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呪詛奇譚
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二
その頃、関八州を股にかけた盗賊団が、江戸市中で荒稼ぎをしていた。鬼火の熊蔵に率いられた盗賊〈鬼火一家〉である。鬼火一家の特色は残虐非道。例え幼児であっても、押込み先の者は皆殺しにするのが流儀である。女に至っては犯してから殺す。時には生娘を五、六人の男たちが輪姦することもあった。それゆえ町奉行所はおろか火付盗賊改めも神経を尖らせて、盗賊鬼火一家の行方を追った。
それらの詮議を嘲ら笑うように、鬼火の熊蔵はつとめを重ねた。
熊蔵は湯島横町の扇商・木更津屋に潜伏し、世の喧騒をせせら笑うように煙草を燻らせながら、次の仕事の目星を手下共に探らせていた。
木更津屋は十年前からこの湯島で地道な商いを続けてきた。目立たぬ店は都合がいい。ここは鬼火の熊蔵の片腕・狐火の猪助が切り盛りする、鬼火一家の隠れ宿である。
このような隠れ宿が、江戸市中には多数存在していた。不意の詮議があっても難儀せぬよう、そこには隠し部屋がある。鬼火の熊蔵にとって、江戸は勝手知ったる縄張り〈シマ〉だった。
「お頭」
ふと、隠し扉の外で声がした。狐火の猪助である。
「市松が、格好の金蔵を探ってきましたが、話を聞いちゃくれませんか?」
「市松はいるのかい」
「へえ、ここに」
「よし、入りな」
隠し部屋からみると、隠し扉は天井に位置する。居間の押入の床が引き戸になっているのである。熊蔵の見上げるなか、猪助と市松がするすると下りてきて、一礼してから座した。
「で、何処に目星をつけたんでえ」
「市谷田町四丁目にある、越中屋ってんですが」
「知っているぜ。確か神楽坂端にある、あの薬問屋か?」
「へえ」
「出張るだけの金はありそうかよ」
「ちょいと調べたんですが、越中屋は老中久世大和守の資金口らしいんでさ。天子様に袖の下を流し続けて、その妹姫様を公方様の奥方にするとかしないとか。そんな裏があって、ここ数年、越中屋は小石川や諸大名江戸屋敷の一手商いをし行っておりやす」
「貧乏大名とはいえ、一手商いとなりゃあ、それなりの上がりがある。ましてや天子様に袖の下掴ませるとなりゃあ……市松、お手柄だぜ」
鬼火の熊蔵は膝を叩いて、次の押込み先は越中屋だと即決した。
こうなると、熊蔵は早い。
何せ前の仕事を終えてから、早一ヵ月が経つのである。そろそろ次の仕事をしたいと考えているのは、鬼火の熊蔵だけではない。手下が逸って、安っぽい押込みを勝手にやられたら、看板に傷がつく。しかも、そんなことで足がついて
「全員御縄」
になった日には、盗人連中の物笑いの種だ。
この夜、召集命令が下され、木更津屋に鬼火一家が勢揃いした。越中屋襲撃の意思が明確にされ、押込みの日取りまでもが決した。この鬼火一家の末席に、なぜか姿見の勝蔵支配下の留吉の姿があった。
六月十日、夕刻。
久世家江戸屋敷を辞したくまは、転々と彷徨っていたが、いよいよ
(……疲れた)
と、氷川田圃に蹲っていた。
ふと見上げると、染み入るような夕焼けが目に飛び込んだ。泪で滲むその景色のなかに、橋の欄干が止まった。神田川に懸かる姿見橋である。くまの瞳には、その景色が涅槃の彼方のように映った。いっそ、そのなかへ溶け込んでしまいたい、そう思った。
(どうせ還る宛もなし……)
姿見橋から覗き込むと、神田川は夕焼けに反射して、黄金色の輝きを発していた。ゆったりとした流れの河は、まるでくまを誘っているようだ。
そっと、くまは欄干を乗り越えようと身を乗り出した。
そのときだ。
「おやめなせえ」
いつの間に傍らにきたのか、旅姿の尼僧が静かに語り掛けてきた。
「あんたには関係ないよ」
くまはポツリと呟いた。
そうかいと云いながらも、尼僧は、物凄い力でくまを引き戻した。キョトンと、くまは尼僧を見上げた。
「その気鬱、男かい?」
尼僧は素っ気なく訊ねた。くまは呆気に取られたまま、頷いた。
「それで、あんた死ぬ気かい」
「……だって」
「悔しくないのかい。男を恨めしく思わないのかい!」
「……」
「死ぬのはあんたじゃない、男の方だ。だってそうだろう?そんなろくでもない男のために、何故あんたが死ぬんだ」
「もう、行くところがないのだから、いいだろ」
尼僧は含み笑いを零した。
そして、藁人形と五寸釘を、くまに手渡した。
「死ぬなら死ぬでいいさ。しかし、あんたも江戸の女なら、そんな男を生かしておくんじゃないよ。殺してから、身の振りでも考えな」
「五寸釘だろ、いやだよ」
「いまごろそいつ、違う女を泣かせているだろうさ。許せないよなあ。どうせ死ぬなら、そいつを殺して、あの世で独り占めにすればいい。ほら、やっちまいなよ」
尼僧の言葉は、甘美な誘惑だった。
