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死神奇譚
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十三
永代橋より北西へ真直ぐ道があり、右手には御船手屋敷、左手が掘割り、やがて道は湊橋に差し掛るが、それを渡らずに立ち止まる。その辺りが箱崎町だ。山田浅右衛門の目指す店は、湊橋より川に沿って六件ほど行った、目立たない路地を奥に入った場所にあった。
「はて、[ののうや]?」
聞き慣れない店名に、助六は首を傾げて山田浅右衛門をみた。店に入ると、いよいよ助六は首を傾げた。
「旦那……ここは」
「ははは、やっぱり助六も埒外の者じゃ。ここの異様な気配に気付いたかよ」
「埒外って……まさか、[ののう]って、あの[ののう]で?」
「ああ」
信州小県郡禰津村の歩き巫女、これが[ののう]である。戦国時代には武田信玄の諜報活動の一翼を担い、元禄年間には柳沢吉保の手足となって諸藩の内情を内偵してきた正体不明の闇の集団。興善寺過去帳という公式記録によれば、万延元年から明治十二年の間の巫女数は僅か八人とされている。が、漂白を捨てて、独自の生活を築いている者もいた。ここはそういう巫女が、市井に溶け込んだ場だった。
囲炉裏の前に山田浅右衛門が腰を降ろしても、助六はぽかんと立ち尽くしていた。
「おい、早く座れよ」
促されるまま腰を降ろすと、やがて歳若い娘が白湯を運んできた。たぶんこの娘も
(歩き巫女だろうか)
と、助六は食い入るように見つめた。
「ぼたんで宜しいですか」
端正な顔立ちに似合う涼しげな声である。
「助よ、ここの鍋は信州味噌で旨えぜ」
「へえ」
「よう、雪坊よ。甘露煮を肴に一杯やりてえから、ぼたんより、先にそいつをおくれ」
信州小県郡は鯉で知られる。山田浅右衛門のいう甘露煮とは、寒鮒のことである。寒鮒も鯉同様、信州では知られる一品だった。
「……てことは、店のものは」
「ああ、信州からのものよ。流れ巫女をやめても、仕入れついでに情報はここまで伝わってくるんだ。[ののう]は、死んじゃあいねえのよ」
やがて、雪坊と呼ばれた娘が、寒鮒の甘露煮と鉄瓶を運んできた。鉄瓶のなかは酒が入っている。程よく燗になっていたが、囲炉裏に掛ければ冷め防止になるのだ。
「温め過ぎると、酒の味が飛んでしまいますよ。山田様は、この前もやったんですから」
「ああ、気をつけるよ」
こうしてぼたん鍋が来るまでの間、ふたりは寒鮒を肴に熱燗を傾けた。四方山話をしている間に、酒もなくなり、まるで見越したようにぼたん鍋が運ばれてきた。
「雪坊よ、宰相はいるんだろ?」
「あい」
「呼んでくれねえかい。ああ、こいつか。こいつも埒外の者だよ、山谷堀のな。酔っ払っちまう前に、お願いしてえことがあるんだ」
宰相とは、歩き巫女を統率する棟梁の呼び名である。かつては各個の集団で移動していた歩き巫女たちを、宰相という棟梁が率いていたのだ。既にその呼び名は、歴史の彼方の、隠語とされていた。
やがて、店の奥から、見た目には三十五、六の女が現われた。
「山田様、その呼び名は店では云わないで下さいまし」
「はは、相変わらず綺麗だな」
「いくら六十の婆さまを煽てても、何も出ませんよ」
助六はぶっと盃を吹いた。
(六十……?)
