生きてこそ-悲願の萩-

夢酔藤山

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生きてこそ-悲願の萩-

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 伊達政宗にとって、生まれるのがあと二〇年早かったら
「天下をこの手に」
 そう思うことは多々あったが、晩年に移ろうにつれ、その心持ちは、より強く、募るようになっていった。
 豊臣秀吉……徳川家康……老獪な強敵がこの世を去り、もはや伊達政宗に対峙しうる戦国武将はこの世にない。にも関わらず、武力で天下を奪い取ろうと立ち上がらないのは、それなりの理由からだった。
「何もかもが遅すぎたな」
 片腕とも頼る重臣・片倉小十郎は世にない。倅も有能だが、父親の万能な才智には遠く及ばぬ。
「小十郎が生きていたなら、きっと、まだ枯れることなどなかったわ。のう、石見(茂庭綱元)」
「滅相もございません、殿は、まだまだお若うござる」
「天下取りのことよ」
「それとて、まだまだ」
「耄碌したか、徳川は盤石よ」
 政宗は、決して卑下したわけではない。このことは、極めて現実的であり、事実なのだ。が、一方ではこのこと、諦めることをよしとするよう、己を窘める云い訳に過ぎない。秀吉による一統ののちに生誕した武将どもは、まことの乱世を知らぬ。乱世を知らぬ者を味方にしたところで、果たして、信など置けるものではない。世相の温さが浸透した以上は、生え抜きの兵(つわもの)以外の輩など、期待出来ない。
 彼らは幕府という箱枠に甘んじる者だ。
 価値観が違うのだから、これらを奮い立たせる事は面倒このうえない。武将が野心を持たぬことが、当然だという昨今、時代に取り残された感が否めない政宗であった。いまは野心を胸に秘めて、定められし箱枠のなかで、したたかに立ち振る舞うしかない。
 それでも、野心は己の胸に燻っていた。
(いつか、きっと)
 まことの野心家は辛抱強い。我慢比べは手慣れたものだ。家康が、いい見本である。そして、政宗もまた、そういう人生を重ねて忍んできた。
 しかし。
 天下を掠め取るには、大義名分が必要である。それが明確でなければ、明智光秀の二の舞となる。秀吉はそれを示すことで旧主を超え、家康は豊臣政権に取って代わった。政宗にそれが見出せるのなら、次の天下は掌中にある。
が。
 家康とは周到な男だ。
 己の死後も盤石な〈かたち〉を残し、揺るぎない武家社会の大義名分を不動のものとした。これを覆すための人生の余暇はない。政宗が野心を残しつつも、容易に腰を上げないのは、そういうことなのだ。そして家康は、政宗こそ最後の厄介という遺訓を残している。幕府は一挙一動、政宗の全てを監視していた。それを知るからこそ、政宗は恭順の姿勢を、強いて目立つほどに、見せつけるしかなかった。
「伊達者め、何を企ててか」
 そう囁かれるくらいが、いまの政宗の意地なのだ。
 幕府の都合にそぐわぬ者たちは、隙を見せれば、常に排斥されるのが今の世だ。たとえば、出羽最上家が改易されたのは、丁度二年も前のことだ。最上家は政宗の母・保春院の実家である。政宗との不仲で実家へ身を寄せていた保春院は、再三の説得で、ようやく伊達家の扶養とされたが、不仲は未だ続いていた。
外様だけではない。
 幕府の中核を担った本多正純が〈宇都宮釣天井事件〉で追い落とされたのも、この頃のことだ。
また、近ごろは幕府は新しい法度を下した。異風異装の禁令と呼ばれるものだが、派手好みの政宗に向けた牽制であることは明白だろう。
(次に狙われるのは、伊達家なり)
 御家の将来を考えて、政宗は自重を余儀なくされた。