手のなかの藁人形を握り締めながら、みるみる凶暴な感情が込上げてくるのを、くまは覚えていた。
その頃、関八州を股にかけた盗賊団が、江戸市中で荒稼ぎをしていた。鬼火の熊蔵に率いられた盗賊〈鬼火一家〉である。鬼火一家の特色は残虐非道。例え幼児であっても、押込み先の者は皆殺しにするのが流儀である。女に至っては犯してから殺す。時には生娘を五、六人の男たちが輪姦することもあった。それゆえ町奉行所はおろか火付盗賊改めも神経を尖らせて、盗賊鬼火一家の行方を追った。
それらの詮議を嘲ら笑うように、鬼火の熊蔵はつとめを重ねた。
熊蔵は湯島横町の扇商・木更津屋に潜伏し、世の喧騒をせせら笑うように煙草を燻らせながら、次の仕事の目星を手下共に探らせていた。
木更津屋は十年前からこの湯島で地道な商いを続けてきた。目立たぬ店は都合がいい。ここは鬼火の熊蔵の片腕・狐火の猪助が切り盛りする、鬼火一家の隠れ宿である。
このような隠れ宿が、江戸市中には多数存在していた。不意の詮議があっても難儀せぬよう、そこには隠し部屋がある。鬼火の熊蔵にとって、江戸は勝手知ったる縄張り〈シマ〉だった。
「お頭」
ふと、隠し扉の外で声がした。狐火の猪助である。
「市松が、格好の金蔵を探ってきましたが、話を聞いちゃくれませんか?」
「市松はいるのかい」
「へえ、ここに」
「よし、入りな」
隠し部屋からみると、隠し扉は天井に位置する。居間の押入の床が引き戸になっているのである。熊蔵の見上げるなか、猪助と市松がするすると下りてきて、一礼してから座した。
「で、何処に目星をつけたんでえ」
「市谷田町四丁目にある、越中屋ってんですが」
「知っているぜ。確か神楽坂端にある、あの薬問屋か?」
「へえ」
「出張るだけの金はありそうかよ」
「ちょいと調べたんですが、越中屋は老中久世大和守の資金口らしいんでさ。天子様に袖の下を流し続けて、その妹姫様を公方様の奥方にするとかしないとか。そんな裏があって、ここ数年、越中屋は小石川や諸大名江戸屋敷の一手商いをし行っておりやす」
「貧乏大名とはいえ、一手商いとなりゃあ、それなりの上がりがある。ましてや天子様に袖の下掴ませるとなりゃあ……市松、お手柄だぜ」
鬼火の熊蔵は膝を叩いて、次の押込み先は越中屋だと即決した。
こうなると、熊蔵は早い。
何せ前の仕事を終えてから、早一ヵ月が経つのである。そろそろ次の仕事をしたいと考えているのは、鬼火の熊蔵だけではない。手下が逸って、安っぽい押込みを勝手にやられたら、看板に傷がつく。しかも、そんなことで足がついて
「全員御縄」
になった日には、盗人連中の物笑いの種だ。
この夜、召集命令が下され、木更津屋に鬼火一家が勢揃いした。越中屋襲撃の意思が明確にされ、押込みの日取りまでもが決した。この鬼火一家の末席に、なぜか姿見の勝蔵支配下の留吉の姿があった。
六月十日、夕刻。
久世家江戸屋敷を辞したくまは、転々と彷徨っていたが、いよいよ
(……疲れた)
と、氷川田圃に蹲っていた。
ふと見上げると、染み入るような夕焼けが目に飛び込んだ。泪で滲むその景色のなかに、橋の欄干が止まった。神田川に懸かる姿見橋である。くまの瞳には、その景色が涅槃の彼方のように映った。いっそ、そのなかへ溶け込んでしまいたい、そう思った。
(どうせ還る宛もなし……)
姿見橋から覗き込むと、神田川は夕焼けに反射して、黄金色の輝きを発していた。ゆったりとした流れの河は、まるでくまを誘っているようだ。
そっと、くまは欄干を乗り越えようと身を乗り出した。
そのときだ。
「おやめなせえ」
いつの間に傍らにきたのか、旅姿の尼僧が静かに語り掛けてきた。
「あんたには関係ないよ」
くまはポツリと呟いた。
そうかいと云いながらも、尼僧は、物凄い力でくまを引き戻した。キョトンと、くまは尼僧を見上げた。
「その気鬱、男かい?」
尼僧は素っ気なく訊ねた。くまは呆気に取られたまま、頷いた。
「それで、あんた死ぬ気かい」
「……だって」
「悔しくないのかい。男を恨めしく思わないのかい!」
「……」
「死ぬのはあんたじゃない、男の方だ。だってそうだろう?そんなろくでもない男のために、何故あんたが死ぬんだ」
「もう、行くところがないのだから、いいだろ」
尼僧は含み笑いを零した。
そして、藁人形と五寸釘を、くまに手渡した。
「死ぬなら死ぬでいいさ。しかし、あんたも江戸の女なら、そんな男を生かしておくんじゃないよ。殺してから、身の振りでも考えな」
「五寸釘だろ、いやだよ」
「いまごろそいつ、違う女を泣かせているだろうさ。許せないよなあ。どうせ死ぬなら、そいつを殺して、あの世で独り占めにすればいい。ほら、やっちまいなよ」
尼僧の言葉は、甘美な誘惑だった。
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