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最終話 雪には折れぬ青柳の枝
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最終話 雪には折れぬ青柳の枝②
文禄の役はこの年いっぱい、続いた。兵站の延びた脆弱な戦場、羽柴を姓と名乗っていた頃の秀吉ならば、知恵を巡らせこのような無様な戦さはしない。もはや秀吉は、武将の長ではなく、傲慢な一己の専制君主に過ぎない。
こののち、豊臣という家は、長くはないだろう。
誰もが予感した。
天下を次に望む者がいても、不思議ではない。
「こんな身でなければ」
と、氏郷は悔やんだ。
秀吉は、才ある男だった。信長の跡でいちばん秀でた運否天賦で天下をとった。が、それは自分のための天下で、世のためではない。下衆の世を正す力が、四〇の歳に届く氏郷にはあった。信長の望むものへと、元に戻せるだけの力があった。
この病さえなければ。
「くやしい」
氏郷の本音だった。
正月過ぎ、伏見城完成祝いのため氏郷は上洛した。
「身を厭うべし」
秀吉はそう語った。
ここでも氏郷は少庵の帰京を嘆願した。政治の茶から身を引くという申し出に、ようやく秀吉も心を動かした。帰京した少庵母子は、残してきた妻と子と再会し、伏見の蒲生屋敷へ一家で挨拶に赴いた。
「お師匠の茶、のちのちに伝えたまえ」
氏郷はただそれだけを望んだ。
少庵は本法寺前に地所を与えられ、大徳寺前にあった利休の旧宅茶室を移転して千家の茶を再興するよう志した。その頃、利休前妻の子・道安は早く赦され、秀吉のもとで茶を点てていた。
利休生前は前妻に後添え、それぞれの子という立場で疎遠だった両名も、ただ茶をよくするという共通の意志による交流を始めていた。和解というものではなく、一種、出会いというのが相応しい。
千家の家督を継いだのは、道安だ。
その茶の湯の系譜は、少庵の子・宗旦がこれを相続し、三つの千家の祖となる。
しかし、当節の茶は俗世にまみれて美しさを欠いた。秀吉に好かれねば茶が点てられぬのだから、本心による茶道かは差し引くことが正しい。
利休の門弟より古田織部が正統として称され、秀吉に好まれたのも、そういうことだ。織部は利休から最期の公案を伝え託された者だった。七哲の誰もが、その公案の謎に頭を悩ませた。
四月一五日、氏郷は妹・とらからの使いにより、秀吉の失禁を知る。
とらは秀吉の側室とされていた。奥向きの世に出せぬことは、とらが全て伝えてくれた。この失禁は、明らかに老いらくの末による、耄碌の兆候だった。どんなに老いても、徳川家康・石田三成のように矍鑠としていないのは、成り上がりが世の贅沢の限りを尽くした、なれの果てだ。
せっかくの伝えに、氏郷は身を起こすことが出来なかった。
「口惜しい」
これは本音だった。
天下を取る機会だった。氏郷にも、その機は平等にあった。それを果たせぬ身の上は、主の導きか。これがデウスの答えだろうか。
「それも、身の程だろう」
氏郷は諦観の境地にある。
摂津国有馬へ湯治のため赴いた秀吉は、側室たちと戯れた。ただ己の遊興のために、秀吉は贅を尽くした。五月一二日まで、秀吉はたっぷりと有馬の湯を愉しんだ。
伏見巡検と渡海の戦況に和議のこと。
そのうえで治安の見せしめとして、八月二三日、石川五右衛門父子を三条河原にて釜茹刑に処した。残忍なことだと、京童は囁きあった。
(釜茹では珍しくもあるまい)
蒲生氏郷は家臣からの報せに、そう思った。大名の施行する刑罰で、刀の錆とすることは武士に限られた。盗人相手には残虐をもって庶民に
「罪をすることなかれ」
という見せしめにしなければならない。氏郷も釜茹でを会津で指図している。