 かつて八王子は小田原北条家の支配にあった。統括した北条陸奥守氏照は有能な人物で、土豪の逸材を見出す眼力を持っていた。由木豊前守もその一人だ。この武州の兵は、小田原征伐のとき、八王子で滅亡する。が、由木豊前守には優秀な子がいた。その才子は僧籍にあったおかげで世に留まる。名を海譽といい、真言宗の徳高き名僧だ。政宗はこの僧と長年に渡り親しくしている。
 小田原の陣は、海譽にとって、父を失った蹉跌の記憶がある。
 そして、伊達政宗もまた、母との不仲の始まりだった。秀吉に応じるか否かと割れた最中、政宗が毒を盛られた。盛ったのは、保春院だった。政宗を亡き者とし、その弟・小次郎政道を当主として秀吉に許しを得んと画策したのだ。一命を取り留めた政宗は、結果として、旗頭に祭り上げられた弟を始末しなければならなかった。伊達小次郎政道はこのとき兄自らの手で討たれた。その死に驚嘆した母とは、以来、完全に無縁となったのである。
お互い、小田原の陣にはよき思い出はない。このことが、政宗と海譽の共通点だった。
 信心深い政宗は、数多の宗派を信奉した。真言宗も、そのひとつだ。海譽とは高野山で会った。その人物に惚れ込んで以来、政宗はずっと文の遣り取りを重ねていた。海譽は武州横沢の金色山吉祥院大悲願寺一三世住持に就任している。真言宗豊山派の徳ある僧が、世の喧噪から離れた場に腰を落ち着けた理由などない。北条ゆかりの由木氏の末裔が、その旧領に身を置くことは、むしろ自然ではあるまいか。
 この無欲さも政宗好みだった。この人物なら、心を許せる。そう考えることもまた、自然といえよう。
「御坊になにとぞ、奥州の才ある人材を弟子に」
と政宗が申し入れたのは、まだ秀吉が存命中の頃である。その意を承るという返事は、すぐにあった。政宗はただちに人を集め、この才ある者を警護させ、海譽のもとへ送り届けた。才ある者は、このとき〈秀雄〉という名を頂き、以来、海譽のもとで修行した。秀雄は頭脳明晰で、常に師である海譽の傍に置かれたのである。

 仙台に迎えられた保春院は、庇護の身でありながら政宗との面会を拒み続けた。
「こんなことになろうとは」
 保春院の繰り言は、息子に対する恨み言であり、かつ、それに縋らねば生きる術もない己を恥じるものだ。しかし、無駄死には、嫌だった。
「生きてこそ」
 保春院の心は、老いても強い。母と子の、長年の確執は、歳月の隔たりほどで変えられるものではない。人の子の親である以上、息子の孝行を喜ばぬ筈などないが、それ以上に憎しみが勝ったのは、人の業というものだろう。
 保春院は思う。
 もし、政宗の毒殺を全うし、政道を当主に出来たなら、伊達家は秀吉の政権で生き延びることは出来なかった。家康と渡り合う狡猾さなどない。当然、いまの伊達家の栄華など、ありえない。
戦国乱世。血で血を洗う修羅の世を、堂々と押し渡る力が、果たして政道にあっただろうか。
(親をも捨てる意思があるからこそ)
 政宗が西国畿内の権力者と渡り合い、ここまで家を大きく出来たのだ。この器量を認めぬでもない。しかし、政道を自ら討ったという政宗を許せない。
 すべては、感情だ。
 醜い隻眼の長子よりも、夫に似た端正な容貌の次子へ肩入れするのは、何の不思議があろうか。かつては奥羽に〈鬼姫〉と恐れられた保春院は、一皮剥けば純粋に女でありすぎた。
母子がようやく面会に及んだのは、仙台入りから随分と経った頃のことだった。いつかは受け容れねばならぬ運命だと、観念したというのが正しい。
 年月を経た我が子は、想像以上の老け顔だった。
「やっとお会い出来ましたな」
 政宗の表情は柔らかい。戦国の世を渡りきった貫禄だろうか、秘めた感情さえ表に出さぬ。かつて己に毒を盛った母へ、正面から対峙するのだ、まともな神経では堪え難い。
(現に、わたしは)
 政道を殺した政宗に、穏やかならざる心境を隠せない。保春院は声を発することなく、ただ俯くことで、その場の例えようもない空気に堪えた。
 政宗は誰にも聞かれたくないような低い声で、はっきりと囁いた。
「小次郎は、生きておりますぞ」
「は?」
「生きてこそ、です」
 その意味を理解するまで、保春院は混乱した。三〇余年もむかしのことが、繰り返し脳裏に過ぎった。首実検にも立ち会った。間違いない、あの御級は、まぎれもなく政道のものだった。
「生きている筈がない」
 保春院は振り絞るように呻いた。
 長い沈黙が続いた。静寂のなか、政宗がぽつりと呟いた。
「小次郎は徳の高い御方に導かれ、僧として生きているのです」
「僧?」
 保春院は混乱した。
「何のために、一体、どういうことで僧になったのだ」
 その問いに、政宗は即答した。
「御家の分裂を防ぐには、あの場は小次郎に死んで貰うしかなかったのです。母上がそう信じねば、伊達家は纏まりませんでした」
「なぜ、生きていると、母だけには教えぬのか」
「最上家に身を寄せているのです、教え様がありますまい」
 無駄に三〇余年も過ごしたのかと、保春院は戸惑った。もっと早くに知っていたなら、怒りと憎しみを糧にすることもなかっただろうに、なんということか。子を憎む所業ほど犬畜生に劣ることはない。保春院はあらためて政宗をみつめた。老いたのではない、年輪を刻んだ兵の貌がそこにあった。これまで感じたことのない、夫の面影さえも政宗にみた。
 この大器を、わたしは殺そうとした。
 保春院は戸惑った。憎しみが大きいほど、後悔もまた大きい。その大きさに堪えきれず、保春院は両手をついて息を荒げた。
「ゆっくりと、こころ落ち着かれませ。仙台に居られる限りは、決して母上のこと、粗略にはいたしませぬ」
 政宗の言葉がやさしい程に、保春院は苦しんだ。口舌の刃で切り刻まれることより辛い言葉は、何よりの仕返しだとさえ、涙で霞む視界の奥にいる政宗が語りかけるようだった。無論、政宗にそのような気はない。すべては保春院自身の妄執だった。
 政道が生きていた。
 でも、何処に。その言葉を保春院はいえなかった。政宗もその無言の問いに応えなかった。それが唯一の仕返しなのだろうかと、保春院は幾度となく考えては、やはり、自ら問う気持にはなれず終いだった。

