魔斬

夢酔藤山

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剣客奇譚

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               六



 一ヵ月後、早坂主水は勘当され表に出された。これは山本家が
「過ぎたことゆえ、もはや斬ることはせぬ」
と正式に三行半を突つけてきた為である。
 その後、早坂主水は浪人姿に身をやつし、江戸市中から姿を消したのである。

 山田浅右衛門が大川畔の地蔵堂に篭もったのは、九月暮れの五つ半のことである。穏やかな声で読経をしていると
「もし、もし……」
 土臭さを漂わせた男の声が響いた。
「何ですかね」
 山田浅右衛門は振返ることなく呟いた。男は向島堀切村の百姓伊右衛門と名乗り、噂を聞きつけ
「是非とも魔斬りを」
と、夜道をはるばるやってきたのである。
 魔斬りの仕事に貴賎の差別はないが、得てして、こういう手合いは安報酬だ。それを見越して、日頃大名旗本や商家から多額に貰っているのである。だから、厭な顔もせずに
「まずは聞かせてくれまいかのう」
 揺らめく蝋燭灯りのなかで、山田浅右衛門は呻くように囁いた。百姓伊右衛門は身を乗り出すように
「おらが村の先にある、朽ちた百姓家がありますだ。つい最近、一時なりと御武家様が暮らしていた百姓家でござります」
「それは……隅田村か?」
「へえ」
 たぶん、それは、早坂主水が篭もった家だろう。
「そこには人の出入りはなかったのだろう?」
「いや、御武家様が去ってから暫らくして、何処ぞの御武家の姫様が篭で参りました。それもほんの一時で。そういえば……人魂の徘徊する夜、何処ぞの浪人様が、その百姓家に通って参ります」
「浪人……?」
「村の衆は狐の通い婚じゃと、すっかり怯えてしもうて……。暮れ六つには外を出歩く者もおりませなんだ」
「……なるほど」
「もう薄ら気味悪くて、みんな野良仕事に手がつかねえだ。御武家様、どうか退治してくれろ」
と、恐らく村の百姓達のなけなしの[銭]がバラバラと並べられた。全部で四十七文。一年の労働の賜がこれだけの[銭]なのだ。
「伊右衛門……ていったっけ?」
「へえ」
「魔斬りは引き受けよう。しかし、人魂相手では、ちと多すぎるのう」
と、山田浅右衛門はそこから二十文だけ取ってあとは返した。
「二十文は蕎麦一杯の駄賃だが、人魂相手にはそいつで十分だ。夜食の足しになれば、それでいい」
 百姓伊右衛門は恐縮しながら、残りの二十七文を懐に締まった。これで幾許かは冬支度が出来ると、半ば安堵した表情を山田浅右衛門は見逃さなかった。
「ちと教えてくれぬか。知っている限りで構わぬ」
「へえ、なんなりと」
「何処ぞの姫様が来たと云うたな。何か特徴はなかったか?」
 特徴と言われても、百姓の眼から見れば些細な区別が判ろう筈がない。ただ駕篭に揺られてきたのを遠目に見たきりである。
「……たぶん旗本ではあるまい。大名家かそれに連なる者だ」
 早坂主水に関わる大名関係者といえば
(下総多古藩一万二千石松平豊後守の用人・山本三太夫!)
 するとその姫とは、早坂主水が放り出した許婚に違いない。夫と定めた男の夢の跡を酔狂にも覗きにきたのか、それとも決別に来たのか。何れにせよその姫は早坂主水の許婚であろう。
「人魂は百姓家に害を為すまい?」
「へえ」
「暫らく時をくれ。しかし、必ず人魂を払ってやる」
 山田浅右衛門の言葉に、伊右衛門は安堵の笑みを浮かべて大きく頷いた。

 翌日から、山田浅右衛門は早坂主水の行方を求めた。早坂主水の情婦[おたき]も姿を消し、浪人となった早坂主水も江戸市中から去った。そして、かつての許婚の存在……。
 人魂騒動の元凶は、たぶん早坂主水にあるはずだ。そう睨んだ山田浅右衛門は、小川町講武所で
「早坂はどこへ行ったのだろうな」
と、さりげなく聞き込んでみた。しかし、もはや早坂主水に関心を持つ者はいなかった。
「奴め、武士の風上にも置けぬ」
と、多くの者たちが侮蔑の表情を隠そうとはしなかったのである。
 更に山田浅右衛門は、四谷・高輪・千住大木戸の囲内に棲む穢多連中に
「こんな男が外へ出なかったか」
と、早坂主水の特徴を示し訊ねたが、何れの答えも
「知らぬ」
の一点張りであった。
 ここでひとつの絞り込みが出来た。大木戸を出ていないということは、江戸郊外に潜伏していることになる。
(豊島郡か目黒……それと向島)
 今回の騒動が向島なら
(恐らくここに)
と、山田浅右衛門は的を絞った。
 仕置のない日、山田浅右衛門は早朝から向島へ赴いた。隅田村に着いたのは四つの刻限である。汗を拭いながら、まずは早坂主水の隠れ暮らしていた百姓家を探した。
 その荒ら家は梅岩塚の右方にすぐ見つけられたが、一歩足を踏み入れて、顔を顰めた。
 妖気が満ちていた。まるで女の臭気が床から込上げてくるように、屋内狭しと立ち篭めていた。
その悪寒に耐えきれず、山田浅右衛門は表に飛び出し嘔吐した。
(なんだ……この威圧感は!)
 来る者を断じて拒む凄味に、山田浅右衛門はふと、早坂主水の情婦の仕業ではあるまいかと考えた。生死も定かでない行方知らずの女であったが、ふとそう思ったのである。
「?」
 嘔吐した道端に何かが落ちていた。その何かに、山田浅右衛門は見覚えがあった。神田明神下[神田川]ですっぽん鍋を囲んだときに見せびらかせていた
「あのときの簪」
なのだ。しかも落として間がない。
 山田浅右衛門は合点がいった。
(奴め。ここに通っているのだ)
 朧気に辻褄が見えてきた。
 恐らく、早坂主水が座敷牢に入れられた後も、[おたき]なる女はここで暮らしていたのだ。そのことを知った山本三太夫の姫・静香は、恥を掻かされたこの女を生かしておくことが出来ずに殺害し、たぶん床下にでも埋めたのだろう。
 勘当されたあと、恐らく早坂主水は真っ先にここへ還ってきた。
 そして、夜の間だけ、女が早坂主水を待っている……そんなところだろうか。
(早坂め、恐らく昼は人目を憚り、荒川向うにでもいるのだろう)
 ならばここにいれば、やがては早坂主水に会える筈である。たぶん早坂主水は、女にすっかり憑かれているだろう。その因果も一纏にして魔斬りしなければなるまい。
(蕎麦代だけじゃ安すぎたかな)
 一先ず山田浅右衛門は長命寺まで堤を戻り、そこで駕籠を拾うと、大太刀を取りに平河町の屋敷へと戻った。そして暮れ六つを待って、闇のなかへ消えていった。
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