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死神奇譚
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六
十一月半ば、清河八郎が再び山谷堀に現われた。この日は浅草小太郎が不在で、すべては浅草弾左衛門周司主導のもとで「将軍上洛警護の影軍」の相談が密かに行なわれた。
「農民等に歩兵組を呼び掛け、かなりの応募があったと見得る。武士と百姓が同列を為せば、いよいよ我ら穢多の肩身は狭くなるというもの。なんとしてもこの機会を利用し、我らも身分の引き上げをしたいものよ」
浅草弾左衛門の呟きに際し
「いや、御尤も」
と、清河八郎は終始相槌に撤した。
今回の上洛にあたり、当初期待していた旗本が、存外役に立たぬことを清河八郎は痛感していた。頼りになるのは支度金目当ての浪人ばかりである。そのため公募の名目も、今では
「新徴浪士隊」
と改めていた。
しかし、清河八郎が本当に着目していたのは、闇の世界に棲む住人であり、それを支配する浅草弾左衛門の力であった。出羽庄内藩出身の清河八郎は、古の支配者が、如何に闇の情報網を重んじたものか、重々承知していた。
出羽には、出羽三山がある。
羽黒山伏は闇の情報網を駆使し、平安の頃には奥州藤原氏を、建武新政の頃には後醍醐天皇を、その機動力と情報網を以て支えてきた。故に、現在の闇の支配者たる浅草弾左衛門を味方に据えておくことは、百万の大軍に匹敵すると考えていたのだ。
実は清河八郎が今日ここへ来たのも、その闇の住人たちを把握するためだ。
「浅草のお頭、ひとつ名簿を下さらぬか」
「名簿?」
「支配下の壮年男子の名簿じゃ。この者をすべて、将軍家御上洛のため、是非とも引き受けたいのだよ」
「ああ、易いこと。ほれ、ここに」
このとき、名簿を気軽に手渡してしまった
「十七歳から四十四歳までの関八州穢多村出身男子の名簿」
は、誰にでも気安く見せられる代物ではなかった。
これを清河八郎へ渡してしまったことが、弾左衛門一家の内輪揉めを、内紛へと導く仕儀となる。
その夜、山谷堀は騒然となっていた。
浅草弾左衛門周司と浅草小太郎が、清河八郎に渡ってしまった「名簿」を巡り、激しい口論になったのだ。このとき新町の重きにある者たちは、皆、浅草小太郎を支援した。
そうであろう。件の名簿は、年に一度、幕府大目付に提出される人別帳なのだ。そんな重要機密を、よりによって清河八郎などという、得体の知れぬ男に渡したことへの、浅草小太郎の怒りは、正統な主張である。また、これは表の弾左衛門として、穢多を代表する怒りでもあった。
しかし、浅草弾左衛門はこの諌言に耳を貸さなかった。
「武士になることこそ、身分引き上げの近道ぞ。百姓が武士にもなろうという御時勢に、なんで乗り遅れる法やある」
「そういうことを云っているのではござらぬ。どうやら養父殿には、物事の善し悪しが見通せぬものと見受けられる。あの清河八郎は、御公儀でも警戒されている不審な人物ですぞ」
「新徴浪士隊は御公儀公認の組織じゃ。それを任されている清河殿が、何で警戒されるものか。嘘も、ええ加減にせい!」
「御公儀の狙いは江戸市中に溢れる不貞浪人を一掃するための口実探し。そのために、今は清河八郎の計画に乗っているだけのこと。心から信用して件を任せている訳ではござりませんぞ!」
「喧しい!」
「養父殿は利用されているのじゃ!目を覚ましなされ。一刻も早く、あの名簿を取り戻すのです!」
「黙れ……黙れ……黙れ!」
こうなると、収拾が付こう筈がない。
少なくとも、浅草小太郎が養父に楯突いたことは、生まれて初めてのことである。その親不孝を敢えて冒してまでの「諌言」であったが、こうなっては、もはやこれまでというよりない。
浅草小太郎は泣く泣く
「養父は耄碌した。今までは闇の支配を託していたが、これでは心許ない。今後は闇の実権も、表の弾左衛門たるこの小太郎が掌握するものである」
と、宣戦布告とも取れる宣言を発した。
片や浅草弾左衛門も
「あの親不孝者はもはや養子に非ず。親に子が従うが如く、穢多の者はすべて我が下へ集うものなり」
と大号令を発し、もはや修復できぬ対立の溝を深めていった。
これにより、弾左衛門一家は「真っ二つに」分裂する憂き目に至ったのである。この状況に嫌気を覚え、真っ先に騒ぎ出したのが、浅草の非人頭・車善七だ。
「こんなことなら、もう、浅草新町の配下でいられねえや」
と、浅草本願寺本堂に一味を従えて立て籠ったのである。これは御法度に反する振舞いで、町方で強制排除に踏み切ろうとするのを
「どうか、ここは儂の顔に免じて」
と、浅草小太郎が踏み留め、単身説得に赴いた。
その誠意に、車善七もようやく納得した。
何よりも穢多の秩序を保とうと尽力する浅草小太郎の誠意に、些かの偽りはない。その心に感服した車善七は、小太郎に臣従する旨を示した。
このとき浅草弾左衛門周司は
「目上に逆らう者は皆、親不孝者なり」
と、車善七を見捨てた振舞いに出た。このことが、結束を密とする穢多衆に不信感を募らせた。
かくして車善七一派が小太郎の派閥に属すると、江戸に点在する三人の非人頭も、それに倣い、弾左衛門周司を見限った。山谷堀はピリピリとした緊迫感が漲り、年の瀬を迎える前から