 元和九年(1623)六月。
 伊達政宗は、天下取りの野望を断念せざるを得ない節目を迎えていた。
徳川家光は京二条城で将軍宣下を受けている。彼が三代将軍となり、幕府の統制はこれまでの柔軟なものが一掃された。
「余は生まれながらの将軍である」
 そう豪語する小癪な将軍に対し、真っ先に言葉を切ったのも政宗だった。
「これは頼もしきかな。されば露払いは、この政宗が進んで負うものなり」
 家光は戦国の臭いを残す政宗を、ことの他、寵愛した。それは、古き時代の遺産を慈しむようなものだったのかも知れない。
 戦国以来の傑物も多くは世を去り、代替わりした大名家当主はろくに刀の使い方も知らぬ。このような輩を与党に加えても、政宗にとっては頼れる味方とは成り得ない。
 徳川幕府は盤石だ。
 かくして政宗は、天下取りの夢と決別したのである。

 政宗が江戸登城していた頃、桜田の伊達屋敷に急使が駆け込んだ。
「保春院様、御容態おもわしからず」
 年明けより病に冒されていた保春院は、もう長くはない。
 政宗は決断した。僅かな供連れで馬を駆った政宗は、武州横沢村の大悲願寺へと急いだ。
「海譽僧正はおられるか」
 政宗は仁王門へ馬を繋ぐと、大股で境内に踏み入れた。正面の観音堂欄間の彫刻は、地獄極楽の様を色鮮やかに表している。
(母上の御心は、地獄のなかにあるのだ)
せめて死すべきまでに、心のなかに極楽をみせたいと、政宗の胸中は掻き乱された。
「おや、殿様自ら」
 海誉僧正は驚いた。思い詰めた表情に何事かを察した海譽は、急いで政宗を本堂へ通し、人払いした。
「ただごとではございますまい」
「母上が、間もなく世を去る」
「それは、それは」
「孝行のしたことがない儂が出来る、たったひとつのことを、何卒僧正にお許し頂きたい」
「許すも、なにも」
「母上には安心して旅立って貰いたい」
 海譽は頷いた。出家の在家のということではない、母と子のことは、当世の一期である。
「秀雄、秀雄はどこか」
 その声に、程なく秀雄が参じた。
「殿様、御用ならば、直接秀雄に」
「僧正、かたじけない」
 政宗は秀雄に寄ると、耳元で囁いた。えっと、秀雄は目を見開いた。
「小次郎は生きている。母上にはそれだけは伝えておいた」
「小次郎は、もう」
「母にとっては、どんな姿であろうとも、小次郎は小次郎じゃ」
 秀雄は戸惑った。
「行ってこい」
 海譽の声が響いた。
「大師(空海)様も、高野にあって月に九度は麓の母御前に通ったという。孝養は、在家出家を問わず、なにびとも尽くさねばならぬのじゃ。その一度きりの期を逃してはなるまじ」
「は」
 政宗は大久保長安存命中から八王子の代官所と関係をつないでいた。別使はもう八王子に着いているだろう。明日の朝になれば、ここへ駕籠が来る。そういう手筈となっていた。
「桜田までは一緒に参る。儂は勝手に国許へ戻れぬのでな、家中には平癒のため高僧を差し向けると申し付けた。あとのことは、頼むぞ」
「兄上」
「儂はお前を助けるために出家させた。さぞや辛かっただろう。母上も辛かったのだ、せめて、安らかに見送って欲しい」
 政宗の本心だった。
 翌朝。政宗は秀雄を乗せた駕籠とともに大悲願寺を発した。庭の白萩を数本手折り、秀雄はそれを胸に抱いていった。桜田の伊達屋敷よりは片倉小十郎重綱の采配で船を用意し、海路で仙台へ向かった。僅か二日で仙台湾に達し、秀雄は保春院と対面した。
「兄の計らいで、かくなりました」
 秀雄の言葉に、保春院は号泣した。もしも政宗に毒を盛らず、兄弟が手を取り合っていたなら、このような業苦に苛むこともなかっただろう。
「浅はかを悔いるのみ」
「しかし、生きて巡り会えたのです」
「小次郎……!」
「生きてこそ、母上は、よく口になされた」
 そうだったか。保春院は、このときまで口癖のことに気づいていない。
「生きてこそ、だから、小次郎にも会えた」
「はい」
 保春院は最期に心を安んじたのである。
 七月一七日、秀雄に看取られながら保春院は息を引き取った。享年七六歳。床の間に飾られた白萩が、妙に眩しかった。野辺送りは伊達家の仕来りに譲り、秀雄は城外で合掌した。そして、再び海路で江戸へ戻り、政宗に謝辞を述べた。
「許せ」
 政宗は低く呻いた。
 それは誰に向けた言葉なのか、秀雄には見当も付かなかった。
 秀雄を送り届けたのち、政宗は再び大悲願寺を訪れた。海譽僧正は何も訊ねなかった。
「和尚からみれば武家の所業、いちいち御仏に楯突くことばかり。小癪な隻眼の爺めと、思召されることでしょう」
「なんの、生きていれば日々が修羅の諍い。それが御武家様の負った業にて、ただただ、それだけのことにござる」
 海譽僧正の邪気のない笑みに、言葉もない政宗であった。庭の白萩が眩しく映り、何かが政宗の心で音を立てて崩れていった。

