魔斬

夢酔藤山

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剣客奇譚

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               一


「どうだい、この泥鰌の丸々としたこと。こんなクソ暑い日にゃあ、こいつを食らわにゃあ、やってやれねえってもんさ」
 文久二年(1862)八月半ば、江戸は残暑の最中にあった。
 この日、山田浅右衛門は仕置を早々に切り上げて、浅草駒形町の老舗[駒形どぜう]に腰を据えていた。酒の供は助六である。
「ねえ、旦那。暇なのは俺たちだけと思うていたのに、結構、客がいるもんですねえ」
 助六の調子外れな明るい声に、店の女中がじろりと睨んだ。
「馬鹿か、手前ぇは?声がでけえんだよ」
 軽く助六の頭を叩き乍ら
「いいか、助。この[駒形どぜう]はな、観音詣の善男善女に支えられて六十年商いをしてきた駒形の老舗だ。そこいらの[ぬたや]とは一味違うんだよ」
「へえ……六十年ですかい」
「先の大地震のおかげで、建物こそ新しいけどよう、ここは味に関して、ちとこだわりがある。しかもな、ここの主人。桃井春蔵殿の門下でな、剣術も習ってるのさ」
「へえ?」
「そのくせ新内流しまでやってのけるのだから、大した風流好みの旦那さんなんだぜ」
 助六は開いた口が塞がらなかった。
 浅草山谷堀で生まれ育った助六が
(持って生まれた身分ゆえ)
こうした料理屋の敷居が高かったのは仕方がないが、お膝元にこんな処があったことを知らなかったのである。つくづく江戸という街は
(懐広いものだ)
と痛感せずにはいられない。
「いちいち関心してねえで、俺が講釈なんざ、聞き流せよ。それよりも、早く食わねえと、みんな平らげちまうぜ」
 この[駒形どぜう]は、享和元年正月二十日、鯨鍋から始まったといわれる。いつから泥鰌鍋がメニューに並んだかは定かでないが、開店五年後の文化三年の大火で江戸市中が焼けてのちの新装開店の折
「どぜう」
と、当時有名な看板書き[初代撞木屋仙吉]に五巾暖簾に描かせて、以来店先に掲げている。
 その味は、まこと美味なり。甘味噌で煮立てた土鍋に、生きたまま酒に漬けられ泥臭さを抜いた泥鰌をグツグツと煮る。臭みもなく硬くもない。
「坂東の泥鰌と灘の下り酒はな、これまた相性がいい。例えるなら、東男に京女って処だな」
 嬉々とした表情で、山田浅右衛門は箸を伸ばした。
 籐の大広間の最も奥に陣取った山田浅右衛門たちは、三度目の泥鰌鍋を注文した。それを受けた女中は
「食べ過ぎじゃありませんか?」
「なんの、旨ぇもんは仕方ねえのよ」
 すっかり呆れ顔で、女中は奥に入った。
 次の鍋が来るまで暫らくは、二人とも灘の下り酒を傾けた。肴は鯉の洗いである。酢味噌の酸味が口に広がり清々しい。
 頬を真っ赤にしながら、助六は窓の外をみた。往来を通る人影は、いよいよ
「二本差し」
が増えてきたのが判る。
 世情不穏も手伝ってか、何処の旗本家でも剣術を習うようになっていた。
 ギラギラとした眦の武士が増えた気がするのは、決して勘違いではない。安政大地震や安政の大獄の余波から、浪人も増えた。かつての[宮仕え]たちは、仕官先を求めて市中を練り歩いている。
 かくいうこの山田浅右衛門も、千葉佐那預かりの名目で、たまに小川町講武所へ顔を出している。剣客を志しているわけではないが、当節物騒な江戸市中にあって、自衛手段として、止むなく始めた習いごとだった。
「で、どうです。旦那の剣の腕前は?」
「ん?」
「駿河台に、剣術稽古に行ってるんでしょ」
「ああ、生きている人間相手も、なかなか楽しいぜ。こちとら商売とはいえ、身動き取れない罪人の首を斬るだけだからなあ。なんだか、生き生きとしてくるよ」
 眼を輝かせて山田浅右衛門は笑った。
 ああこの人もやはり武士だ。本当に楽しんでいるのだな。と、助六は思った。
 そうこうしている間に、三度目の泥鰌鍋が運ばれてきた。運んできたのは、女中ではなく恰幅のいい大男だった。
「まいど、贔屓に」
 その大男こそ、越後屋[駒形どぜう]三代目・元七助七である。剣術柔術の達人が漂わせるその貫禄に、助六はただただ圧倒されるのであった。
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