魔斬

夢酔藤山

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剣客奇譚

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               八


 十月の声も聞く頃になると、妙に温もりが恋しくなる。山田浅右衛門と千葉佐那は、荒ら家脇に設けられた早坂主水の墓参りをしてから、[駒形どぜう]で鍋を囲んでいた。
 人を頼んで山谷堀に使いを出すと
「佐那殿、さあ、やってくれ」
と、灘の下り酒を勧めた。
 一口干してから、千葉佐那は溜息にも似た声で
「流される女は辛いものですね。それを掬った男も哀れなものです」
と呟いた。
「流されるのは、それでも楽だろうよ。踏み留まる苦しみから逃げられるのだからな。そうだろう、佐那殿」
 千葉佐那とて、踏み留まらなければならぬ重荷があるからこそ、こうして女でありながら剣を志している。それが為に、恋しい坂本龍馬を追えず、ここにいるのだ。
「そうとも、忍ぶのも人生の至極よ。呪わしき稼業に留まることも、恋心を圧し殺すのも。それがなけりゃあ、人間は何もかも駄目になっちまう」
 そこまで云い掛けて、山田浅右衛門は苦笑いしつつ
「よそう。酒が不味くなる」
 そうこうしている間に、三代目元七助七が注文ついでに顔を出してきた。鏡新明智流の剣客として、北辰一刀流の鬼小町を見物せずにいられなかったのである。
「おい、油売ってていいのかい。忙しいのだろう?」
 苦笑しながら山田浅右衛門は三代目元七助七の脇を突いた。うるせえ、ちったあいいだろうよと、三代目元七助七はちゃっかり千葉佐那の隣で鍋講釈を始め出した。
「旦那」
 ふと呼ばれて見上げると、そこには十三代目弾左衛門浅草小太郎がいた。
「佐那殿、少々席を外す。暫らく親父に付合ってやってくれ」
と、山田浅右衛門は席を立って店外へ出た。
 駒形堂まで歩きながら
「てっきり助が来ると思っていたが、まさかお頭様が、わざわざ足を運んでくるとは思わなんだよ」
「旦那のことだ。恐らく養父の事を聞きたいんじゃねえかと思ってね」
「で、具合はどうなんでえ?」
 浅草小太郎は難しい顔をした。
 いつぞやの騒動で頭を強打した浅草弾左衛門の容態は、どうにも宜しくない。もう長いこと床に入っているのである。余所者の見舞いは穢多社会の掟から一切拒絶され、山田浅右衛門も例に洩れることなく顔を拝むことも叶わないでいた。だから、こうして時々具合を聞くしか術がない。
 いつもは車善七か助六で事足りるこの役目を、今宵は浅草小太郎が出張ってきた次第である。
「怪我の方はもういいのだろう?」
「そうなんですがね……どうにも心が不安定でねえ」
「こころ?」
「果たして、お惚けの兆候かと、皆も心配しているんですよ」
「おとぼけ……あのお頭が」
 山田浅右衛門は懐から包みを取出すと
「人の肝を調合した罰当たりな家伝の妙薬だよ。こいつをお頭に服ませたくて、使いを出したのだ」
と浅草小太郎に手渡した。
「旦那、済まねえ」
「早く服ませてやんな。俺も浅草のお頭に世話になってきた男だ。いつまでも床に入っていられると、調子が狂っちまう」
 浅草小太郎は懐へ妙薬をしまうと、一礼して小走りに去っていった。
 店に戻ると、三代目元七助七は席にいなかった。どうしたのかと訊ねると、女将が出てきて、台所へ引っ張って行ってしまったのだと、千葉佐那は笑いながら答えた。
「表は寒いや。暖を取らなきゃ帰れねえ」
 嬉々と鍋を突く山田浅右衛門を見ながら、ふと
「ねえ、山田殿」
 千葉佐那はこういった。
「生きている早坂殿を斬ったのなら、もう山田殿も一端の剣客ですね」
「剣客……俺が?」
「明日から鍛え甲斐があるというもの」
 何やら剣客の自覚もなく、妙な心地の山田浅右衛門であった。返す言葉も見つからず、むすっと、黙々と泥鰌を食らうその様が
「まるで子供のよう」
と、千葉佐那は大笑いした。
 駒形の夜は更けていった。


                               《了》







 【参考文献】


◇「江戸切絵図散歩」         池波正太郎・著
                     新潮社・刊

◇「駒形どぜう噺」       五代目越後屋助七・著
                     小学館・刊

◇「別冊歴史読本日本秘史シリーズ① 幕末維新暗殺秘史」
                  新人物往来社・刊

告知
次回、1期最終話「死神奇譚」特別長編です
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