どう見ても、三十半ばにしか見えない。怪訝そうな表情の助六に
「時には、そういう女もいるんだよ」
と、山田浅右衛門は笑った。
そして、少し姿勢を正しながら
「聞いたことあるだろう。[死神]と渾名される人斬りが、近頃お江戸を騒がせている話を」
「ええ。おかげで商売もあがったりですよ」
「あれはこの世のものではあるまい。何か、情報持っていねえかい?」
宰相は大きく頷いて、右手を差し出した。
「昨今の情報は金が懸かるのさ。それに、旦那が満足する情報はないのでね、京まで仕入に行ってくるよ」
「俺はあいつに殺されかけた。魔斬りの依頼がねえから黙っているが、そのうち返り討ちにしてやるつもりだ。いくらでも、要るだけ払ってやるよ」
と、当座の資金として三十両を手渡した。
「後金は、情報入手後だよ」
「ああ、踏み倒しはしねえさ」
宰相が奥に引き籠もると、ようやく山田浅右衛門は、いつもの調子でぼたん鍋を突き始めた。猪の肉は厚めで、牛蒡と味噌のおかげでその臭みも感じられない。肉厚の葱と蒟蒻は下仁田のものだろう。大根は練馬大根に違いない。それらに程よく味が染み入り、助六などは箸を休めることも忘れて貪り続けた。
「おおい、雪坊。出汁と飯をおくれ」
山田浅右衛門は残り汁で雑炊を仕立て、たちまち二人掛かりで平らげてしまった。
一心地ついて、白湯を呑んでいる傍らで
「ああ、そういえば」
膳を片付けていた雪坊が、何かを思い出して、山田浅右衛門の顔を覗き込んだ。
「山田様、[死神]の依頼の主が、取れるかも知れませんよ」
「誰だ」
「北町奉行」
なんでも山谷堀に魔斬りへ依頼に行ったものの、頼めずに平河町へ行ったが、そこでも頼み辛くて引き返してそのままなのだと、雪坊は言葉を次いだ。
「そうか……岡部菊外なんて妙な侍を引っ張り込んだのは、俺に頼めなかったからなのか」
とにかく北町奉行でもなんでも、依頼さえあれば[死神]退治が出来る。無様な目に遭わされた落とし前はつけさせて貰わねば
(腹の虫が収まらねえや……!)
そのときである。宰相が血相を変えて奥から飛んできた。
「お雪、余計なことを!」
「申し訳ありません」
「旦那、何か情報を探ってくるまでは、絶対に御奉行の処へ顔を出さないで。温和しくしといておくれ!」
「でも、依頼は大至急だろう」
「無策で挑んで勝てる相手じゃあるまいに。噂で聞いただけでも、奴は、京だけで三百もの人を斬っているんだ。しかも魔性の類ともなれば、何ぞや付入る策を用いなければ。そいつは、こちらで必ず探ってきます。後生だから、自重しておくれ」
その剣幕に押されて、一先ずは魔斬りへ手を出すことを控えることを、山田浅右衛門は約束させられるのであった。
「後金取れなきゃ、草臥れ損だよ」
などという憎まれ口も、決して本心からのものではない。
宰相はそれなりに、本気で心配しているのだ。
「雪坊、おあいそだ」
支払いを済ませて店を出ると、白いものがちらちらと降ってきた。
永代橋より北西へ真直ぐ道があり、右手には御船手屋敷、左手が掘割り、やがて道は湊橋に差し掛るが、それを渡らずに立ち止まる。その辺りが箱崎町だ。山田浅右衛門の目指す店は、湊橋より川に沿って六件ほど行った、目立たない路地を奥に入った場所にあった。
「はて、[ののうや]?」
聞き慣れない店名に、助六は首を傾げて山田浅右衛門をみた。店に入ると、いよいよ助六は首を傾げた。
「旦那……ここは」
「ははは、やっぱり助六も埒外の者じゃ。ここの異様な気配に気付いたかよ」
「埒外って……まさか、[ののう]って、あの[ののう]で?」
「ああ」
信州小県郡禰津村の歩き巫女、これが[ののう]である。戦国時代には武田信玄の諜報活動の一翼を担い、元禄年間には柳沢吉保の手足となって諸藩の内情を内偵してきた正体不明の闇の集団。興善寺過去帳という公式記録によれば、万延元年から明治十二年の間の巫女数は僅か八人とされている。が、漂白を捨てて、独自の生活を築いている者もいた。ここはそういう巫女が、市井に溶け込んだ場だった。
囲炉裏の前に山田浅右衛門が腰を降ろしても、助六はぽかんと立ち尽くしていた。
「おい、早く座れよ」
促されるまま腰を降ろすと、やがて歳若い娘が白湯を運んできた。たぶんこの娘も
(歩き巫女だろうか)
と、助六は食い入るように見つめた。
「ぼたんで宜しいですか」
端正な顔立ちに似合う涼しげな声である。
「助よ、ここの鍋は信州味噌で旨えぜ」
「へえ」
「よう、雪坊よ。甘露煮を肴に一杯やりてえから、ぼたんより、先にそいつをおくれ」
信州小県郡は鯉で知られる。山田浅右衛門のいう甘露煮とは、寒鮒のことである。寒鮒も鯉同様、信州では知られる一品だった。
「……てことは、店のものは」
「ああ、信州からのものよ。流れ巫女をやめても、仕入れついでに情報はここまで伝わってくるんだ。[ののう]は、死んじゃあいねえのよ」
やがて、雪坊と呼ばれた娘が、寒鮒の甘露煮と鉄瓶を運んできた。鉄瓶のなかは酒が入っている。程よく燗になっていたが、囲炉裏に掛ければ冷め防止になるのだ。
「温め過ぎると、酒の味が飛んでしまいますよ。山田様は、この前もやったんですから」
「ああ、気をつけるよ」
こうしてぼたん鍋が来るまでの間、ふたりは寒鮒を肴に熱燗を傾けた。四方山話をしている間に、酒もなくなり、まるで見越したようにぼたん鍋が運ばれてきた。
「雪坊よ、宰相はいるんだろ?」
「あい」
「呼んでくれねえかい。ああ、こいつか。こいつも埒外の者だよ、山谷堀のな。酔っ払っちまう前に、お願いしてえことがあるんだ」
宰相とは、歩き巫女を統率する棟梁の呼び名である。かつては各個の集団で移動していた歩き巫女たちを、宰相という棟梁が率いていたのだ。既にその呼び名は、歴史の彼方の、隠語とされていた。
やがて、店の奥から、見た目には三十五、六の女が現われた。
「山田様、その呼び名は店では云わないで下さいまし」
「はは、相変わらず綺麗だな」
「いくら六十の婆さまを煽てても、何も出ませんよ」
助六はぶっと盃を吹いた。
(六十……?)
