魔斬

夢酔藤山

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死神奇譚

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               九



 店を出ると風もなく、満天の星空が広がっていた。風がないのは有難いが、底冷えにはさすがの三人も辟易した。大川に架かる新大橋のうえは、一際冷気が漂い、まるで手足が千切れるようだ。その橋を渡ると、内神田の大名武家屋敷が広がる。[死神]の徘徊する夜の帳を恐れてか、界隈には人影すらない。
「だらしのねえことだ。武士が真っ先に頭を引っ込めりゃあ、町人だって怯えて首を竦めてしまう。おかげで、屋台の蕎麦にもありつけやしねえ」
 千葉重太郎の悪態は道理だ。
 山田浅右衛門とて、もう暫らく夜泣き蕎麦に縁がない。ないと判れば余計食べたくなるのが人情というものである。
「二人とも、いつまでも馬鹿なことを云うものではありませぬ」
 すっかり呆れ顔で、千葉佐那が窘めた。
 一行は背中を丸めながら大川沿いに足早に進んだ。
 桑名屋で嗜んだ酒もすっかり醒めてしまい、さすがに辛くなってきた三人は、両国橋の袂で駕籠を拾うことにした。駕籠を探すうちに
「山田殿、少し、どうかね」
 千葉重太郎の促す先には、屋台蕎麦が赤提灯をぶら下げている。ぼちぼち客も溜まっていた。
「へへ……無いものねだりは、江戸っ子の悪い癖だぜ」
 思わず山田浅右衛門も舌舐めずりした。
「佐那はどうする?厭なら先に帰ってもいいんだぜ」
「……すっかり冷えたから、頂きますよ」
「おうおう、それでこそ江戸っ子だ」
 三人は樽を裏返ししただけの椅子に腰掛けて
「かけ蕎麦三つ。それと、何か掻き揚げなんてあるかい」
「貝柱と三ッ葉でよけりゃあ」
「おし、そいつを丼に乗せておくれ」
 蕎麦に掻き揚げを乗せる、現代でいう〈天麩羅蕎麦〉の登場は、山田浅右衛門の時代を遡ること凡そ八、九十年程前といわれる。安永・天明年間とされるが、それも俗説で、もしかしたらもっと以前に元祖があるのかも知れない。しかし、掻き揚げに用いる小麦粉の余剰生産が許される頃に、天麩羅が普及しただろうことは推測に足る。戦国が終息して平和が長く続けば、そのように食糧事情も変化するものだ。それまでの揚げ物は、たぶん唐揚げだろう。それが天麩羅に変化していった。山田浅右衛門が暮らす幕末の江戸に於いて、この一品は、一般的な変り蕎麦の部類に属していたに違いない。
 さて。
 一心地附いた三人は、程なく駕籠を拾い、早や家路に就こうとした。すっかり暖まったので、あとは一刻も早く布団に包まるだけである。
「それでは」
「うむ」
と、両国橋を三挺の駕籠は発った。
 神田川に沿って進めば、やがては神田お玉ヶ池に辿り着く。そう大した距離ではない。
 その手前、和泉橋に差し掛ったときのことである。
「わああ!」
 駕籠舁きが悲鳴を上げて、三人を放り出し、転がるように逃げ出した。何事かと顔を出すと、闇夜に白刃の冷たい輝きが浮かんだ。
「ありゃあ、[死神]だな……!」
 千葉重太郎の呟きに、白刃の主は、無言で笑った。
 その間に千葉佐那も山田浅右衛門も、駕籠から這出し、太刀を手にした。 闇の中でよくは見えない。が、確かにその者は笑みを浮かべていた。伝わる殺気は妖気にも似て、山田浅右衛門は鳥肌を覚えた。その虚を突くように、突如、その者は山田浅右衛門を目指して斬り掛かっていった。備前長光を身構えたが、斬りつけた男の太刀筋の勢いが勝った。
 魔斬りにも堪え得る備前長光が、鈍い音とともに、火花を散らして、折れた。
「山田殿!」
 なおも斬りかかろうとする刺客の刃を、千葉重太郎の太刀筋が受け止めた。それに歩調を合わせて、千葉佐那がその者の足を払おうと斬り込んだ。
 男はばっと飛び退き、笑い声を残して、そのまま闇のなかへ消えていった。
「……間違いない……あれこそ[死神]よ」
 千葉重太郎の呟きは、備前長光を失い放心する山田浅右衛門の耳には届かなかった。
 そんな浅右衛門を、千葉佐那は心配そうに見つめるのであった。
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