ただ、秀吉のすることは、一々が派手で大袈裟なだけだった。
文禄の役はこの年いっぱい、続いた。兵站の延びた脆弱な戦場、羽柴を姓と名乗っていた頃の秀吉ならば、知恵を巡らせこのような無様な戦さはしない。もはや秀吉は、武将の長ではなく、傲慢な一己の専制君主に過ぎない。
こののち、豊臣という家は、長くはないだろう。
誰もが予感した。
天下を次に望む者がいても、不思議ではない。
「こんな身でなければ」
と、氏郷は悔やんだ。
秀吉は、才ある男だった。信長の跡でいちばん秀でた運否天賦で天下をとった。が、それは自分のための天下で、世のためではない。下衆の世を正す力が、四〇の歳に届く氏郷にはあった。信長の望むものへと、元に戻せるだけの力があった。
この病さえなければ。
「くやしい」
氏郷の本音だった。
正月過ぎ、伏見城完成祝いのため氏郷は上洛した。
「身を厭うべし」
秀吉はそう語った。
ここでも氏郷は少庵の帰京を嘆願した。政治の茶から身を引くという申し出に、ようやく秀吉も心を動かした。帰京した少庵母子は、残してきた妻と子と再会し、伏見の蒲生屋敷へ一家で挨拶に赴いた。
「お師匠の茶、のちのちに伝えたまえ」
氏郷はただそれだけを望んだ。
少庵は本法寺前に地所を与えられ、大徳寺前にあった利休の旧宅茶室を移転して千家の茶を再興するよう志した。その頃、利休前妻の子・道安は早く赦され、秀吉のもとで茶を点てていた。
利休生前は前妻に後添え、それぞれの子という立場で疎遠だった両名も、ただ茶をよくするという共通の意志による交流を始めていた。和解というものではなく、一種、出会いというのが相応しい。
千家の家督を継いだのは、道安だ。
その茶の湯の系譜は、少庵の子・宗旦がこれを相続し、三つの千家の祖となる。
しかし、当節の茶は俗世にまみれて美しさを欠いた。秀吉に好かれねば茶が点てられぬのだから、本心による茶道かは差し引くことが正しい。
利休の門弟より古田織部が正統として称され、秀吉に好まれたのも、そういうことだ。織部は利休から最期の公案を伝え託された者だった。七哲の誰もが、その公案の謎に頭を悩ませた。
四月一五日、氏郷は妹・とらからの使いにより、秀吉の失禁を知る。
とらは秀吉の側室とされていた。奥向きの世に出せぬことは、とらが全て伝えてくれた。この失禁は、明らかに老いらくの末による、耄碌の兆候だった。どんなに老いても、徳川家康・石田三成のように矍鑠としていないのは、成り上がりが世の贅沢の限りを尽くした、なれの果てだ。
せっかくの伝えに、氏郷は身を起こすことが出来なかった。
「口惜しい」
これは本音だった。
天下を取る機会だった。氏郷にも、その機は平等にあった。それを果たせぬ身の上は、主の導きか。これがデウスの答えだろうか。
「それも、身の程だろう」
氏郷は諦観の境地にある。
摂津国有馬へ湯治のため赴いた秀吉は、側室たちと戯れた。ただ己の遊興のために、秀吉は贅を尽くした。五月一二日まで、秀吉はたっぷりと有馬の湯を愉しんだ。
伏見巡検と渡海の戦況に和議のこと。
そのうえで治安の見せしめとして、八月二三日、石川五右衛門父子を三条河原にて釜茹刑に処した。残忍なことだと、京童は囁きあった。
(釜茹では珍しくもあるまい)
蒲生氏郷は家臣からの報せに、そう思った。大名の施行する刑罰で、刀の錆とすることは武士に限られた。盗人相手には残虐をもって庶民に
「罪をすることなかれ」
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ただ、秀吉のすることは、一々が派手で大袈裟なだけだった。
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