魔斬

夢酔藤山

文字の大きさ
上 下
86 / 126

死神奇譚

しおりを挟む
               一


 当時、国内情勢は不穏極まりなく、風雲急の様相で一寸先も見通せない深き闇のなかにあった。
 皇女和宮将軍家降嫁により公武合体が為され
「尊皇攘夷体制の確立」
が叫ばれたものの、その実態は新なる混迷を生み出すものに過ぎなかった。
 現実には、開国が為され通商条約も締結された。幕府交換留学生がオランダに派遣される現実がすべてであり、実際、幕府は攘夷に踏み切れない。反面、長州・薩摩といった外様の藩は、攘夷を唱え、京の巷で開国論者を〈国賊〉と称し、天誅を繰り広げていた。
 世にいう
「生麦事件」
が起きたのも、この年の八月二十一日のことである。
 十月二十八日には、長州派公卿三条実美による攘夷勅命が幕府に伝達された。これにより幕閣は
「条約破棄」
ならびに
「攘夷決行」
を沙汰せざるを得ず、公武一和による夷狄打払いを約すための将軍家御上洛が決定された。
 巷でいう将軍警護の寡兵は、そのためのものである。

 そして、この世情に流される運命を持つ者がいた。
 浅草弾左衛門周司。

 彼が頭を強く打って、長患いの床に伏して久しい。ようやく床から離れたその日、山谷堀の屋敷に、ひとりの武士が訪れた。
 清河八郎。
 出羽庄内郷士にして御公儀手配者。彼は攘夷運動の盛り上がるこの時節を見逃すことなく、攘夷論者の幕臣旗本を味方につけて手配を取り消させ、件の将軍警護の寡兵案を提案した。
 つまり、将軍家上洛警護の発起人は、清河八郎その人なのである。
 およそ清河八郎ほどの策士はいない。彼は浪人を戦力として着目し、尊皇攘夷の駒にすべきと幕閣に働き掛けた。
その実、本当の戦力は「埒外」、つまり浅草弾左衛門支配下にある異能集団であると睨んでいた。彼らを使いこなせば、闇のうちに攘夷が叶うと考えたのである。そして、攘夷成就の先にまで、誰にも語れぬ新なる策謀を巡らせていた。
 勿論、浅草弾左衛門ほどの人物が、初対面の者が囁く寝言に易々と乗る筈がない。そう踏んでいた清河八郎である。
「新時代到来の暁には長吏の配下を開放したい。大手を振って、誰もが世を渡り歩ける平等にしてみしょうぞ」
と誘った。
 普段の鋭利明晰な浅草弾左衛門ならば
「心にもなく謀ると、生かして囲内から出さねえぞ」
と凄むところだ。
 しかし、頭の怪我に加えて痴呆の生じている浅草弾左衛門は、迂闊にもこの話に乗ってしまったのである。
 清河八郎の誘いと、浅草弾左衛門周司の痴呆混じりの夢。それは、奇しくも一致するものだった。まさに幕府の設けた身分制度に真っ向から立ち向かう危険な思想。徳川三百年に渡る、埒外の被差別を開放する。
 このことは、重要な意味を持った。幕府創設以来、忌み穢れる職務に従事してきた非人は、徳川の定めし身分制度である「士農工商」より外れる存在だった。つまり四民から外れ、人には在らざるものを、清河八郎は開放するというのだ。長年心の奥で燻り続けてきた浅草弾左衛門周司の理性を、大きく擽ったのである。
 そして日頃なら
「そのような出来もせぬ事を」
と嘲笑叱責する、あの豪奢な浅草弾左衛門周司は、まんまと理性に従い
「信であろうな」
「武士に二言なし」
「されば」
と、まんまと乗せられてしまったのである。
 その結果。
 清河八郎を信用しない多くの非人たちが、浅草弾左衛門周司に反目を唱え出した。江戸市中はおろか関八州並びに東国一円の埒外の連中の多くが、武家の世直しに加わることの愚かさを主張して譲らなかった。そして江戸に棲む穢多非人たちは、清河八郎の口才を持ち出し
「そのような言葉は、我らを利用するための常套手段。古来より我らの先祖は、この詭弁に踊らされ泣いてきたではありませぬか。従うてはなりませぬぞ。我らは権力の外で生計を立てていければそれでよいのです」
と叫んだのである。
 その筆頭が、十三代目の浅草弾左衛門である養子・小太郎である。
「そもそも、先代は床を離れたばかり。なぜ、胡散臭い奴と面会を許したのだ」
 小太郎は声を荒げた。いくら責めても、今更ではある。が、追い返したならば、こんな面倒にはならなかったのだ。今回、幕府は将軍上洛に伴う警護の寡兵を浪人から集うと同時に、農民までも歩兵組に編入される制度を生み出した。半ば耄碌した浅草弾左衛門周司は、この事態にいよいよ見境がなくなり「身分引上」を要求する機会を得るべく、清河八郎と意気投合したのが現状だ。
 とまれこの一件が、鉄の結束を誇りとした浅草弾左衛門一家を分裂に導いたことは、いうまでもない。
 改革を望む、浅草弾左衛門周司。
 保守を願う、小太郎弾左衛門。
 埒外にとって、清河八郎とは、疫病神そのものであった。
しおりを挟む

処理中です...