魔斬

夢酔藤山

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死神奇譚

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               十五


 浅草小太郎は表の弾左衛門として、公式の場で幾度か、千葉定吉を遠目に観たことはある。
 が、こんな気やすい身形で、しかも飾りのない物腰で
(よもや言葉を交わそうとは)
思いもよらず、戸惑いを隠せなかった。
「申し訳ありません。門下生をふたり、件の人斬りに殺されました」
 重太郎は重い口調で報告した。
「重さんも佐那も、怪我は?」
「特には……しかし、山田殿が」
「山田殿?」
「すっかり覇気を喪失して……気の抜けたように」
「死んじゃいねえのだね」
「はい」
「ならばいいさ。生きてさえいりゃあ、そのうち元に返るだろうよ」
 傍らには徳利があり、千葉定吉はそれを茶碗に注いで飲み干しながら
「で、練兵館は何だって?」
と重太郎に訊ねた。
 山田浅右衛門と遇う前、千葉重太郎たちは、斎藤弥九郎が道場主を務める江戸四大道場のひとつ〈神道無念流練兵館道場〉に赴いていた。
「将軍家御上洛警護の新徴浪士隊に、神道無念流からは相当数の門下が参加するとか。水戸に通じる者や、なぜか長州に近しい者がこれに名乗り出たと」
「変じゃねえか。将軍家御上洛警護なら、都に巣食う長州の過激派と遣り合うことになろうが……同士討ちかい」
「その辺りがこちとら解せねぇもんだから、そんな場所へ門下を送っても平気なのかいと聞いてきましたよ。そしたら斎藤先生、同士討ちはないっておっしゃるんでさ」
「……?」
「些かの裏があって、清河めの狙いは、将軍家の警護にあらずと」
「よく判らぬが……」
「つまり、将軍家警護を口実に人を集め、都で変節し、朝廷側の走狗となるとのこと」
 千葉重太郎の言葉に、定吉は唸った。
(変節の走狗ねえ……清河には似合いの舞台よな)
 千葉定吉は茶碗酒を干しながら
「弥九郎殿はつまり、練兵館を挙げて清河に同調するつもりなのだね」
「いえ、むしろ逆なのだそうで」
と、重太郎は首を振った。
「小川町講武所は幕府の官立武道所。そこを後押しする以上は、上様を立てるのが筋道なりと、斎藤先生は……」
「つまり、門下の跳ね返りが、時節到来と勝手に盛っている……そういうことか」
「はい」
 神道無念流流派は長州若手藩士に強く浸透している。桂小五郎、品川弥二郎、のちの明治維新に活躍する主要な人物が神道無念流を極めており、その人脈を広めていた。彼らと清河八郎が気脈を通じ、将軍警護という美辞麗句を掲げて
「幕府を手玉に取っていやがるのか」
 千葉定吉は溜息混じりに茶碗に酒を注ぎ、一口含んでから
「どうするね」
と、浅草小太郎に向き直った。
「よくは解らないが、あんたらは清河八郎の口車に乗せられたんだ。このまま指啣えていなさるのかい?」
「……埒外の者は裏の世界の者。浅草弾左衛門はそれを統べる者。老いたとは申せ、先代をいいように傀儡せしめた罪は、万死に値する……!」
「邪魔立てするかい、清河の奸計を」
「御加勢くださるので?」
「我らの剣は活人剣。都大路で暗殺に用いるべき剣ではない。北辰一刀流然り、神道無念流また然り。江戸の道場の品性を、世俗で汚したくはないものよ」
 そのときである。
「父上!」
 千葉佐那の次の妹・里幾が息急いて駆け込んできた。
「半刻も前に、九段坂辺りで麹町和学講談所和学者・塙次郎殿が暗殺されました」
「塙次郎?」
「奉行所は下手人を追っていますが、どうにも手掛りがなく、件の[死神]の仕業ではないかと、もっぱらの噂……」
 馬鹿なと、千葉定吉は嘲ら笑った。
「奉行所の役人に何が判るか。これは尊皇攘夷派の仕業ぞ」
「尊皇攘夷派?」
「里幾よ、こないだ御殿山で騒ぎがあったのを知っておるか」
「いえ」
「江戸中がゴタゴタしている御蔭で、余り知られていないがな、御殿山に建設中のエゲレス公使館が焼討ちされた。確か今月の半ばだったかの。下手人は長州の過激派とか聞かされた。今回の塙次郎暗殺も、その流れに乗ったものじゃろうて」
 尊皇攘夷派の過激な行動は、これを鎮圧すべしという格好の大義名分を打ち上げる材料になる。新徴浪士隊はこれらから将軍を警護する名目の存在だから、もはや幕府としても早急の組織編成と上洛を望むに違いない。
「……やられたぞ」
 千葉定吉は膝を叩いた。
「恐らく清河は、これを利用し、公然と新徴浪士隊を上洛に持ち上げる」
「それじゃあ……」
 浅草小太郎は声を失った。
 千葉定吉も沈痛そうに俯きながら
「手遅れじゃ。こうなった以上は、よもやなりゆきを静観するよりないぞ」
と吐き捨てながら、忌々しげに茶碗酒を飲み干した。

 塙次郎は塙保己一の子で、前老中安藤対馬守信正の内命で廃帝の故事を調査していた。皇女和宮降嫁に伴い、安藤信正は幕府を朝廷より上位に立たせるために策謀を巡らせていたのだ。廃帝故事も、朝廷の権威を失墜せしめるための粗探しである。
 これに対し過激尊皇攘夷派は暗殺という手段を用いて抵抗した。
 坂下門外で安藤信正暗殺未遂事件が起きたのは今年正月。首謀者は水戸浪士・小田彦三郎、平山兵介ら。品河御殿山に建設中の英国公使館を焼討ちしたのは師走の十二日。首謀者は長州藩士・久坂玄瑞、高杉晋作。そして今宵、返す刀で塙次郎を暗殺したのである。 こちらの首謀者も久坂玄瑞、手を下したのは伊藤俊輔。
 そしてこの過激行動は、長州と裏で通じている清河八郎に逐一報されていた。
 千葉定吉の予想通り、この事件は幕府よりの働き掛けにより
「新徴浪士隊の早急な上洛」
という大義名分を得る結果に至る。

 道場に戻った浅草小太郎は、放心している山田浅右衛門を見下ろした。気の抜けた表情の山田浅右衛門は、とても頼りになりそうもない。
「どうしたらいいものかな」
 浅草小太郎は、心底途方に暮れた。
 車善七も助六も、不安そうに、ただ顔を見合わせることしか出来なかった。


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