魔斬

夢酔藤山

文字の大きさ
上 下
118 / 126

人形奇譚

しおりを挟む
               六



 近江屋の娘・おときが、その質屋から日本人形を買い求めたのは、二日前のことである。幸いおときという娘は感受性が鈍いのか、極めて霊感が希薄なのか、人形の障りはまだ表面化していない。だから突然の山田浅右衛門の訪問にも、近江屋の主人は怪訝を露わにし、胡散臭そうな態度を示した。
 無理もない話である。
 この世には、人智の及ばぬ不思議がある。しかし直接自身にと考える者は、そういるものではない。
 近江屋が訝しげにしながらも、無下に山田浅右衛門を追い返さなかったのは、傍らに立つ同心のせいだろう。白川公徳は、なんだかんだ云って、山田浅右衛門に付いてきたのだ。追い返しても、追い返しても、頑固一徹にして融通の効かぬこの堅物は聞く耳持たぬ。諦めて連れてきたのだが、災い転じて福と成す結果になったのは有難い。
(いつもなら、とっくに塩を捲かれてるからな)
 とにかく、おときと人形に会いたいという要望に、近江屋は応じぬ訳にはいかない状況であった。
「番頭さん。呼んできておくれ」
 しかし程なくして、番頭は血相を変えて
「おりません、旦那さま、おりません」
「いないって……まさか」
「おりません、おりません」
 番頭の慌てぶりに、何事かを察した山田浅右衛門は
「八丁堀の旦那。手下を使って探すんだ。特に水辺をな」
と白川公徳に促した。ただ事ならぬ気配に、白川公徳も慌てて外へと駈け出した。
「さて、近江屋さん。娘さんは胸の病か何かかい?」
 山田浅右衛門はじろりと見た。
「番頭の慌てぶり、元来部屋にいなきゃなんねぇものが無い、そんな慌てぶりだ。表には出せない理由がある。労咳持ちだね」
「……大きな声ではいえない」
「云わねぇよ。別に店を傾けるつもりで云ってんじゃない」
「しかし……おときはどこへ」
「人形に意識を奪われたのかも知れぬ。あんたの娘が求めた人形はね、もう二十年も娘たちに取り憑き、命を奪いながら世を流れてきた魔性の類なのさ」
 信じられぬと、近江屋は頭を振った。
 間もなく白川公徳が駆け込んできた。
「危なく平川へ落ちるトコだったぜ」
 小者が背負う娘は、紛れもなく近江屋の娘おときであった。手にはしっかりと日本人形が握られている。
「娘は……大丈夫ですか」
 近江屋が駆け寄った。おときの顔色は蒼い。意識はなさそうだ。
「落ちてはいないのだね」
 念を押したが、白川公徳は大丈夫と胸を張った。
「落ちれば魂を引摺り取られただろう。まだなら、命は繋がっている。人形から引き離さねばなんね」
 山田浅右衛門はおときの手を握った。
 ゾッとするほど冷たい。まるで死人のようだ。しかし死人特有の饐えた匂いはしない。それに握っているうちに仄かに温かみを感じ取れる。顔色も死斑はない。
(この子の魂を、人形が握っている)
 引き離すには多少手荒なことも必要だ。
「近江屋さん、この子を湯に浸けてお上げなさい。うんと熱い湯に」
 そうして人形を取り上げようとした。指が食込んだように離れない。さもありなんと、山田浅右衛門は懐から札を取り出した。以前、花吉から貰った護符である。それをおときの手首に貼り、再度引き離すと、まるで嘘のように人形はぽろりと取れた。
 護符を人形の額に貼り、山田浅右衛門は風呂敷に包んできた桐の箱へそれを収めた。箱の内側も護符やら呪符やらが張り巡らされている。蓋をして封緘代わりに札を貼った。
「近江屋さん、早く湯へ。それで気が付けば、もう娘さんは心配ない。ささ、早く」
 勧められるまま近江屋は湯を沸かさせ、おときを入れた。
 程なくして
「温く、温く」
とおときが声を発した。その報せを聞いた近江屋は
「おお、よかった、よかった」
と泪を流した。
 くれぐれも身体を冷やさぬよう忠告し、山田浅右衛門は近江屋を辞した。たぶん、おときは大丈夫だろう。それに件の人形は手中にある。
 いま、山田浅右衛門の手を通じて、人形の生々しい声が聞こえてくる。
〈まだ殺し足りない……人の笑顔が悔しい……悔しい〉
 そんな悲鳴を、山田浅右衛門は黙殺した。
しおりを挟む

処理中です...