魔斬

夢酔藤山

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剣客奇譚

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               二



 小川町講武所は、水道橋の南西にある。
 黒船来航よりこの方、揺ぐ泰平に
「今一度、武士の気概を取り戻すべし」
と、武道奨励ならびに学問研鑽のために開設したのが、この講武所である。
 元々は鉄砲洲と深川越中島に設けられたのだが
「幕府海軍操練所」
が鉄砲洲に開設されたため、駿河台に移転させたのが始まりだ。万延元年二月三日、井伊直弼暗殺の一ヵ月前のことである。
 初代講武所指南役頭取は幕臣・男谷精一郎信友という。下総守などという大層な官位を授かっているものの、素朴な彼はそれを名乗らず
「精一郎」
を貫き通したといわれる。
 剣聖と讃えられた彼は、かの北辰一刀流千葉周作さえも、まるで子供のようにあしらったと言われる程の達人で知られる。為に、男谷精一郎信友を慕い、江戸中の道場門下が競うように小川町講武所に入門した。神田お玉ヶ池の北辰一刀流千葉一門も、例に洩れず参画し、千葉佐那も女ながら通っていた。
 他にも京橋浅蜊河岸の鏡新明智流桃井春蔵や、榊原鍵吉、佐々木只三郎といった剣客が名を列ねている。
 この小川町講武所の歴史は短く、徳川幕府がフランス式陸軍伝習制を導入するまでの七年間、まさに
「束の間の輝き」
の如く、活気に満ち溢れていた。
 弛緩した旗本の気骨を叩き直すに、それは十分すぎる時間でもあった。
 山田浅右衛門も仕置の暇を縫って剣術を学ぼうとした。当初は
「やあ、死人臭え」
と疎まれた彼も、その熱意が認められ、今では誰もが人並みに剣客扱いしてくれた。
 この同門に旗本四男坊・早坂主水という男がいる。山田浅右衛門が入門して最初に声を交したのが、この男である。以来、山田浅右衛門はこの男とすっかり意気投合し、しばしば神田明神下の小料理屋へと足を運ぶようになった。
 神田明神下は講武所の気骨逞しい土地のお膝元である。自然と芸者の気風もいなせになってくる。明神芸者は別名[講武所芸者]ともいう。
 実のところ、神田明神下の小料理屋は
「とんと明るくないのでのう」
という山田浅右衛門である。旗本の四男で身の軽い早坂主水にすっかり甘える格好であった。もっとも早坂主水は金回りの悪い部屋住みだから、勘定の大半は山田浅右衛門が持つことになる。
「拙者が店を世話して、山田殿が拙者を世話してくれる。こいつでひとつ、お互い様ということで手を打ちましょうや」
 なかなか調子のいい早坂主水を、しかし、山田浅右衛門は憎めないでいた。
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