「ただならぬ」
様相であったのである。
十一月半ば、清河八郎が再び山谷堀に現われた。この日は浅草小太郎が不在で、すべては浅草弾左衛門周司主導のもとで「将軍上洛警護の影軍」の相談が密かに行なわれた。
「農民等に歩兵組を呼び掛け、かなりの応募があったと見得る。武士と百姓が同列を為せば、いよいよ我ら穢多の肩身は狭くなるというもの。なんとしてもこの機会を利用し、我らも身分の引き上げをしたいものよ」
浅草弾左衛門の呟きに際し
「いや、御尤も」
と、清河八郎は終始相槌に撤した。
今回の上洛にあたり、当初期待していた旗本が、存外役に立たぬことを清河八郎は痛感していた。頼りになるのは支度金目当ての浪人ばかりである。そのため公募の名目も、今では
「新徴浪士隊」
と改めていた。
しかし、清河八郎が本当に着目していたのは、闇の世界に棲む住人であり、それを支配する浅草弾左衛門の力であった。出羽庄内藩出身の清河八郎は、古の支配者が、如何に闇の情報網を重んじたものか、重々承知していた。
出羽には、出羽三山がある。
羽黒山伏は闇の情報網を駆使し、平安の頃には奥州藤原氏を、建武新政の頃には後醍醐天皇を、その機動力と情報網を以て支えてきた。故に、現在の闇の支配者たる浅草弾左衛門を味方に据えておくことは、百万の大軍に匹敵すると考えていたのだ。
実は清河八郎が今日ここへ来たのも、その闇の住人たちを把握するためだ。
「浅草のお頭、ひとつ名簿を下さらぬか」
「名簿?」
「支配下の壮年男子の名簿じゃ。この者をすべて、将軍家御上洛のため、是非とも引き受けたいのだよ」
「ああ、易いこと。ほれ、ここに」
このとき、名簿を気軽に手渡してしまった
「十七歳から四十四歳までの関八州穢多村出身男子の名簿」
は、誰にでも気安く見せられる代物ではなかった。
これを清河八郎へ渡してしまったことが、弾左衛門一家の内輪揉めを、内紛へと導く仕儀となる。
その夜、山谷堀は騒然となっていた。
浅草弾左衛門周司と浅草小太郎が、清河八郎に渡ってしまった「名簿」を巡り、激しい口論になったのだ。このとき新町の重きにある者たちは、皆、浅草小太郎を支援した。
そうであろう。件の名簿は、年に一度、幕府大目付に提出される人別帳なのだ。そんな重要機密を、よりによって清河八郎などという、得体の知れぬ男に渡したことへの、浅草小太郎の怒りは、正統な主張である。また、これは表の弾左衛門として、穢多を代表する怒りでもあった。
しかし、浅草弾左衛門はこの諌言に耳を貸さなかった。
「武士になることこそ、身分引き上げの近道ぞ。百姓が武士にもなろうという御時勢に、なんで乗り遅れる法やある」
「そういうことを云っているのではござらぬ。どうやら養父殿には、物事の善し悪しが見通せぬものと見受けられる。あの清河八郎は、御公儀でも警戒されている不審な人物ですぞ」
「新徴浪士隊は御公儀公認の組織じゃ。それを任されている清河殿が、何で警戒されるものか。嘘も、ええ加減にせい!」
「御公儀の狙いは江戸市中に溢れる不貞浪人を一掃するための口実探し。そのために、今は清河八郎の計画に乗っているだけのこと。心から信用して件を任せている訳ではござりませんぞ!」
「喧しい!」
「養父殿は利用されているのじゃ!目を覚ましなされ。一刻も早く、あの名簿を取り戻すのです!」
「黙れ……黙れ……黙れ!」
こうなると、収拾が付こう筈がない。
少なくとも、浅草小太郎が養父に楯突いたことは、生まれて初めてのことである。その親不孝を敢えて冒してまでの「諌言」であったが、こうなっては、もはやこれまでというよりない。
浅草小太郎は泣く泣く
「養父は耄碌した。今までは闇の支配を託していたが、これでは心許ない。今後は闇の実権も、表の弾左衛門たるこの小太郎が掌握するものである」
と、宣戦布告とも取れる宣言を発した。
片や浅草弾左衛門も
「あの親不孝者はもはや養子に非ず。親に子が従うが如く、穢多の者はすべて我が下へ集うものなり」
と大号令を発し、もはや修復できぬ対立の溝を深めていった。
これにより、弾左衛門一家は「真っ二つに」分裂する憂き目に至ったのである。この状況に嫌気を覚え、真っ先に騒ぎ出したのが、浅草の非人頭・車善七だ。
「こんなことなら、もう、浅草新町の配下でいられねえや」
と、浅草本願寺本堂に一味を従えて立て籠ったのである。これは御法度に反する振舞いで、町方で強制排除に踏み切ろうとするのを
「どうか、ここは儂の顔に免じて」
と、浅草小太郎が踏み留め、単身説得に赴いた。
その誠意に、車善七もようやく納得した。
何よりも穢多の秩序を保とうと尽力する浅草小太郎の誠意に、些かの偽りはない。その心に感服した車善七は、小太郎に臣従する旨を示した。
このとき浅草弾左衛門周司は
「目上に逆らう者は皆、親不孝者なり」
と、車善七を見捨てた振舞いに出た。このことが、結束を密とする穢多衆に不信感を募らせた。
かくして車善七一派が小太郎の派閥に属すると、江戸に点在する三人の非人頭も、それに倣い、弾左衛門周司を見限った。山谷堀はピリピリとした緊迫感が漲り、年の瀬を迎える前から
「ただならぬ」
様相であったのである。
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