魔斬

夢酔藤山

文字の大きさ
上 下
81 / 126

剣客奇譚

しおりを挟む
               五



 あの乱痴気騒ぎから十日。
 今日は早坂主水の婚礼の儀である。この日も早々に仕置を切り上げて、八つに山田浅右衛門は小川町講武所にやってきた。
 ところが、妙に騒がしい。
「如何なされたのか」
 手近の伊藤市太郎に訊ねると
「早坂の奴、婚儀を素放かして、何処ぞへか雲隠れしちまったんだとよ」
「雲隠れ?」
「何でも昨夜、ふらりと出たきり、戻らねえんだと。しかも、金蔵から二十五両と、身の回りの品や女の腰巻きが消えていたらしい」
「はあ、間女と逃げたのか?」
「さあ、判らねえけどよ、とにかく、奴の家じゃ大騒ぎらしいぜ」
 この噂で剣術どころでなくなり、山田浅右衛門は伊藤市太郎と二人で三河町の早坂家付近まで赴いた。成程、屋敷内では花婿に逃げられた嫁家の罵声怒号が往来にまで響いてくるのが判る。
 取り敢えずは傍観しようと、近くの蕎麦屋の二階を陣取り、屋敷を眺めつつ
「蒸篭と酒。それと何か肴を見繕ってくれ」
と注文したあとで、伊藤市太郎は何やら北叟笑んで
「聞いてるか、早坂の嫁は下総多古一万二千石・松平豊後守の用人・山本家から来るんだってよ」
 初耳だった。
「奴はどのみち食い詰めの四男坊だから、この縁組は、願ったり適ったりなのよ。何でも山本家の伝手から、多古藩へ仕官する話も纏っていたらしいぜ」
「そんな良縁を放り出して、早坂め。何をしてやがるんだ……」
「そうだろう?でな、ちと気に掛かる事があるのよ」
 十日前、伊藤市太郎は下谷廣小路で早坂主水と遇った。山田浅右衛門と一緒に呑んだその直後のことだ。
「儂は行きつけの店に奴と入ったんだがな、そしたら野郎すっかり酔っ払っちまって、先客の年増にやたら口説きまくってよう。呆れて先に出てきちまったんだが、それから一度も稽古に来ねえし、それで今日の騒ぎだ」
 ふと、山田浅右衛門に胸騒ぎがした。
「実は……」
 あれから四日後、池ノ端の出会い茶屋から使いが来て
「金を無心された」
ことを告げた。
「まさか、ずっと……その女と?」
 信じられないと、伊藤市太郎は眼を丸くした。しかし、三日三晩も過ごせるような女なら、或いは婚儀を棒に振って蓄電することも考えられなくない。
「……やってくれるよ」
 このときはすっかり野次馬気分で、その話題と早坂家の外観を肴に酒を楽しむ山田浅右衛門であった。

 早坂主水の行方は存外早くに判明した。なんと隅田村の百姓家に、おたき共々暮らしていたのである。
 見つけたのは山本家の御用人だ。しかも間が悪いことに、早坂主水とおたきが一心不乱に
「情を交し合っている最中」
に、である。早坂家の者が先に見つけたのなら揉み消すことも出来たが、婚家に発見されたとなれば、早坂家のとんだ赤恥だ。
 否。
 それ以上に山本家も、世間体も面目も
「丸潰れ」
であった。
 無理もない。婿が婚礼当日に蒸発し、江戸郊外の百姓家で年増女と同じ床で転げ廻っているのだ。
 山本家の当主・三太夫は烈火の如く怒り、早坂主水を斬ると意気捲いた。許婚・静香も逆上し、その女を殺すと猛り狂った。更に山本三太夫はおたきの身上を聞いて驚愕した。
 おたきは前関白九条尚志家臣で彦根藩出入りの自称
「今太閤・島田左近」
の情婦である。
 かつては井伊直弼の政策にべったりで、上方でそれを推進し安政の大獄の片棒を担ってきた人物こそ、この島田左近である。為に桜田門外の変ののち、尊皇攘夷派に生命を付け狙われ、さる七月二十一日、京木屋町二条にて暗殺されたばかりだった。
 当然おたきも
「島田左近の情婦」
として生命を狙われた。それで江戸に下ってきただろうことは容易に想像に足る。
 下総多古一万二千石松平家としては、先の井伊政権に関わり合いを持つことは
「招かざる諍いの元兇」
に過ぎない。
 縁談は白紙にすべしと、早坂家に申し入れをするのは当然の倣いである。それでも山本家の御用人たちは
「姫を辱めた小僧を生かしておくまじ」
と、早坂主水を斬るのだと意気捲いた。
 それを察して、早坂家では俄に座敷牢を設けて早坂主水を投じた。そんな軟禁状態が、一月ほど続いた。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

