魔斬

夢酔藤山

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呪詛奇譚

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               六


 出会宿を逃れた留吉らは、夜明け前に慌てて湯島横町の木更津屋へ逃げ込んでいた。
 当初は何事かと訝しんだ鬼火の熊蔵であったが、留吉が姿見の出会宿で殺しをしたと聞いて
「馬鹿野郎、何を考えていやがる」
と激昂した。
 すっかり陽が昇り、今となっては身動き取ることも難しい。隠し部屋に彼らを引っ張った鬼蔵は、事の仔細を詰問した。越中屋から掠ってきた女中も、女の連れだった武家も
「そのままにして、逃げてきたんだな?」
「へえ」
「この阿呆が!」
 鬼火の熊蔵は出会宿にいた者たちを散々殴り蹴りし、それでも飽き足らず傍らの竹棒で散々打ち据えた。
「そいつらを生かしとけば、一辺に足がついちまうだろが。手前ぇらの面はそいつらに見られてる。それがどういうことか、手前には判らねえのか」
「……」
「恐らく今日あたりには、俺たちの手配書がばらまかれちまう!」
 熊蔵は留吉の胸倉を掴んで凄んだ。
「お頭、勘弁してくれ。こうなる筈じゃなかったんだ。何でこうなっちまったのか、俺にもさっぱり……」
「うるせえ!手前ぇには、あとできっちり落とし前をつけて貰う」
 留吉を放り投げると、狐火の猪助に
「こいつらは使えねえ。木更津屋の下っ端を使って、散っている奴らを、今夜中に、ここへ集めるんだ」
と命じた。
「ほとぼりが醒めるまで、じっと待った方が宜しくはありやせんか?」
「手配書が廻っちまえば、この木更津屋も長くはあるまい」
「へえ」
「早いとこ、江戸をずらかるに限らあ」
「判りやした、早速に」
 越中屋から盗み出した金品は、木更津屋の土蔵の中にある。これを急いで分配し、早いところ江戸を出なければならない。鬼火の熊蔵は、憎々しげに留吉らを睨みつけながら、吉原へ行きそびれた腹立たしさを覚えるのであった。

 手配書の廻った所帯の大きい盗賊は、つまらぬ処で足がつくものである。その点からいえば、盗賊鬼火一家は
「焼が廻った」
といっても過言ではない。
 木更津屋の若衆が触れて廻る現場を、今まで手柄もない下引きが発見し、木更津屋まで尾行をしてしまったのである。これがきっかけで、鬼火一家を一網打尽にせんと、火付盗賊改は綿密な包囲網を木更津屋に敷いたのである。勿論、鬼火一家に気取られることなく。
 こうなっては、さしもの名うての盗賊とて、丸裸に等しい。
 夜半。
 すべての賊が木更津屋に入ったと確信されると、火付盗賊改は二重三重に包囲を布いた。鉄壁の布陣を用いるに、遣り過ぎはない。
 小半刻が過ぎた。恐らく中では盗んだ金品の分配が大方終わろう頃合だろう。
「それ!」
 火付盗賊改方頭の指図で、与力同心らが一斉に踏み込んだ。隠し部屋はたちまち発見された。
 熾烈と思いきや、彼らの抵抗は呆気ないほどヤワなものであった。

