魔斬

夢酔藤山

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死神奇譚 1期最終話

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1期最終話 特別長編

               序


 文久二年(1862)も十月になると、世の中は、いよいよ物騒な様相で市井を覆い包もうとしていた。
 この日、山田浅右衛門は憤慨していた。その不満を隠し果せることも出来ぬまま、神田お玉ヶ池の北辰一刀流千葉道場に千葉佐那を訪ねた。
 あいにく先客がいたのだが
「構いません、お通しを」
と、千葉佐那は応じた。やがて、足音荒げて、山田浅右衛門がやってきた。挨拶もそこそこに
「俺は辞めるぞ!」
と、開口一発に吐き捨てた。
「何を、でござります?」
「講武所じゃ。あんなもの、糞食らえ!」
「……随分と、御機嫌斜めですな」
 理由は何かと、千葉佐那はやんわりとした口調で伺った。山田浅右衛門は先客の存在も気にならぬ程に興奮していたが、呼吸を整えてから、噛み締めるような口調で
「小川町講武所の剣術方針。あれではまるで、幕府の歩兵調練ではないか」
 それで今し方、剣術を志した己の信条に反するからと、きっぱり、脱会を申し入れてきたのだという。
 千葉佐那は苦笑した。
「小川町講武所の本来の姿が、御公儀陸軍調練なのですよ。今までは、その道場を用いて、剣術の鍛練をしていたのです。山田殿の扱いは、千葉道場客分名目の剣術修業です」
「それにしたって、あの野郎、やる気がねえなら出ていけと。気にいらねえから、こちらから三行半叩きつけてやったのよ」
「あの野郎って、誰が……」
「直参旗本の佐々木只三郎」
「佐々木?」
「ちゃらちゃら剣術ごっこするだけなら、迷惑だから出ていけ。そこいらの辺鄙な町道場で燻っていやがれと……ああまで云われて我慢出来るほど、俺は人が出来ていねえ。せっかくの佐那殿の口利きで通ったのでな、こうして、不甲斐なさを詫びにきた。済まぬ、このとおりだ」
「それは、構いませんが……」
 千葉佐那はちらと先客をみた。
 このときになって、山田浅右衛門も先客の存在に気がつき、これは恥ずかしいと、非礼を詫びた。先客は、身を乗り出すように
「その佐々木只三郎の他に、講武所の様子を詳しく教えてくれませぬか?特に軍編成のことなど、忙しいのか否かを」
と伺ってきた。
「失礼だが、お前さんは?」
「これはご無礼を。拙者、かつては北辰一刀流門下にて、今は小石川小日向柳町にある天然理心流試衛館道場で学ぶ山南敬助と申します。以後、御見知り置きを」
 その上品丁寧な物腰に、山田浅右衛門はバタバタと身繕いし、正座に直り取り澄ました風に
「御腰物奉行支配浪人の山田浅右衛門です」
と、余所行きの顔で両手を附いた。
 どうやらこの山南敬助、何処ぞで
「将軍家御上洛」
を聞きつけ、それに付随する
「将軍警護に伴う寡兵」
の風聞を耳にしたらしい。それで、真実を知ろうと千葉道場へ来たのだ。
 もっとも愚痴を溢せれば相手は誰でもいいのが今の山田浅右衛門だから、多分の悪意も含めて、小川町講武所の現況を事細かに吐き出し、山南敬助は一々頷いて聞き入っていた。
(男って、馬鹿馬鹿しい)
 千葉佐那は茶を啜り、そのやり取りを傍観するのであった。

 二人が帰ったあとで、千葉佐那は傍らの門下の者を呼び寄せると
「巷に囁かれる将軍家御上洛警護の話。これはまことの話か?」
 門下は歯切れの悪い口調で
「いつだったか、時の老中・安藤対馬守様が、旗本編成の軍役組織を画策したそうで、それが、このたび実現されたのだと」
「ならば、講武所の者たちは……」
「尊皇攘夷派の直参旗本が中心となり、それに江戸に溢れる浪人どもを糾合し、将軍家御上洛と時同じうして、将軍警護のために京へ向かうのだそうです」
 なるほど、佐々木只三郎如きが小賢しい真似をしたのは、そのためか。
 尊皇攘夷とも開国論者とも云えぬ、一介の首斬り役人が講武所にいては、さぞや迷惑だったことだろう。ようは、口実を設けて、追い出しを図ったに違いない。下手に辞めさせれば、推挙した手前、千葉佐那に泥を塗ることとなる。そうなれば、佐々木只三郎は北辰一刀流派を敵にする。
 江戸四大道場のひとつを味方に留めておく為にも、山田浅右衛門の意思で
「辞退」
させる必要があった。
 自ら辞めたとなれば、誰にも文句はない。
(それにしても、小賢しい男よ)
 こんな男が、現在の小川町講武所を支配しているのか。
(薄気味悪い……)
 これ以後、千葉佐那もまた、小川町講武所より足が遠退くのである。

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