戦艦タナガーin太平洋

みにみ
歴史・時代
コンベース港でメビウス1率いる ISAF部隊に撃破され沈んだタナガー だがクルーたちが目を覚ますと そこは1942年の柱島泊地!?!?

妻がエロくて死にそうです

菅野鵜野
大衆娯楽
うだつの上がらないサラリーマンの士郎。だが、一つだけ自慢がある。 美しい妻、美佐子だ。同じ会社の上司にして、できる女で、日本人離れしたプロポーションを持つ。 こんな素敵な人が自分のようなフツーの男を選んだのには訳がある。 それは…… 限度を知らない性欲モンスターを妻に持つ男の日常

椿散る時

和之
歴史・時代
長州の女と新撰組隊士の恋に沖田の剣が決着をつける。

明日の海

山本五十六の孫
歴史・時代
4月7日、天一号作戦の下、大和は坊ノ岬沖海戦を行う。多数の爆撃や魚雷が大和を襲う。そして、一発の爆弾が弾薬庫に被弾し、大和は乗組員と共に轟沈する、はずだった。しかし大和は2015年、戦後70年の世へとタイムスリップしてしまう。大和は現代の艦艇、航空機、そして日本国に翻弄される。そしてそんな中、中国が尖閣諸島への攻撃を行い、その動乱に艦長の江熊たちと共に大和も巻き込まれていく。 世界最大の戦艦と呼ばれた戦艦と、艦長江熊をはじめとした乗組員が現代と戦う、逆ジパング的なストーリー←これを言って良かったのか 主な登場人物 艦長 江熊 副長兼砲雷長 尾崎 船務長 須田 航海長 嶋田 機関長 池田

信濃の大空

ypaaaaaaa
歴史・時代
空母信濃、それは大和型3番艦として建造されたものの戦術の変化により空母に改装され、一度も戦わず沈んだ巨艦である。 そんな信濃がもし、マリアナ沖海戦に間に合っていたらその後はどうなっていただろう。 この小説はそんな妄想を書き綴ったものです! 前作同じく、こんなことがあったらいいなと思いながら読んでいただけると幸いです!

おむつオナニーやりかた

rtokpr
エッセイ・ノンフィクション
おむつオナニーのやりかたです

【架空戦記】炎立つ真珠湾

糸冬
歴史・時代
一九四一年十二月八日。 日本海軍による真珠湾攻撃は成功裡に終わった。 さらなる戦果を求めて第二次攻撃を求める声に対し、南雲忠一司令は、歴史を覆す決断を下す。 「吉と出れば天啓、凶と出れば悪魔のささやき」と内心で呟きつつ……。

天竜川で逢いましょう 起きたら関ヶ原の戦い直前の石田三成になっていた 。そもそも現代人が生首とか無理なので平和な世の中を作ろうと思います。

岩 大志
歴史・時代
ごくありふれた高校教師津久見裕太は、ひょんなことから頭を打ち、気を失う。 けたたましい轟音に気付き目を覚ますと多数の軍旗。 髭もじゃの男に「いよいよですな。」と、言われ混乱する津久見。 戦国時代の大きな分かれ道のド真ん中に転生した津久見はどうするのか!?

処理中です...