どう見ても、三十半ばにしか見えない。怪訝そうな表情の助六に
「時には、そういう女もいるんだよ」
と、山田浅右衛門は笑った。
そして、少し姿勢を正しながら
「聞いたことあるだろう。[死神]と渾名される人斬りが、近頃お江戸を騒がせている話を」
「ええ。おかげで商売もあがったりですよ」
「あれはこの世のものではあるまい。何か、情報持っていねえかい?」
宰相は大きく頷いて、右手を差し出した。
「昨今の情報は金が懸かるのさ。それに、旦那が満足する情報はないのでね、京まで仕入に行ってくるよ」
「俺はあいつに殺されかけた。魔斬りの依頼がねえから黙っているが、そのうち返り討ちにしてやるつもりだ。いくらでも、要るだけ払ってやるよ」
と、当座の資金として三十両を手渡した。
「後金は、情報入手後だよ」
「ああ、踏み倒しはしねえさ」
宰相が奥に引き籠もると、ようやく山田浅右衛門は、いつもの調子でぼたん鍋を突き始めた。猪の肉は厚めで、牛蒡と味噌のおかげでその臭みも感じられない。肉厚の葱と蒟蒻は下仁田のものだろう。大根は練馬大根に違いない。それらに程よく味が染み入り、助六などは箸を休めることも忘れて貪り続けた。
「おおい、雪坊。出汁と飯をおくれ」
山田浅右衛門は残り汁で雑炊を仕立て、たちまち二人掛かりで平らげてしまった。
一心地ついて、白湯を呑んでいる傍らで
「ああ、そういえば」
膳を片付けていた雪坊が、何かを思い出して、山田浅右衛門の顔を覗き込んだ。
「山田様、[死神]の依頼の主が、取れるかも知れませんよ」
「誰だ」
「北町奉行」
なんでも山谷堀に魔斬りへ依頼に行ったものの、頼めずに平河町へ行ったが、そこでも頼み辛くて引き返してそのままなのだと、雪坊は言葉を次いだ。
「そうか……岡部菊外なんて妙な侍を引っ張り込んだのは、俺に頼めなかったからなのか」
とにかく北町奉行でもなんでも、依頼さえあれば[死神]退治が出来る。無様な目に遭わされた落とし前はつけさせて貰わねば
(腹の虫が収まらねえや……!)
そのときである。宰相が血相を変えて奥から飛んできた。
「お雪、余計なことを!」
「申し訳ありません」
「旦那、何か情報を探ってくるまでは、絶対に御奉行の処へ顔を出さないで。温和しくしといておくれ!」
「でも、依頼は大至急だろう」
「無策で挑んで勝てる相手じゃあるまいに。噂で聞いただけでも、奴は、京だけで三百もの人を斬っているんだ。しかも魔性の類ともなれば、何ぞや付入る策を用いなければ。そいつは、こちらで必ず探ってきます。後生だから、自重しておくれ」
その剣幕に押されて、一先ずは魔斬りへ手を出すことを控えることを、山田浅右衛門は約束させられるのであった。
「後金取れなきゃ、草臥れ損だよ」
などという憎まれ口も、決して本心からのものではない。
宰相はそれなりに、本気で心配しているのだ。
「雪坊、おあいそだ」
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