年(七五二)四月九日、東大寺大仏殿において、盧舎那大佛の開眼供養が催されたのである。この大仏を建立することは、孝謙天皇の父帝・聖武天皇の悲願だった。これが未曾有の国家事業であったことくらいは、即位するその以前の孝謙天皇さえ、よく判っていたことである。
しかし。
その建立にまつわる真相を、母后・光明子から耳打ちされたとき、孝謙天皇は驚きよろめきつつも、父帝の心の弱さを、激しく軽蔑したものであった。
(三十路も過ぎていながら、あの頃は世の裏表さえも知らなかった。あのときは、それも仕方なかった)
湯煙の彼方に浮かぶ父帝の幻が、いまに思えば哀れである。
善人に過ぎた聖武上皇は、藤原系生粋の皇子としての期待と、板挟みの血、その重責にはおよそ耐えられなかったのだろう。
「帝は万民のためと偽り、一己のみの救いを盧舎那佛に託した、卑怯者です」
奥州より大量の金を徴収し、貧苦に喘ぐ民を酷使し、辛苦の労働へと強いながら、その神々しき霊波ですべての苦悶を洗うという美辞麗句を、孝謙天皇は恥ずかしながら疑いもなく信じていた。
「民さえも、苦しみながら、信じていたのに……」
度重なる国分寺や国分尼寺の建立に駆り出されたのも、その国に暮らす名もなき貧しき民である。重い租税にも耐えて労働までも惜しみなく注ぎ、その支えとなった高僧・行基さえも謀りつづけて、聖武は盧舎那佛を望んだのである。
「信仰は、信じているからこそのもの。帝とはいえ、欲得のためにあらず」
ゆえに真実を黙していた父を軽蔑した。
それは小娘の如き浅慮ではあった。
父帝は心の奥の闇で身悶えし、その声なき声が発してきた〈良心の呵責〉の真意も知らず、ただただ、その頃の孝謙天皇は、父帝を冷ややかに見つめていたのである。
開眼供養よりほどなく、唐の高僧で知られる鑑真和上が、遣唐使・大伴古麻呂に誘われて来日した。来日を心より楽しみにしつつも、五度も渡海を挫かれ失明さえしつつも、六度目の試みでようやく倭の土を踏んだ鑑真和上の尊さに、孝謙天皇は涙を禁じえなかったものだ。その鑑真自らが、東大寺に戒壇を設けて、聖武・孝謙両帝に受戒を授けたのは、その来日より二年後のことである。
勅により出迎えた安宿王は、あの長屋王の子である。栄えある任にそのような曰く人を宛がうあたりも
(子に報いてなお許しを求む)
という聖武天皇らしい人選であった。
鑑真和上の見えぬ瞳には、異国の言葉は介さずとも、哀れなる人心の機微は、きっと手に取るようなものに違いない。冤罪に権力闘争の是非を重ねる業と悲しみ、そういう風潮を生み出す国家形態、それが失明を賭して踏みしめた、倭の国という現実。
このとき鑑真はこう詠んだ。
山川異域 風月同天 寄諸仏子 共結来縁
天平感宝三年(七五二)四月九日、東大寺大仏殿において、盧舎那大佛の開眼供養が催されたのである。この大仏を建立することは、孝謙天皇の父帝・聖武天皇の悲願だった。これが未曾有の国家事業であったことくらいは、即位するその以前の孝謙天皇さえ、よく判っていたことである。
しかし。
その建立にまつわる真相を、母后・光明子から耳打ちされたとき、孝謙天皇は驚きよろめきつつも、父帝の心の弱さを、激しく軽蔑したものであった。
(三十路も過ぎていながら、あの頃は世の裏表さえも知らなかった。あのときは、それも仕方なかった)
湯煙の彼方に浮かぶ父帝の幻が、いまに思えば哀れである。
善人に過ぎた聖武上皇は、藤原系生粋の皇子としての期待と、板挟みの血、その重責にはおよそ耐えられなかったのだろう。
「帝は万民のためと偽り、一己のみの救いを盧舎那佛に託した、卑怯者です」
奥州より大量の金を徴収し、貧苦に喘ぐ民を酷使し、辛苦の労働へと強いながら、その神々しき霊波ですべての苦悶を洗うという美辞麗句を、孝謙天皇は恥ずかしながら疑いもなく信じていた。
「民さえも、苦しみながら、信じていたのに……」
度重なる国分寺や国分尼寺の建立に駆り出されたのも、その国に暮らす名もなき貧しき民である。重い租税にも耐えて労働までも惜しみなく注ぎ、その支えとなった高僧・行基さえも謀りつづけて、聖武は盧舎那佛を望んだのである。
「信仰は、信じているからこそのもの。帝とはいえ、欲得のためにあらず」
ゆえに真実を黙していた父を軽蔑した。
それは小娘の如き浅慮ではあった。
父帝は心の奥の闇で身悶えし、その声なき声が発してきた〈良心の呵責〉の真意も知らず、ただただ、その頃の孝謙天皇は、父帝を冷ややかに見つめていたのである。
開眼供養よりほどなく、唐の高僧で知られる鑑真和上が、遣唐使・大伴古麻呂に誘われて来日した。来日を心より楽しみにしつつも、五度も渡海を挫かれ失明さえしつつも、六度目の試みでようやく倭の土を踏んだ鑑真和上の尊さに、孝謙天皇は涙を禁じえなかったものだ。その鑑真自らが、東大寺に戒壇を設けて、聖武・孝謙両帝に受戒を授けたのは、その来日より二年後のことである。
勅により出迎えた安宿王は、あの長屋王の子である。栄えある任にそのような曰く人を宛がうあたりも
(子に報いてなお許しを求む)
という聖武天皇らしい人選であった。
鑑真和上の見えぬ瞳には、異国の言葉は介さずとも、哀れなる人心の機微は、きっと手に取るようなものに違いない。冤罪に権力闘争の是非を重ねる業と悲しみ、そういう風潮を生み出す国家形態、それが失明を賭して踏みしめた、倭の国という現実。
このとき鑑真はこう詠んだ。
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