 この日のことが政宗の心に深く染み入ったのは云うまでもない。後日、政宗は萩の株分けを大悲願寺に所望した。
「御存分に」
「かたじけない」
「保春院様の仏間にも」
 海譽僧正は快くそれに応じたのである。
 その後の政宗は、善政を第一とし、無骨の面を押し留めた。
 一三年後。寛永一三年(1636)五月。
「小次郎に会いたい」
 桜田の屋敷に秀雄が呼ばれた時、政宗は見栄え鮮やかな様相で、床を離れ大広間にて対面した。病など微塵も感じぬ、天晴れ伊達者だった。
「お身体は」
「もう、調子がいい」
「ならば、横沢の鮎を」
「ああ、行こうか」
 政宗は背筋を伸ばし、涼やかで、男の匂いが立つ姿を最後まで示し、笑みを絶やさなかった。
「今度、国許へ戻るときは、一緒にいこう。母上に経のひとつも差し上げて欲しい」
「必ず」
 これが、秀雄の目に焼き付いた、政宗の最後の姿だった。
 大悲願寺に戻って間もなく、政宗の訃報が届いた。
「きっと大殿は、衰えた姿を御舎弟様にだけは見せたくなかったのでしょう」
 訃報を伝えに来た、茂庭綱元が静かに呟いた。
「生きてこそ」
「は?」
「生きてこそ、よき死に方を得られると、兄上に諭された気がする」
 秀雄は涙をみせなかった。
 泣かぬことこそ、伊達者である。
 秀雄は、そう思った。

 晴れ晴れとした北の空の下、株分けされた萩の花は、その後も白く輝きを放つ。まるで伊達政宗の心のように。

 こののち、秀雄は大悲願寺一五世住持となった。海譽の薫陶に応える立派な僧として
「生き仏さま」
よと、土地の者に敬愛された。
「苦しくても、生きよ。生きてこそ、である」
 貧しい山間の民を励ます秀雄は、身分を問わず慕われた。
 秀雄。兄を強く慕ったものだろうか。政宗が死して僅か五年ののち、まるで後を追うように、秀雄は入寂した。この年の横沢入は、蛍の乱舞がいつになく美しかった。



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みんなの感想(1件)

笹目いく子
2023.08.11 笹目いく子

寂寥が漂いながらも、あたたかさと救いを感じる美しい物語でした。
政道が実は生存し、僧侶となっていたという説は存じませんでした!(毒殺されたものとばかり思っていたので仰天しました!)
保春院との和解、弟との心の交流が胸に沁み入るようでした。
拝読させて頂き、ありがとうございます。

2023.08.11 夢酔藤山

定説では間違いなく死んでいることになっております。
しかし、東京五日市のこの寺には政宗の弟がいたという俗説があり、二次的な解釈はあれど具体的に小次郎とは指しておりません。が、わざわざこの寺の白萩を政宗が所望し、書簡も現存しております。
政宗母子の真ん中に挟まった棘、それを抜く一篇になればと思案した作品です。
ありがとうございます。

解除

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