 火付盗賊改方の吟味は、手荒で有名だ。
 気骨のある者を除いて、多くの盗人たちは次々と己の悪事を自白した。勿論、留吉のような小者が、拷問に耐えられよう筈がない。かくして、越中屋押込みを始め数々の盗みや殺人、婦女暴行の事実が明るみとなり、盗賊鬼火一家には末端に至るまで厳しい沙汰が下された。そのなかでも、幹部級には、苛酷な処分が待っていた。
 鬼火の熊蔵及び狐火の猪助、主立った面々は各個市中引き回しのうえ、小塚原と鈴ヶ森において
「磔及び十日間の野晒し」
と定められた。
 それも何日か費やして、下っ端から、ジワジワと執行していくのである。迫りくる死の臭いに、鬼火の熊蔵の精神状態は尋常なものではなくなるのだ。
 執行開始から五日目。
 狐火の猪助の磔刑は小塚原で執り行われた。有名な鬼火一家の腹心が仕置されるとあって、千住宿は見物客の泊りが殺到し、宿場筋の者たちは
「鬼火一家様々じゃわ」
と、歓喜に手を合わせたといわれる。
 狐火の猪助は清々しく悪怯れもせず、堂々と笑って刑場の露と消えていった。その潔さに見物客の多くが
「拍手喝采」
を惜しまなかった。
 大方の者が刑場に果て、いよいよ鬼火の熊蔵が土壇場に立たされたのは、執行開始より十日ののちであった。鬼火の熊蔵の磔刑は鈴ヶ森で執り行われるとあって、この前日から
「一目なりとも有名な盗賊の仕置を」
と、品河宿には見物客の泊りが殺到し、野宿する者まで現われた。
 それにしても狐火の猪助は潔いものの、鬼火の熊蔵の最期は不様なものであった。処刑前夜、すっかり恐怖に怯えた鬼火の熊蔵は
「最後の晩くらい、死ぬほど酒を呑ませろってんだ」
と悪態を就き、桶一杯分の酒を喰らった。
 翌朝になっても酔いは醒めず、止むなく、泥酔したまま鈴ヶ森まで引いていき、そこで磔に掛けたのである。おかげで刑場は異様に酒臭く、磔刑に処された熊蔵の臓物からは異臭が放たれ、見物客の不興を買った。
 ところで、留吉である。
 鬼火一家の沙汰はすべて火盗改めが取り仕切ってきたのに、留吉だけは
「奉公人くま殺しの余罪あり。よって伝馬町預かりののち、北町奉行の裁量に一任するものなり」
という特別な沙汰が下されたのだ。
 これは、姿見の勝蔵より託された金を用い、山田浅右衛門が内々に手を廻した結果であった。伝馬町に押込められた留吉は、その間、夜な夜なくまの亡霊に際悩まされて、一睡も叶わずにすっかり憔悴してしまった。この報せを囚獄石出帯刀から聞いた北町奉行・石谷穆清は、じろりと山田浅右衛門を睨み
「こうなることを知っていたな?」
「さて、何のことやら」
 山田浅右衛門は涼しい顔であった。
 留吉の仕置は、鬼火の熊蔵磔刑より九日のちに
「小塚原での獄門」
と決定された。
 伝馬町から新大橋を経て本所・深川と引き回され、吾妻橋袂で暫し晒し者にされた後、留吉は山谷堀沿いに土手通りを馬に揺られていった。かつては盗んだ金で遊び尽くした吉原の大門を左手に眺め、浄閑寺を尻目に下谷新町に入ると、間もなく小塚原である。
 この引き回しルートも、山田浅右衛門の
「是非の願い」
により、わざわざ雑司ヶ谷方面と反対方向に設定されたらしい。
 そんなことも露知らず、すっかり憔悴しきった留吉は
「……くま……成仏せえ」
と、譫言のように呟くばかりであった。
 こうして、留吉は小塚原の露と消えた。
 非人たちは山田浅右衛門の指示通り、血溜りに落ちた留吉の首を洗い清めることもなく獄門台に曝した。
 その夜、山田浅右衛門は雑司ヶ谷鬼子母神にいた。大太刀を握り締め、境内裏の鬱蒼とした薮のなかに足を踏み入れると、くまの姿形をした浮遊霊が漂っていた。
「お前さんを苦しめた留吉は死んだよ。もうこの世に呪いの欠片を残すこともあるまい」
 くまはにっこりと笑った。
「判るよな、お前さんの呪いが行く先もなく、彷徨うのは世の毒じゃ。すべて綺麗に持ち去ってくれなきゃな」
 くまが頷くのを見届けてから、ゆっくりと大太刀を抜き払った。
「さあ、成仏するんだ」
 山田浅右衛門は大太刀を一閃した。閃光と轟音のなか、くまの浮遊霊は、一瞬のうちに掻き消えていった。
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