魔斬

夢酔藤山

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呪詛奇譚

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               結


 盗賊鬼火一家の
「後日談」
ともいうべきこの丑ノ刻参り騒動は、それでも瓦版のネタになり、間もなく江戸市中に流布されたという。もっとも色恋沙汰の果ての
「呪い騒動」
 瓦版には、幸いなことに、留吉が姿見の勝蔵配下であったことは記されなかった。
 そして、これはたぶん、八咫聖の尼僧の眼に止まったに相違ない。失敗れば早々に江戸を去るのが八咫聖なれば、浅草弾左衛門は街道筋に厳重な監視網を設けた。
 その網に八咫聖が引っ掛かった。
 高輪大木戸を堂々と抜けようとしていたところを、品河の非人頭・松右衛門により捕らえられたのである。その身柄はただちに山谷堀に更迭され、浅草弾左衛門直々に江戸入りの意図を拷問された。
 このとき尼僧は激しく抵抗した。
「あっ」
 尼の蹴りで、浅草弾左衛門は屋敷の柱に強く頭を打った。
「頭!」
 当たり所が悪く、これが、とんでもない重傷になった。
「おのれ八咫聖め、浅草のお頭を怪我させたは万死に値する。否、死よりも辛い目に遇わせてやろうぞ」
 車善七は屈強な男たちに命じ、尼僧の舌を抜き、足の筋を斬って、谷中の淫売宿へタダ同然で売り払った。逃げることも舌を噛み切ることも叶わず、この尼僧は貞淑な戒律を破られて、地獄の底へ落とされたのである。

 六月も明けようとしていた。
 雑司ヶ谷鬼子母神境内は、夏の日差しに照り返され、参拝客も汗を拭き拭き子育て安産祈願に訪れる。老いも若きも、富める者も貧しき者も、武家も百姓も商人も、この騎士美人の前で願うことは、ただひとつであった。
 家内安全。
 江戸府内より西の郊外、豊島郡野方領に属する鬼子母神は田園のなかにある。芒の木菟は田舎の文化が育んだ玩具だ。その木菟玩具を片手に、山田浅右衛門は、ひとりの男を連れ立って、鬼子母神境内裏手の薮地にいた。
 大木には、くまが遺した五寸釘の痕が生々しく残っていた。
「どうだい、呪いの跡さ」
 山田浅右衛門は連れの男に示した。
 男の名は浅草小太郎。
 弾左衛門の養子で、表穢多社会でいうところの、十三代目浅草弾左衛門である。
「儂は摂州住吉村の寺田家より浅草のお頭に見受けられ、幕府より関東長吏の御役目に任じられた。十八の暮れじゃったわ。以来二十二年間、先代御隠居に成代わって、穢多社会を表立って務めてきた」
「お頭の容態は?」
「思わしくない」
「……」
「頭を打ったからじゃろか、時々譫言のように、妙なことを口走ることがある」
 左様かと、山田浅右衛門は呟いた。
「呪い事に興味を持ちたがるのが女だ。寸鉄持たない非力な女だからこその刃が、呪い事ってやつさ。小太郎殿も知っておくがいいですよ。これから暫らくは、魔斬りの方も、統轄しなけりゃなんねえのでしょ?」
 浅草弾左衛門が床に就いている間は、小太郎が魔斬りの元締めをしなければなるまい。闇社会の掟も義理も知らぬ小太郎である。頼りになるのは非人頭たちと、山田浅右衛門しかない。
「出来る限りの御助けはしましょう。されど弾左衛門一家を束ねるのは、小太郎殿にございますよ」
「ああ、そうじゃな」
 生々しい疵穴は、何も語らない。
「ねえ、小太郎殿」
「はい」
「女って奴は、どうにも独り善がりでね。思う侭にならねえと、安易に呪いって奴に走っちまう。これが人間だよ。人間の弱さって奴だよ。その弱さの狭間で彷徨うのが、亡霊や怨霊なんですよ」
 山田浅右衛門は、そういって笑った。
「成程ねえ……」
 浅草小太郎も呟いた。
 二人は、神楽坂の茶屋に立ち寄り
「白玉おくれ」
と、汗を拭いながら注文した。白玉は小振の椀に五つ、よくよく冷えていた。それを頬張りながら、後味の悪さが少しは口直しできないものかと、山田浅右衛門は小さく呟いた。
「そうであれば、いいですねえ」
「そうであって欲しい」
「山田殿は、思うより繊細な御方だ」
「大きなお世話ですよ」
 浅草小太郎の愉快そうな笑い声が、江戸の青空にこだました。


                              《了》





 【参考文献】


◇「江戸切絵図散歩」         池波正太郎・著
                     新潮社・刊

◇「写真で見る江戸東京」   芳賀 徹/岡部昌幸・著
                     新潮社・刊

◇「弾左衛門とその時代  賎民文化のドラマツルギー」
                   塩見鮮一郎・著
                     批評社・刊

◇「江戸あるき西ひがし」       早乙女 貢・著
                     小学館・刊

◇「別冊宝島・徳川将軍家の謎」      宝島社・刊



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